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十九世紀の片隅で、メイドは自転車に乗る




「ジェレミー、それどうしたの!?」


 田舎の子爵家別邸でメイドとして働くアイリスは、同僚であるフットマンのジェレミーが持って来たものを見て思わず声を上げた。


「中古だけど、安くで譲って貰ったんだ」


 ジェレミーがどこか得意顔で、それを見せつける。


 自転車だ。


 少し前に貴族の間で大流行し、最近では裕福な平民の間でも人気の代物だ。

 そんな自転車が、朝の掃除をしている忙しい時間にやってき、妙に誇らしげな顔をしながら「良い物を見せてやるよ」と言ってきたジェレミーの側にあった。

 アイリスは掃除途中だった箒を置くことも忘れたまま、自転車に近づいて色々な方向から眺めた。

 自転車を見ることは初めてではない。

 少し前に、ここ子爵家別邸の主である前子爵夫人の孫娘たちが休暇で訪れたときに持参していた。

 真新しい自転車に颯爽と乗ってサイクリングに行く様子を、屋敷の滞在人数が増えて忙しく働いていた合間に見た。

 自転車に乗れば遠くの街だって自由に行けるし、何よりも早く走れるこの乗り物に乗っているときの爽快感は、言葉で言い表すことができないほど素晴らしいと聞く。


「ジェレミーは自転車に乗れるの?」

「乗れるさ。前に働いていたお屋敷で、先輩が持っていたから貸して貰ったことがあるんだ」


 そう言いながらジェレミーは自転車のハンドルを撫でる。

 アイリスはそれを羨望のまなざしで見つめた。

 自転車が大流行してからというもの、女性だって乗るようになったし、最近では平民でも買えなくはない値段になってきたが、それでも若いメイドの給金ではまだまだ手が出せない物だ。

 前子爵夫人の孫娘たちが服の裾を風になびかせながら自転車に乗る姿は、見慣れたはずの屋敷周りの丘陵地が、まるで一枚の絵のように美しく見えた。

 あんな風に自由に走ってみたいと羨ましく思ったけれど、アイリスの実家には幼い弟妹達がたくさんいるので仕送りをしなければならず、自転車なんて夢のまた夢だった。

 そんな自転車を、ジェレミーは手に入れることができたらしい。

 メイドよりフットマンの方が給金は高いが、それでも簡単に買えるものではないはずなのに、ジェレミーの側には彼だけの自転車がある。

 アイリスの目には今年一番の驚きと羨望が宿った。

 そんなアイリスに、ジェレミーが言った。


「乗りたいか?」

「え?」

「貸してやっても良いぜ」


 ジェレミーの言葉に、アイリスは思わず目を見開いた。

 自転車に乗れるらしい。

 前子爵夫人の孫娘たちが華やかな裾を風になびかせながら颯爽と乗っていた流行最先端の自転車を、貸してくれると言った。

 なんてジェレミーは優しいのだろうと、そう思ったとき。


「乗せてくださいジェレミー様、って言ったら貸してやるぜ」


 ジェレミーは気障ったらしくアイリスを見下ろしながらそう言った。

 その瞬間、アイリスのそばかすが浮かんだ頬が不満げに膨れる。

 この屋敷には年老いた前子爵夫人と、年配の執事と家政婦にコック、そして若いメイドのアイリスとフットマンのジェレミーが住み込みで働き、他は通いの庭師や忙しいときに臨時のメイドが増えるくらいだ。

 十七歳のアイリスと十八歳のジェレミーは年齢が近いせいか、仕事のやり方や日常のちょっとしたことでよく衝突する。

 ひとつしか年上でないのに先輩面し、背が高いからって上から見下ろすジェレミーのことを、アイリスは常日頃からうっとうしく思っていた。

 今だってそうだ、自転車を手に入れただけでなんて偉そうなんだと、アイリスは心の中で呟く。

 しかし、アイリスの中で好奇心の方が勝った。


「……乗せてください、ジェレミーサマ」

「良いだろう」


 ジェレミーの上から目線な言い方だって聞き流せることができた。

 なんたって、自転車は憧れの乗り物なのだから。







 前子爵夫人に許可を貰い、アイリスはジェレミーと裏庭で自転車に乗る練習をすることになった。

 アイリスが自転車に夢中になって仕事がおろそかになることを懸念した家政婦は渋い顔をしていたが、若い二人に甘い前子爵夫人が許可を出したので、アイリスは強気で押し通した。

 もちろん仕事を放り出して練習するつもりなんてない。

 むしろ、自転車に乗れると思えば、いつもより仕事を早く終わらせようと効率良く働いた。

 そして待ちに待った自転車の練習時間だ。

 転んだりして汚してはいけないので仕事着から着替えて、急いで裏庭へと向かう。

 裏庭にはすでに自転車があった。

 もちろん持ち主であるジェレミーも側にいたが、アイリスの目には自転車しか入っていない。

 自分がこれからこの自転車に乗れる。

 そう思うと胸が高鳴るほど嬉しくて、右から見たり左から見たり、下から覗いたりもした。


「いいから早く乗れよ」


 横からジェレミーがせっかちなことを言ってくる。

 この高揚感も楽しみたいという気持ちが分からない男だと、アイリスは文句をつけたくなった。

 だが持ち主はジェレミーなので、ここは大人しくしておく。

 そうして自転車の外観を目に焼き付けたあと、いよいよ乗ることになった。

 乗っているところを見たことがあるので、何となく分かる。

 前後についてる車輪の間にある小さな椅子に座って、下にあるペダルを回すと車輪が動くのだ。

 ジェレミーが自転車の後ろを支えて倒れないようにしてくれる。

 あの小さな椅子に座ろうとしたアイリスは、しかし戸惑った。

 アイリスには自転車の構造なんて細かいことは分からないが、前後の車輪は棒のようなものでつながっていて、椅子に座るためには足を上げてまたがらなければならない。

 足を上げると裾が上がってしまうことが気になった。


「……ちょっとあっち向いていて」

「はいはい」


 アイリスの指示に、ジェレミーは面倒くさそうな返事をしながら視線を外してくれた。

 さっと足を上げてまたぎ、椅子の上にお尻を置く。

 椅子が小さくて座り心地はいまいちだ。

 だが。


「すごい、ジェレミー! 私、自転車に乗ってるわ!」

「いや、まだ乗っただけだろ。走らないと意味ないから」


 ジェレミーが味気のない口を挟む。

 そんなことは分かっているけれど、自転車の椅子に初めて座るという行為は、たった一度しか経験できないものなのだ。

 この瞬間だって記念に覚えておきたいとアイリスは思った。

 ジェレミーが「まだかよ」と口を挟むくらい存分に堪能すると、いよいよ足をペダルに乗せる。

 しかし、片足を乗せただけで、とたんにバランスが不安定になる気がした。

 後ろで自転車を支えているジェレミーの方を少しだけ振り返る。


「ちゃんと支えていてよ?」

「分かってるって」

「絶対の絶対によ!」


 アイリスは念を押して、再び前を向いた。

 まっすぐに伸びた道の向こうを見据える。

 風を切って走ることを想像しながら、意気揚々とペダルを踏みこんだ。



 しかし、正確に言えば、その日のアイリスは自転車に乗ることはできなかった。

 意気揚々とペダルを踏みこむものの、右へ左へと傾き、ジェレミーに支えて貰っていても不安定で走るまでは叶わなかったのだ。

 想像よりずっと難しい自転車に、アイリスの期待は不発で終わってしまった。

 ジェレミー曰く、「最初はそんなもの」らしいが、想像では風を切って走るつもりだったのに。

 けれどもアイリスは諦めなかった。

 それからというもの、自転車に乗る特訓が始まった。

 練習時間を確保するために急いで仕事を終わらせた。

 上司である家政婦は厳しいので、やり直しを命じられないようもちろんきちんとこなした。

 そしてジェレミーをつかまえては、自転車を支えて貰いながら練習を積み重ねた。

 体が傾いたら自転車も傾いてしまうので、背筋をまっすぐに伸ばして、前を見据えながらペダルを漕ぐ。

 けれどもすぐにバランスが崩れて倒れそうになってしまう。

 そんなアイリスを見かねた庭師が、転んでしまったときに怪我をしないためにと木の葉を集めて道の脇に敷き詰めてくれたくらい、自転車というものは難しい乗り物だった。

 それでもアイリスは自転車に乗って颯爽と走る景色を想像しながら、まっすぐに前を向いて練習にいそしんだ。

 意外にもジェレミーは根気よく付き合ってくれた。



 練習を始めてから数えきれないくらいの日にちが過ぎたころ。

 いつもと同じように、ジェレミーと共に裏庭で自転車の練習をする。

 最近は大分バランスも取れるようになり、ジェレミーに支えて貰いながら漕ぐこともできるようになった。

 けれど少し走ると車輪が右に寄ったり左に寄ったりとしてしまい、自転車ごと倒れそうになってしまう。


「あっ」


 とっさに足を地面に下ろして踏みとどまる。

 転ばずにすんだが、ひやっとして背中が冷たくなってしまった。


「速度が遅いから不安定なんだ。もっとスピードを出した方がバランスを取りやすい」

「スピードを出したら危なくない?」

「大丈夫だって。俺が支えるから、前を向いてろ」


 ジェレミーに言われ、アイリスは緊張と不安で震える背筋を何とか伸ばして前を向いた。

 ペダルの上に足を乗せて踏みこむ。

 片方が回ると、もう片方も踏む。

 ジェレミーに言われたように、スピードを出すことを意識して漕いだ。

 いつもより車輪の回る速度が速くなり、風がすぐ側を通り抜けていった。

 そばかすの浮かぶ白い頬を、風が撫でていく。

 その気持ち良さにアイリスは顔を輝かせた。

 ただの風がまるで自分を出迎えるように吹いているみたいだった。


「おー、一人で乗れてるじゃん」


 ジェレミーの声が遠くに聞こえた。

 不思議に思ってアイリスは振り返った。

 すると、すぐ後ろで支えてくれていたはずのジェレミーが、遠くに立っていた。


「えっ……」


 ジェレミーに支えられず自分一人で自転車に乗っていることに気付いたアイリスは、驚いて思わずハンドルを持つ手が揺れてしまった。

 途端、自転車はバランスを崩して傾く。

 アイリスが「あっ」と思ったときには、道脇の木の葉の山に自転車ごと倒れてしまった。


「おい、大丈夫か!?」


 ジェレミーが慌てて駆け寄ってくる。

 木の葉をかき分ければ、埋もれていた自転車とアイリスの姿が見え、ジェレミーは心配そうに手を伸ばした。

 けれど。


「すっごく気持ち良かった! ねぇ、ジェレミー。私、給金を貯めて自転車を買うから、一緒に乗って出かけましょう!」


 顔を上げたアイリスは、興奮した様子でジェレミーの手を握りしめてそう言った。

 転んだことなんて気にしておらず、一人で自転車に乗れたことがとても楽しかった様子で、満面の笑みでジェレミーを見上げる。

 輝くまっすぐな視線で見つめられて、ジェレミーの頬の色はどんどん赤くなっていった。

 その様子を見て、アイリスは首を傾げた。


「ジェレミー、顔が真っ赤よ? そんなに急いで追いかけてきたの?」


 不思議そうに問いかけるアイリスに対して、ジェレミーは赤くなった顔を袖口で隠しながら、小さな声で「お、おぅ……」とよく分からない返事をした。






 そんな裏庭が見える二階の窓の内側で、くすくすと笑う声が漏れる。


「若いって良いわねぇ」


 白髪が美しい前子爵夫人は、窓の向こうの甘酸っぱい光景を眺めながら上品に微笑んだ。

 窓から見ることのできる裏庭では、自転車を立て直したアイリスが、ジェレミーを引っ張ってまた乗ろうとしていた。


「大奥様。あまり甘やかして、仕事に支障が出ては困ります」

「良いじゃない、私は若い子たちを応援するのが好きなのよ」


 前子爵夫人の側で紅茶を淹れていた家政婦は、渋い表情を浮かべながらため息をついた。

 裏庭ではアイリスが今までで一番うまく自転車に乗れたようで、ハンドルを握りしめて走っていく後ろをジェレミーが追いかけている。

 普段は取るに足らないことで衝突ばかりしている二人なのに、何とも楽しそうだった。

 前子爵夫人の側から、執事も窓の向こうを覗き込んだ。


「アイリスを自転車に乗せてあげたいから給金を前借りしてまで自転車を買うなど、ジェレミーもまだまだ青いですね」


 二人の姿を眺めながら執事がそう言えば、前子爵夫人と家政婦も同調するように頷いた。




 ――十九世紀末。

 自転車が大流行し、多くの人たちがその楽しさと自由に興じた。

 特に女性の行動の幅を広げ、解放感と自立を手に入れることができた。

 流行と共に自転車の値段は安くなっていき、庶民の手にも届きやすくなるのは、もう少しあとのこと――。





このあと前子爵夫人が手を回して自転車を用意し、執事が偶然譲ってくださったお方がいてとか言って、家政婦は仕事の質が下がったら没収だよとくぎを刺し、アイリスは大喜びして仕事にも精を出し、ジェレミーは二人でサイクリングできて内心大喜びします。

そんなのどかな出来事です。

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