第1話 氷の令嬢は灼熱を愛す
「……おい、生きてるか? 魔女」
鉄格子の隙間から、しわがれた男の声が投げかけられました。
私はゆっくりと顔を上げます。
ガタゴトと揺れる馬車の中は薄暗く、木の板の隙間から差し込む日差しだけが光源です。
「ええ、生きておりますわ。ご心配なく」
私の答えを聞くと、護送兵の男性は「ヒッ」と短く息を呑み、慌てて視線を逸らしました。
まるで、見てはいけないものを見たかのように。
無理もありません。
ここは王国の最南端。
窓の外には、ゆらゆらと景色が歪むほどの陽炎が立ち上っています。
護送兵の顔は茹で上がったタコのように赤く、額からは滝のような汗が流れ落ちていました。
着ている鎧の隙間から、蒸気が上がりそうなほどです。
それなのに。
「……信じられねぇ。この暑さで、汗ひとつかいてねぇなんて」
彼の呟きが聞こえました。
そうです。
私は、汗をかいていません。
それどころか、王都を出発してからというもの、体の調子が驚くほど良いのです。
いつもなら手足の先が氷のように冷たくて、動かすのも億劫なのに。
今は指先まで血が通っている感覚があります。
(ここは……なんて過ごしやすいのかしら)
私は手錠をかけられた両手を膝の上に置き、小さく息を吐きました。
吐いた息が白くならなかったのは、いつぶりでしょうか。
◆
思い出すのは、数週間前の夜会のことです。
煌びやかなシャンデリアの下。
王太子ジュリアン様は、私を見下ろして言い放ちました。
『エルザ・フォン・ローゼンハイム! 貴様との婚約を破棄する!』
周囲の貴族たちがざわめく中、彼は軽蔑の眼差しを私に向けました。
隣には、可愛らしいピンクブロンドの男爵令嬢が寄り添っています。
『貴様のその冷たさには、もう我慢がならん! 傍にいるだけで寒気がするのだ! 私の愛しいミラが風邪を引いたらどうする!』
寒気がする。
その言葉は、鋭い氷柱のように私の胸に突き刺さりました。
私はただ、生まれつき体温が低いだけ。
触れるものの熱を奪ってしまう「冷却体質」であるだけです。
夏場は「歩く冷房」として、ジュリアン様の執務室に侍らされました。
冬場は「暖炉の薪の無駄だ」と、暖房のない北向きの部屋に追いやられました。
『貴様のような氷の女は、灼熱の辺境がお似合いだ! イグニス辺境伯領へ行き、その身を焦がして罪を償え!』
そうして私は、罪人としてこの馬車に乗せられたのです。
家族は誰一人、庇ってはくれませんでした。
父は「厄介払いができた」と安堵し、義母と義妹は「せいぜい干からびてきなさい」と笑いました。
(……でも)
私は馬車の壁にもたれかかります。
ひんやりとした感覚はありません。
外から伝わる熱気が、私の冷たい肌をじんわりと温めてくれます。
王都では、厚着をしてカイロを貼っても、常に骨の髄まで凍えていました。
誰かに触れれば、相手を凍傷にさせてしまう恐怖に怯えていました。
けれど、ここでは違います。
この熱気の中なら、私は「普通」でいられるのかもしれません。
「おい、着いたぞ。降りろ!」
乱暴な声と共に、馬車の扉が開かれました。
強烈な熱波が、どっと中に流れ込んできます。
護送兵が顔をしかめ、手で顔を扇ぎながら後ずさりしました。
私はスカートの裾を払い、ゆっくりと地面に降り立ちます。
「…………」
目の前に広がっていたのは、赤茶けた大地と、荒々しい岩肌が剥き出しになった山々でした。
遠くに見える火山からは、黒い噴煙が上がっています。
空は暴力的なまでに青く、太陽がギラギラと照りつけていました。
暑い。
確かに、一般的には「地獄のような暑さ」なのでしょう。
近くにいた馬が、荒い息を吐いて泡を吹いています。
出迎えの兵士たちも皆、薄着で肌を露出し、それでも暑さに喘いでいました。
けれど、私にとっては。
(ああ……ちょうどいい温度ですわ)
思わず、口元が緩んでしまいそうになります。
それを必死に噛み殺し、私は澄ました顔で兵士に向き直りました。
「ここが、私の新しい住まいですか?」
私が指差したのは、城壁から遠く離れた荒れ地にポツンと建つ、小さな石造りの小屋でした。
屋根は一部が崩れかけ、壁には蔦が絡まり、廃屋にしか見えません。
護送兵は意地悪く笑いました。
「そうだ。お前のような冷血女にはお似合いのゴミ溜めだ。精々、熱中症で野垂れ死ぬんだな。水はやらんぞ」
彼はそう言い捨てると、逃げるように馬車に乗り込みました。
これ以上、一秒たりともこの場所にいたくないのでしょう。
馬車が土煙を上げて去っていきます。
私は一人、灼熱の荒野に取り残されました。
取り残されたのですが……。
「ふふっ」
我慢できずに、笑いが溢れてしまいました。
野垂れ死ぬ?
とんでもない。
私は旅行鞄を拾い上げ、軽やかな足取りで小屋へと向かいます。
足元の地面は焼けた鉄板のようですが、私の靴底を通せば、程よい床暖房に早変わりです。
ギイィ、と錆びた音を立ててドアを開けます。
中は酷い有様でした。
床には砂埃が積もり、隅には蜘蛛の巣。
窓ガラスは割れ、熱気が籠もってサウナ状態です。
おそらく室温は四十度を超えているでしょう。
普通の人間なら、五分といられずに脱水症状を起こすはずです。
「まずは、お掃除からですね」
私は鞄を置くと、懐から一枚のハンカチを取り出しました。
そして、そっと壁に手を触れます。
「ふぅ……」
体の中に溜まっていた「冷たい魔力」を、指先から流し込みます。
王都では、これを抑えるのに必死でした。
抑えなければ、部屋中の水差しが凍りつき、窓ガラスに霜が降りてしまうからです。
でも、今は遠慮はいりません。
誰も見ていないのですから。
パキッ、パキパキッ……。
微かな音と共に、石壁の温度が急激に下がっていきます。
壁に染み付いていた熱が私の体へと吸い込まれ、代わりに私の冷気が部屋全体に行き渡ります。
灼熱のサウナが、瞬く間に高原の避暑地のような涼しさへと変わりました。
「……んっ、ふぅ」
気持ちいい。
魔力を放出する開放感と、外から入ってくる熱の供給。
そのバランスが完璧です。
私は次に、ボロボロのベッドに近寄りました。
シーツは埃まみれで使い物になりませんが、マットレスの中身は藁です。
「少し、冷やしますね」
マットレスを撫でると、冷気が繊維の奥まで浸透し、ダニや虫が一瞬で活動を停止するのが分かりました。
実質的な殺菌(冷凍)消毒です。
ついでに、冷たくてひんやりとした「冷感マットレス」の完成です。
持参したシーツを敷けば、そこは王族ですら味わえない極上の寝床。
私は埃を風魔法で外へ追い出し、窓枠には氷の薄い膜を張りました。
これで外の熱気を遮断しつつ、光だけを取り込めます。
作業を終える頃には、夕日が沈みかけていました。
空が紫色に染まり、遠くの火山が赤く輝いています。
私は持ってきた水筒の水を一口飲みました。
ぬるくなっていた水も、口に含んだ瞬間にキリッと冷たいミネラルウォーターに変わります。
「……幸せ」
私はそのまま、ひんやりとしたベッドに身を投げ出しました。
誰にも罵られない。
「寒い」と嫌な顔をされない。
凍えて震えることもない。
ここは地獄などではありません。
私にとって、生まれて初めての「天国」でした。
「おやすみなさいませ、皆様」
私は王都の方角に、心の中で別れを告げました。
今頃、私のいなくなった王城がどうなっているかなど、知る由もありません。
心地よい冷気と、外から伝わる大地の熱に包まれて。
私は生まれて初めて、朝まで一度も目を覚ますことなく、泥のように眠りに落ちたのです。
翌朝、この小屋の扉を叩く「招かれざる客」が現れることなど、露知らずに。




