四話 胸痛とその理由
翌日の昼休み。てっきり今日から鼻つまみ者として生を享受するものと思い込んでいたが、そこにあるのは相も変わらず変化に乏しい日々だった。誰に話しかけるでも、話しかけられるでもなく、ただ時が過ぎるのを待つだけ。
犬島はあれを口外しなかったのだろうか。或いは口外したけど広まらなかったのだろうか。まあ、いずれにせよどうだっていい。もう俺には関係のないことだ。
スマホが震える。見ると、今しがた思いを馳せていた人物からのメッセージだった。
【わらび:今日の放課後、昨日と同じ場所に来い】
……彼女は何を考えているのだろう。命令権は彼女にはもう無く、強制力もない。俺の放課後は俺のものだ。見なかったことにして、スマホを仕舞う。
喧騒の中で、俺は寝たふりを始めようとする。しかし、そのはずみに筆箱を落としてしまった。ああ、やらかした。
中のペン類が少し散乱する中、俺は恥ずかしさまじりにいそいそと片付けていると、
「はい、これ」
教会のベルのように、心が洗われる声が聞こえる。顔を上げると、そこにいたのは朝長日廻さんだった。
僕と正反対の人、といえば彼女の人となりは伝わるだろう。地毛らしい茶色がかったボブヘア。笑顔がよく似合うあどけない顔立ち。学年でも指折りの美少女で、男子からの人気が高い。かくいう俺も、少し気になっている。
———恋愛する権利など、俺にはないというのに。ましてや、相手は高嶺の花だ。そもそも、彼女とは住んでいる世界が異なっているのだ。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして!……日暮君、大丈夫?」
その挨拶で会話が終わるものと見当をつけていたから、いきなりこの身を案じてくれたことに俺は動揺した。
「え、どうして?」
「んー……なんか、気分が落ち込んでそうだったから? 違ったらごめん!」
そんなに顔に出ていたのだろうか。自分で決めた道を歩んでいるのに、人様に心配をかけるなんてあってはならない。また一つ、俺は嘘を重ねる。
「……心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ」
「そう? ならよかった!」
朝長さんはそう言い残して、再び同じグループの子との会話に戻る。俺は寝たふりをする。今度は、筆箱を落とさぬように。もう、少しでも期待をしてしまうのはごめんだ。この胸が痛むのは、そのせいだろう。
×
放課後。俺は廊下を歩いていた。窓にはどんよりとした雲が見える。西の空には霞んではいるものの、叙情的な夕方の景色が描かれていた。
もう、彼女に会う必要はない。自分が歩むべき道は、この廊下の先にある。いつものように、いつもの電車に乗って、いつものように帰宅して、そして……。
その筈だったのに、うっすらと金管楽器の音色が聞こえてくる。文化棟の廊下。俺はいったい何をしているのだろうか。階段を登り、目指していないはずの場所に向かう。
空き教室の前まで来た。まだ間に合う。ここで引き返せば、日常に元通り。少し夢を見ていただけということにすればいい。だから、このドアを開ける必要なんてないのに。
他でもない、俺の手によって、ガラガラと音が響いた。
「……」
「……用件はなんだ」
入るや否や、俺は口にする。
俺は愚かしくも、そのドアを開け放ってしまった。椅子に座って本を読む少女。昨日と違う点は、夕陽が犬島の髪を照らしていないことだ。
彼女は俺を視認すると、質問をしてきた。
「単刀直入に言う。本当に、青春否定部に入らなくていいんだな?」
なんだ、そんなことかと、俺は内心苦笑した。昨日も伝えたはずのその言葉を、俺はもう一度言う。なんなら、それを再確認するためにここに訪れたことにすればいい。
嘘をついて、な。
「……ああ。俺はもう全てを諦めたからな」
俺がそう言うと、彼女は本を閉じて机に置き、立ち上がって近づいてきて、そして。
———俺の胸ぐらを掴んだ。
「じゃあ、なんでここに来たんだよ……」
「え?」
状況を飲み込めない俺が聞き返すと、彼女の握り拳により一層の力が入った。そして、予測不能なくらいの大声で、犬島は叫んだ。
「……全てを諦めたって言うなら、今日ここに来たのはなんでだよ!!!!!!」
激情が、教室内に木霊する。ここに来た理由。それは、俺の意思表示を再確認するためで。嘘ではあるけど。
「いや、それは……」
叫び声の後、静寂が支配する部屋の中。負け戦承知で反論しようとすると、また彼女は声を張り上げた。
「全てを諦めたって言うなら、てめえが今も呼吸を続けている理由なんかないだろ!!! なに過去の自分に囚われてんだ!!!」
「うわ!?」
犬島は力任せに俺を押し倒した。彼女は俺の上に馬乗りになって、再度胸ぐらを掴んで俺の上体を浮かす。背面が少し痛いが、今はそんなことを気にする余裕もない。
彼女に、向き合う必要がある。
彼女に? 本当にそうか? 向き合うべきは、或いは嘘をついていたのは。
「何が全て諦めただよ。全部に本気になってから言いやがれ!!!」
俺自身についてなんじゃないのか?
胸がさらに痛み出す。気づきたくなかった思いが産声を上げ始めた。
「お前のことを知らなかったら、こんなに声を荒らげねえよ。知らないうちにお前が諦念に支配されてても、一切感情が動くこともない」
彼女は話し続ける。
「でもお前のことを知ってしまったから、私はお前をぜってえ救ってみせる。あんな厨二臭え文字列に支配されるような人間になんか、させてたまるものか!!!!!」
彼女の思いの丈を一頻り聴き終えて、俺はその産声の正体に気づいた。気づかない方が、きっと幸せだった。知らないままだった方が、楽だった。でも、理解してしまった。俺は、俺は。
———諦めたくなんかなかったんだ。
そうか。俺は昔の自分なんていう過去に囚われていただけだったのか。こんな簡単なことに気づくまで、随分と時間を費やしてしまった。俺はあの文の言う通り、空け者だ。
だから、これからはもうそうならない。俺は、諦念なんて抱かない。限界まで足掻く。あんな文章なんてクソ喰らえだ。何が冷めた目だ。俺が俺の人生を全うしなければ、誰が全うしてくれるというんだ。
「何か希望を抱いたんだろ? 少しでも期待したんだろ? 私はその小さな芽を絶対に絶やさない。だから、部員になれ、ウツケ」
その不器用な誘い文句に、俺は笑みをこぼした。
「……はは」
「なに笑ってんだよ」
「……簡単なことだったんだな。犬島はきっと、最初から俺の可笑しさに気づいてたんだな」
「ふん、どうやら自分の愚かさに気づいたようだな、腐れ外道」
「腐れ外道て……あまりに酷くないか」
言いつつも、俺は笑っている。過去の俺に囚われていた俺はもういない。気分はいたって晴れやかだ。きっともっと、楽しい日々が待ち受けている。
彼女と、犬島と一緒なら、これから、かつては失ったはずの情熱を持って過ごしていけるだろう。
俺は起きあがろうとする。彼女はそれを察して、俺の上から退いてくれた。
「青春否定部、入らせてもらうよ」
そう告げると、彼女は不機嫌そうな顔をして口を開く。
「本当は、昨日その返答を聞くつもりだったんだけどな」
皮肉混じりのセリフに思わず俺は苦笑した。諦念に支配されていた、昨日までの俺を殴りに行きたい。
「じゃあこれで、青春否定部は発足したってことで。つっても、必要な書類とか出してねえから、まだ仮だけど。言っておくが、基本原理は青春を否定することだからな。活動内容及び時期は私の気分次第。お前は私の手となり足となれ。じゃ、今日のところは解散」
わずかな希望を糧に、俺を甦らせてくれた彼女はそう言い残して足早に去っていった。部長命令なので、俺も同じように帰ることにした。
その前に、窓際に行って、景色を眺めてみた。晴れやかで、どんよりとした雲は消え失せていた。こんなに美しかったんだな。夕焼けって。
×
「ああああああああああああああ」
帰宅してしばらくしてから、黒歴史から黒歴史を生み出すとかいう最悪な永久機関を作り出すことに成功した俺は、布団をかぶって叫んでいた。冷静になると恥ずかしすぎるだろ。何やってたんだ俺。
あの状態を人様に見られたのが恥ずかしすぎる。しかも相手はあの犬島藁姫。本当に勘弁つかまつりたい。高校生にもなって、黒歴史を作るとは思わなかった。
でも、だ。あの状態から俺を引き戻してくれたのは紛れもなく彼女だ。そして、俺は今日重要なことを彼女に言えていない。
だから明日、彼女に伝えなければならない。今日の忘れ物について。




