第2話 触れ合える唯一の体温
小鳥のさえずりで目を覚ますなんて、いつぶりでしょう。
私はふかふかの冷感マットレス(昨晩、私が加工しました)の上で、大きく伸びをしました。
「……んっ、よく寝ましたわ」
窓の隙間から差し込む光は強烈ですが、室内はひんやりと保たれています。
手足の指先まで感覚がある。
関節が痛まない。
歯がガチガチと鳴らない。
ただそれだけのことが、こんなにも素晴らしいなんて。
私はベッドから降り、昨晩の残りの水を飲み干しました。
常温に戻っていた水も、私の喉を通る瞬間にキリッと冷え、乾いた体を潤してくれます。
「さて、今日は何をしましょうか」
この小屋はボロボロですが、私にとっては最高の城です。
庭の雑草(どうやら魔界植物のようですが)を抜いて、家庭菜園でも始めましょうか。
それとも、近くの市場まで散歩に行ってみましょうか。
そんな暢気な計画を立てていた、その時でした。
ドォン!!
突然、小屋全体が揺れるほどの衝撃音が響きました。
ドアが激しく叩かれた……いいえ、蹴破られんばかりの勢いです。
「おい! 死体処理に来てやったぞ!」
野太い声と共に、蝶番が悲鳴を上げてドアが開きました。
入ってきたのは、朝の涼やかな空気を一瞬で消し飛ばすほどの「熱波」でした。
「……っ?」
私は思わず後ずさります。
入ってきたのは一人の男性でした。
燃えるような赤髪。
鍛え上げられた長身の体躯。
そして何より目を引くのは、彼の周囲だけ空気が陽炎のように揺らいでいることでした。
彼は部屋の中を見回し、私を見て目を丸くしました。
「あ? ……生きてるのか?」
「おはようございます。生きておりますわ、残念ながら」
私が努めて冷静に挨拶を返すと、彼は眉間の皺をさらに深くしました。
ドカドカと土足で踏み込んできます。
彼が一歩近づくたびに、室温が一度ずつ上がっていくような感覚。
まるで、歩く溶鉱炉です。
(すごい……!)
私は恐怖よりも先に、感嘆の息を漏らしてしまいました。
私の冷気で冷やされていたはずの部屋が、彼がいるだけで「常温」に戻されようとしています。
彼が手を置いた木製のテーブルから、チリチリと微かな煙が上がり始めました。
「おい、女。お前、昨晩ここで寝てたのか?」
「ええ、とても快適でしたわ」
「はぁ? 快適だと?」
彼は信じられないものを見る目で私を睨みます。
「ここは夜でも気温が三十度を下回らねぇ。しかもこの小屋は、断熱もねぇ石造りだ。普通の人間なら、一晩で脱水症状を起こして死ぬか、良くて熱中症だぞ」
彼は私の顔を覗き込んできました。
琥珀色の瞳が、獲物を値踏みするように細められます。
距離、わずか三十センチ。
本来なら、人間の体温だけで不快感を覚える距離です。
王都での私なら、この距離に人がいるだけで、相手の呼気に「熱い!」と悲鳴を上げていたでしょう。
けれど。
(……温かい)
彼の体から放たれる熱量が、私の万年冷え性の体を芯から温めてくれます。
不快な熱さではありません。
凍えた夜に飲むホットミルクのような、じんわりと染み渡る熱。
私は思わず、うっとりと目を細めてしまいました。
この人、なんて素晴らしい暖房器具なのでしょう。
「おい、聞いてんのか?」
私の反応が予想外だったのか、彼は苛立ったように舌打ちをしました。
そして、乱暴に私の手首を掴んできました。
「熱にやられて頭が湧いたか。医者に見せて……」
ガシッ。
大きく、ゴツゴツとした手が、私の細い手首を包み込みます。
その瞬間でした。
「ッ!?」
彼が、弾かれたように目を見開きました。
喉の奥で息を呑む音が聞こえます。
彼は自分の手と、私の手首を交互に見つめ、信じられないという表情で固まりました。
(……?)
何か変でしょうか。
確かに彼の手は熱いです。
おそらく、普通の女性なら「熱い!」と手を振り払うレベルでしょう。
火傷とまではいかなくとも、熱湯が入ったマグカップを押し付けられたくらいの熱量はあります。
でも、私にとっては「適温」なのです。
私の皮膚表面にある絶対零度に近い冷気の膜が、彼の過剰な熱を瞬時に中和しています。
プラスとマイナスが打ち消し合い、そこには「完璧なぬくもり」だけが残っていました。
「……お前、熱くねぇのか?」
彼が掠れた声で尋ねてきました。
「ええ。とても温かくて、心地よいです」
私は正直に答えました。
嘘をつく理由もありません。
すると彼は、震える手で、今度は私の手のひらに自分の指を絡めてきました。
恐る恐る、壊れ物を扱うように。
「……冷てぇ」
彼がポツリと漏らしました。
その声には、驚きと、そして微かな歓喜が混じっているように聞こえました。
「嘘だろ……俺に触って、火傷しねぇ人間がいるなんて」
彼の手から、凄まじい熱が伝わってきます。
でも、私の手は溶けません。
逆に、私の冷気が彼の手の熱を奪い、鎮めているのが分かります。
彼の手の赤みが、少し引いたように見えました。
「貴方は……?」
私が尋ねると、彼はハッとして顔を上げました。
しかし、繋いだ手は離そうとしません。
むしろ、逃がさないとばかりに強く握りしめてきます。
「……アダルベルト。このイグニスの領主だ」
「まあ、辺境伯様でしたか」
私はなるべく優雅にカーテシー(膝を折る礼)をしようとしましたが、手を握られたままなので、少し奇妙な体勢になってしまいました。
「元婚約者のエルザと申します。昨日は素敵な別荘をご用意いただき、感謝いたしますわ」
嫌味ではなく本心で言ったのですが、アダルベルト様は複雑そうな顔をしました。
「……別荘じゃねぇ、廃屋だ。つーか、なんで焦げねぇんだ?」
彼はまだ信じられない様子で、空いている方の手で私の二の腕に触れてきました。
やはり、焦げません。
私の冷たい肌が、彼の指の熱を吸い込んでいきます。
「ふぅ……」
彼の方から、安堵の溜息が漏れました。
その表情が、先ほどの凶暴な猛獣のようなものから、憑き物が落ちたように穏やかなものに変わります。
まるで、長い砂漠の旅でようやくオアシスを見つけた旅人のようです。
「気持ちいい……」
無意識なのでしょうか。
彼は私の腕をさすりながら、うわ言のように呟きました。
その姿を見て、私は確信しました。
この方もまた、私と同じなのだと。
私は「冷たすぎて」誰にも触れられなかった。
この方は「熱すぎて」誰にも触れられなかった。
相反する極致にある私たちは、お互いにとって唯一、害を与えずに触れ合える存在なのです。
(なんて……便利な方)
私の胸が高鳴ります。
この方がいれば、もう冬の寒さに怯える必要はありません。
それどころか、お湯を沸かす手間も省けるかもしれません。
「あの、アダルベルト様」
私が声をかけると、彼はハッとして我に返りました。
そして、自分が私の腕を撫で回していることに気づき、慌てて手を離……しませんでした。
離すのが惜しい。
そんな子供のような目で、私の手を握り続けています。
「……なんだ」
「その手を、もう少し握っていてもよろしいですか? 私、冷え性なもので」
私が小首を傾げてお願いすると、彼は顔を真っ赤にしました。
元々赤い顔が、さらに熟したトマトのようになります。
周囲の気温がまた一度上がった気がしました。
「……勝手にしろ」
彼はぶっきらぼうに言いましたが、その手は優しく、私の冷たい指を包み込んでくれました。
その時です。
彼の背後、開けっ放しのドアの向こうから、騎士らしき男性たちが走ってくるのが見えました。
「閣下! いけません! その建物に入っては、また火事に……!」
彼らは小屋の中に踏み込み、そして絶句しました。
彼らが見たのは、燃え盛る小屋ではありません。
ひんやりと涼しい室内で、罪人の女と手を繋いで佇む、彼らの主君の姿でした。
「か、閣下が……女性の手を握っている……?」
「燃えてない……?」
騎士たちの目が点になっています。
アダルベルト様はバツが悪そうに私から視線を逸らし、しかし手は離さずに、騎士たちに向かって低い声で告げました。
「おい、馬車を用意しろ」
「は? え、あ、はい! 処刑場へ連行ですか!?」
「違う」
アダルベルト様は、私の手を引いて歩き出しました。
その力強さに、私はよろめきながらもついていきます。
「俺の屋敷だ。一番いい客室を用意しろ。……それと、最高級の氷菓子もだ」
「はぁ!?」
騎士たちの素っ頓狂な声が響きます。
私は驚いて彼を見上げました。
彼は私を見ようとはしませんでしたが、その耳は真っ赤に染まっていました。
「逃がさねぇぞ」
小さく、私にしか聞こえない声で彼が呟きました。
「こんなに冷たくて気持ちいいモン、今まで知らなかったんだ。……責任取れよ」
それはまるで、愛の告白のようであり、同時に駄々っ子が新しいおもちゃを見つけた時のようでもありました。
私は思わず微笑んでしまいました。
「ええ、喜んで。暖房代わりになっていただけるなら」
私の小さな声は、彼の足音にかき消されてしまったようですが。
こうして私は、追放された翌日に、灼熱の辺境伯の屋敷へと「連行」されることになったのです。
手錠の代わりに、熱くて大きな手に捕まえられて。




