三話 諦念と胸痛
翌る日。朝ぼらけの眠気を歯磨きと洗顔で排水溝に流す。それでも覚醒しない脳をパンとコーヒーで無理やり寝床から引き剥がしつつ、情報番組のジャンケンでまず一敗を喫した。なんか昨日から負けてばっかだな、俺。
それが終われば支度だ。都合三十回弱通した制服の袖。高校に入学するに際して購入したブレザーに、違和感を抱くことは殆ど無くなっていた。ズボンを履き、髪をなんとはなしにセットして社会的人権を確保する。
黒いリュックを見やる。最早俺は置き勉をマスターしているので、教科書は学校のロッカーに置いてある。鞄の中身はノートとか弁当とか体操服等だけだ。
エスデージーズが叫ばれる昨今において、この省エネな行動は至って合理的といえる。誰一人取り残されない世界の中で取り残された、俺のささやかな反抗だ。
やたらと軽いそれを背負って、玄関のドアを開ける午前七時半。梅雨入り前の季節は、不安定な空模様を半球状のキャンパスに描いていた。春の天気は変わりやすい。時代柄不適当かもしれないが、女心のようだ。女心と秋の空、なんて物言いがあるが、ありゃどう考えても春の空の方が合っている。
そうしてまた、俺の不変的、否、それを通り越して普遍的な一日が始まるのだった。
来る放課後を除いては。
×
こともなげに帰りのホームルームまで終えて、放課後。俺は彼女のお望み通り、文化棟二階の空き教室に向かっていた。
我らが県立守江高校。一学年あたり七クラスあるそこそこの人数規模と、それなりの進学実績が特徴の高校だ。
校舎が漢字の『旧』を横にしたような形をしており、『日』の部分の三本線に一年生棟、二年生棟、三年生棟が配置されている。音楽室や美術室等が集まっている文化棟は、『旧』でいうところの左側の棒だ。
余談だが、この高校にはA組からG組までの七クラスがあり、A組は理数科、あとはアルファベットが早い順に偏差値が高い……と噂されている。そして、彼女はB組在籍だ。その噂が本当なら、彼女はあんな見た目、言動とは裏腹に、相応に頭が良いということになる。彼女の耳にこの評価が届いたら怒られそうだから内心に留めておく。まあ元より口を滑らせるような存在もいないが。
俺が在籍する、頭脳レベル中の中のちょい上ことD組から文化棟までは歩くとなると中々に骨が折れる。階段を降り、南に向かって廊下をしばらく歩く。今はその最中だ。
辛うじて西の方は夕焼けが描かれていたが、その反対側の窓には曇天が映っていた。いつもだったら活気付いている中庭は閑散としており、どこか重苦しい、外のはずなのに閉塞感が立ち込めていた。ベンチは寂しそうに人を待ち続けていた。
いつ雨に降られてもおかしくないこの天気だから、人気がないのは当たり前だが、普段の曇りの日よりも、寂寥感が増しているような気がした。
その代わりに、談笑する声が教室から聞こえる。それを横目に俺は歩き続ける。リノリウムの床と上履きが擦れる音が響く。薄暗い灰色に包まれた世界の中。俺が住むことを諦めた、決して俺と交わるはずのない世界は、今日も華やかにこの目に映った。この、濁った目に。
×
その棟は名前の通り、文化的なことを行う教室が多く配置されている。ゆえに廊下や階段の移動中、吹奏楽部の練習の音がうっすらと聞こえる。
文化棟の二階、空き教室。かつては一年生の教室として使われていたらしいが、少子化の影響で今は物置になっている。ここであってるんだよな?
ドアの窓は磨りガラスになっており、中を覗くことは叶わない。この向こうに彼女が既にいるのかは分からないが、もし待たせていたらまた罵詈雑言の嵐を喰らうことになる。それは嫌なので、場所の是非の不安もそこそこに、俺はドアを開けた。
「おせーぞ。てめえは蝸牛か」
「……前世はそうだったかもな」
会うなり暴言が飛んできたことに、俺は少し安堵してしまった。いやなんでだよ。普通に視認して安心しろよ。
犬島は会議机の上に荷物を置いて、椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた。ちゃんと本を読んでて何故あんな口調になるのか、俺には理解できない。
何か話した方がいいかと、俺はなけなしの頭を捻ってから口を開く。
「この空模様だと、帰りが不安になるな。傘持ってきてるか? 俺持ってきてないんだよ」
「ずぶ濡れで帰ればいいだろ。なに文明の利器に頼ろうとしてんだ」
「え、俺人類の発明品の恩恵にあやかることすら許されないの?」
どうやら彼女の脳内の辞書に世間話という三文字は記されていないらしい。どんな欠陥辞書だよ。出版社はどこだよ倒産しろ。
曇り空の狭間から覗く西陽が右手から差し込んで、彼女の紺色の髪を穏やかに照らしていた。橙と紺のコントラストは、少し不安になるような、まさにこれから訪れる夜になりかけの夕映のようだ。
彼女は仕切り直すように本を閉じて、立ち上がる。
「まあそんなんはどうでもいい。昨日の続きだ」
「……お手柔らかに、な」
「とりあえず、戸を閉めろ」
彼女は俺にドアを閉めるよう指示してから、置かれていた移動式のホワイトボードをドアから見て正面に設置した。どうやらこれに色々と書いていくらしい。
俺は手頃な椅子を持ってきてその前に置き、着席した。校庭に面しているゆえ、開けられた窓から運動部の練習の声が聞こえてきた。
「んじゃ説明していくぞ。『青春否定部』について」
息を呑む。青春の否定、とは、彼女にとって、ひいては俺にとってどんなものなのか。これからどう世界は変わっていくのか。腹の中がくすぐったくなる。俺は柄にもなく緊張しているのだろうか。
俺が無言のまま頷くと、彼女は黒ペンでホワイトボードに、『青春』と書いた。
「私は、これの存在を訝しんでいる。これが是とされるこの世界をも、訝しんでいる。なぜなら、私自身が経験したことがないからだ」
「……」
息を呑んだというのに、その息はヘモグロビンと結合するだけだった。ああ、全身に酸素が行き渡るぜい。
彼女の言い分は随分馬鹿げたものだった。経験したことがないから否定する。そんな子どもみたいな大破綻した理論を振り翳すなんて思わなかった。
俺は、彼女に少し期待していたのかもしれない。明晰な頭脳を用いて、全てに楯突いていく。いわば、ダークヒーローのような理想像を、勝手に抱いていた。
物言わぬ俺を見て、犬島は嘲笑するように肩をすくめた。
「……ま、思考速度まで蝸牛なお前には、ちと分かりにくい話だったかもな」
「いや、思考速度とかの問題じゃなくてだな……仮にノイマンが聞いたとしてもなんのこっちゃ分かんねえと思うぞ」
変わり映えのしない人格否定の言葉が耳に届くが、意に介さないことにした。勝手に期待を抱き、勝手に失望して、それでも俺は軽口を叩く。
「あのノイマンでもか? それはそれは、随分突飛な話をしちまったみてえだな。まあでもこれから詳しく説明するし、黙って聞け」
意外とこちらの言い分を聞いてくれた。いやこれで聞いてくれた判定するのちょっと俺甘いだろ。或いは昨日の今日で感覚を崩されているのだろうか。
「とにかく、青春っていうものの存在を訝しんでんだよ。私は」
彼女の口から発せられる言葉は、暴言か否か問わず、もう殆ど俺の耳に届いていない。根底に子どもを宿す理論を、誰が気に留めるだろうか。
また俺の目は濁っていく。少しの希望は時として、大いなる絶望よりも性質が悪い。これだから、俺は冷めた目で世界を見ていたんだ。だからその世界を否定するまでもなく、諦めたというのに。
彼女は透き通った瞳で、高らかに言う。
「だから、青春を否定するために、それを味わってみたい」
俺は目を見開いた。味わう? 否定するために? 揺れ動く心に気づかないふりをしつつ、どういうことかと顔を上げる。
「……なんで」
「否定するためにはそれをよく知る必要がある。だから味わうってだけの話だ。考えなくても分かるだろ負け犬。青春に関する理論及び知識はすでに頭の中に入ってるからな。あとは経験だけなんだよ」
負け犬かどうかはさておき、犬島の考えは一つ筋は通っている。ホワイトボードには青春の他に『否定』『味わう』『負け犬』と書かれている。いや最後のおかしいだろ。
しかし、俺の頭には、それを肯定的に捉えられるほどの余裕はなかった。
青春をしようなど、俺には烏滸がましい、許されざる行いだ。全てを諦めたこの身が、もう一度諦める前の世界に飛び込もうなど、欲望を抱くことすら恥ずかしい。
そうだ。全て諦めたんじゃないか。諦念で以て世界を見てきたんだ。俺は。だから必竟、あのノートが大衆に晒されようと関係ない。後ろ指を刺されようが、いるべき場所に、いるべき人間が収まるだけの話でしかない。
モブはモブらしく、舞台装置であればいいのだ。
だから、俺は痛む胸を無視して、それを告げた。
「……話はわかった。だが、その話には乗れない」
「はあ? 乗る乗らないの前に、お前は私に従わざるを……」
俺は彼女の言葉———恐らくは罵倒が続くだろう———を遮って、自分勝手な思いを伝える。
「……あのノートなら、勝手に晒してくれていい。気づいたんだよ。別になんの影響もないってな」
「……は?」
彼女は面食らったような顔をした。
「そうだろ? あのノートに書いてあることはとりもなおさず俺の現状だったんだ。全てを諦めた人間が黒歴史を晒されたところで、何か変わるか?」
自分の意見を伝えるのは心臓が壊れそうなほどに緊張した。だが、これでいい。彼女の考えている未来は、俺からすると眩しすぎた。
湿気をはらんだ春の風が吹いて、彼女の髪が靡く。窓から見下ろす道に生えている桜はとうに散ってしまっている。物悲しく響くチューバの音色。宵になりかけの、不安定な夕映えが世界を包んでいる。
俺の横暴な問いかけを受けて、彼女は表情を崩さないまま、静かに訊いてくる。
「……それ、本気で言ってんのか?」
俺は一瞬答え淀んで、口吻を動かすばかりに留めてから、深呼吸した。
「……ああ」
「……そうか」
一度彼女は間を置いた。手駒として使える人間が、いきなり契約を反故にしたような者だ。だから、この先に紡がれる言葉に、反論する権利は俺にはない。
そして。
「……じゃあ、もうお前に用はない」
失望したような声で、戦力外通告を喰らったのだった。きっと、これが現実的な道なのだ。だから間違っていないはずなのに、なのに。
———無視できないほどに痛むこの胸は、いったい何を訴えているというのだろう。




