余談:家政婦と執事
前話に出てきた家政婦と執事の甘くなる話です。
子爵家別邸で家政婦をしているヒルダには、最近気になるものがある。
自転車だ。
フットマンとして働くジェレミーが先に手に入れたものと、若い子にあまい前子爵夫人が本人には内緒で用意したアイリスのものと、二台の自転車がここ子爵家別邸にはある。
すっかり自転車を乗りこなせるようになったアイリスは、コックと一緒にお弁当を作り、休日になるとジェレミーとふたりで自転車に乗って遊びに行っているらしい。
別に休みの日のことにまで口を出すつもりはない。
仕事に影響がなく、素行の悪い行いをしていなければ、休日に何をしようと自由だ。
「……」
ちらりと自転車を見る。
休みのたびに乗って出かけるくらい、これは楽しいものなのだろうかと、心の中で思った。
ヒルダがアイリスくらいの年の頃、大体三十年ほど前にはまだ自転車なんて出回っていなかった。
一応あることはあったのだが、前輪と後輪の大きさが異なり、乗るのも難しいと言われている自転車だった。
それでも、労働者には縁のない、貴族の持ち物だった。
あれから自転車の形もだいぶ変わり、値段もあの頃よりは大分安価になったらしい。
確かに自転車があれば出かけるにも便利だろう。
ヒルダがまだ若かった頃にはこんなものはなかったので、遠出なんてまずできなかった。
運が良ければ、主人たちが出かけるときに供をして一緒に街まで行けるくらいだった。
もしもあの頃に自転車があれば、乗って自由に遊びに出たりしたのだろうか。
しかし、ヒルダが若かった頃は女性が一人で出歩くなんて考えられず、なるべく家の中にいた方が良いと言われていた。
あの頃に比べると時代は変わったものだ……そんなことを思っていた、そのとき。
「自転車が気になりますか?」
「!」
突然後ろから声が聞こえて、ヒルダは飛び上がらんばかりに驚いた。
振り返れば、そこには長年一緒に働いている執事のチャールズがいた。
一体いつからいたのだろうかと、ヒルダは挙動不審になってしまった。
「べ、別に何も気になってなどおりません……!」
「そうですか? ずいぶん長く見ていたので、気になるのかと思いました」
「黙って人を見ないでくださいませ!」
普段は若いアイリスに大声を出してはいけないと指導しているヒルダだけれども、思わず大声を上げてしまった。
気づいてから慌てて口を押えてももう遅い。
気まずい空気が落ちる。
しかし気まずいと思っているのはヒルダだけなのか、チャールズの方は普段と変わらない無表情だ。
長年共に働いてきたが、この執事はどこかつかみどころがないと、ヒルダは思った。
そう、それこそアイリスとジェレミーくらいの年ごろから、ずっと一緒に働いてきた。
真面目で少々融通が利かないと言われるくらい仕事人間だったヒルダと、同じくらいかそれ以上に真面目で仕事人間なチャールズ。
前子爵夫人が別邸に移る際に、使用人の中でも年長者二人がついていくことになり、腐れ縁ともいえる付き合いだった。
その顔を見上げてみれば、お互いに年を取ったものを感じる。
「……もういい年なんですから、自転車に興味なんてありませんよ。転んで怪我でもしたら、寝たっきりになりかねませんからね」
「そうですね。確かに、我々の年では乗りこなすのは少々難しいかもしれません」
ヒルダもいい年だが、チャールズだっていい年なのだ。
確かに自転車を見てはいたが、まさか乗ってみようなんて無謀なことは思っていない。
ただ少し、自由に出かけるアイリスとジェレミーが楽しそうだと、そう思っただけだ。
ヒルダがそう考えていると。
「では、我々はゆっくり歩いて散策でもしませんか?」
チャールズがそう言った。
一瞬、何を言っているのかヒルダには理解できなかった。
ぽかんとした顔で、チャールズを見上げてしまう。
チャールズはこほんと一つ咳払いをすると、視線をまっすぐに向けた。
「若い二人を見ていると、とても楽しそうだと思ったんです」
先ほど心の中で思っていたことと同じことを言われて、ぽかんとしていたヒルダの顔が徐々に赤くなっていったのは、すぐあとのことだった。
前子爵夫人から見ればこの二人も充分に若い子なので、きっと応援しています。
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