悪役令嬢と呼ばれた侯爵家三男は、隣国皇子に愛される
リュミエール王国の貴族学園。
侯爵家の三男として、俺――シリル・フォン・アーデルハイトは、今日も平和に学園へ通うはずだった。学園に通うことは貴族の義務。剣術、魔法、経済学や礼儀作法まで、未来の貴族として必要なものを一通り叩き込まれる。侯爵家の三男という中途半端な立場の俺にとっては、家の看板を背負う重圧もなく、穏やかな学園生活はむしろ安息そのものだった。
――そう、あの日までは。
「きゃっ!」
大理石の階段の踊り場で、いきなり鮮やかなローズピンクの髪が視界を横切った。小柄な令嬢が勢いよく俺にぶつかり、そのまま俺を指差す。
「あなた……っ! 悪役令嬢ですわね!」
「…………は?」
耳を疑った。悪役? 令嬢? いや、待て。俺は男だぞ。思わず呆然と固まった隙に、彼女の手が俺の肩を押し――重力が崩れる。
(おいおいおいおい! まさか突き落とし!?)
視界がひっくり返り、大理石の階段が迫る。頭の中で骨折や打撲の未来予想が走馬灯のように流れたその瞬間。
「危ない!」
低く、しかし強い声。ふわりと身体が浮いた。衝撃が来ると思ったのに、代わりに感じたのは温もりと、力強い腕の感触。俺は誰かに抱きかかえられ、がっしりと胸に受け止められていた。
「怪我はないか?」
息を呑んだ。黄金の髪に褐色の肌、燃えるようなルビー色の瞳。学園に留学してきた隣国の皇子――ルシアン・フォン・アウグスト殿下。偶然にも我がアーデルハイト侯爵家にホームステイをしており、知らぬ仲ではなくそれどころか三年間の学生生活を普通に過ごしたいから、と気安い仲を求めてきた人物だ。
そんな彼が、俺を抱きかかえていた。
「ル、ルシアン殿下……!?」
周囲のざわめきが一斉に広がっていく。
「殿下が……!」
「白雪の麗人を抱きかかえて……!」
「きゃあああ!」
教室前の広いエントランスは、あっという間に野次馬で埋まった。
「だ、大丈夫です! 俺、全然無事ですから!」
「そうか。よかった」
彼は安心したように微笑み、俺をそっと床に降ろす。だが、それを見ていたローズピンク髪の令嬢が顔を青ざめさせながら叫んだ。
「殿下っ! その方は悪役令嬢ですわ! 危険です、早く離れて!」
「だから俺は男だって言ってるだろ!」
必死に叫ぶも、誰一人否定してくれない。むしろ女子たちの間では「悪役令嬢が男装して殿下を誘惑している」とざわつき始めた。男子たちですら「……まあ、あの見た目なら男装令嬢って言われても納得かも」なんて頷いている始末だ。
「おいおい、俺はアーデルハイト侯爵家の三男だぞ! れっきとした男だ!」
抗弁すればするほど、周囲は「必死に否定するところがまた可愛い」とさえ言うしまつ。しまいには「声が低いのも設定の一部ね」とか「いや、むしろその方が萌える」などと勝手に盛り上がっている。
(……どうしてこうなった!)
その時、ルシアンが低く冷ややかに言い放った。
「……無礼だな」
彼の視線の先には、なおも「悪役令嬢です!」と叫び続ける令嬢がいた。ルシアンは一歩前に出て、堂々と宣言する。
「俺が抱きとめたのは、守るべき者だからだ」
ざわめきが凍りついた。
“守るべき者”――それは婚約者や恋人にしか使わないような、特別な響きを持つ言葉。
「っ、守るべき……者……?」
女子生徒たちの悲鳴が響き渡り、男子生徒たちは口をあんぐりと開ける。
いやいやいやいや、待て! そんな言い方をされたら俺の立場は……!
「ちょっ! 誤解を生むから、そういう表現はやめ――」
「誤解ではない」
「誤解だ!」
「誤解ではない」
即答。しかも微笑みながら。その堂々たる態度が、さらに周囲の誤解を決定づけていく。
「まあ……!」
「やっぱり二人は……!」
「殿下と“白雪の麗人”シリル様が……!」
「禁断の関係……っ!」
隣で必死に否定する俺の声は、すべて“可愛い照れ隠し”として処理されていく。
「うわああああああ! 俺の平和な学園生活がぁぁぁぁ!」
心の叫びは、誰にも届かなかった。
翌日。学園の廊下を歩くだけで、あちこちから視線が飛んでくる。耳を澄ませば、昨日の一件がもう広まっていた。
「見た? 彼の方よ。ルシアン殿下に抱きとめられたのですって」
「白雪の麗人シリル様と殿下……絵になりすぎるわ」
「やっぱり“運命”ってあるのね」
……いや。だから俺は男だって!
呻きながら教室に入ると、同じクラスの貴族の面々がこちらを見て、どっと笑った。侯爵家、伯爵家、果ては公爵家の子息令嬢まで。彼らは俺のことを昔から知っているため、当然「男」であることを分かっている。だが――
「おいおい、“白雪の麗人”殿じゃないか」
「まさか本当に殿下の腕の中に収まるとはなあ」
「麗人伝説にまた一頁追加だ」
にやにやと揶揄う声が飛んでくる。
「やめろ! お前らが変なあだ名を広めるからややこしくなるんだ!」
「いやいや、シリル。自覚した方がいいぞ? あの見た目で『俺は男だ!』と叫んだって、説得力ゼロだからな」
「そうそう。翡翠の瞳に銀青の髪、細身の体……そりゃ“麗人”扱いされても仕方ない」
男子も女子も揃って頷く。どうやら、俺が昨日令嬢扱いされたことを、皆して面白がっているらしい。
「くっ……くだらない噂にかこつけて揶揄うな!」
「何を言う、お前が“白雪の麗人”であることは社交界でも公然のもの」
「それにしてもルシアン殿下は本気っぽいな」
「そうそう、あの『守るべき者』発言。婚約者宣言かと思ったぞ」
「やめろーーーーっ!」
机に突っ伏して叫ぶ俺の背中を、背後からぽんと叩く音がした。振り向けば、当の本人――ルシアン殿下が涼しい顔で座っている。
「シリル、顔色が悪いな。昨日のことが堪えているのか?」
「お前のせいだよ!」
「俺のせい?」
「“守るべき者”とか余計なことを言うから、こんなことになってんだろ!」
「余計ではない。本心だ」
「~~~~っ!」
平然と断言する殿下に、心臓が跳ねる。周囲の視線がまた「きゃー!」と騒ぎ出すのを、俺は必死に無視した。
その時。
――カツン、カツンとヒールの音。ローズピンクの髪を揺らす令嬢が教室に現れた。
「殿下! どうしてそんな人と一緒に……!」
「“そんな人”?」ルシアンが眉をひそめる。
「その人は悪役令嬢ですわ! 男を騙って殿下を誑かそうとしているのです!」
「だから俺は男だってば!」
クラス全員が一瞬沈黙し、次の瞬間、爆笑が起きる。
「ほらな、また麗人が否定してるぞ」
「頑なだなあ、御令嬢」
「いやいや、シリルはちゃんと男だから」
「だが“白雪の麗人”だからな」
クラス全員がニヤニヤしている。誰も俺を疑ってはいない。ただ、令嬢一人だけが本気で俺を“悪役令嬢”だと信じているのだ。
「騙されないで! 殿下! 皆、口裏を合わせているだけですわ!」
「……」
ルシアンは立ち上がり、俺と令嬢の間にすっと入る。その目は冷たく、凛としていた。
「俺の護るべき者を、侮辱するのは許さない」
「っ、護るべき者……!」
令嬢が顔を真っ赤にして後ずさる。クラスは再び「きゃー!」と黄色い悲鳴に包まれた。
……いやいやいや、これじゃ俺が本当に“守られる令嬢”扱いじゃないか!
「ルシアン! 俺は男だ! 侯爵家の三男だ! どうして分かってくれない!」
「分かっている」
「なら距離を取れ!」
「取らない」
即答。俺は頭を抱え、机に突っ伏した。
(……頼むから、俺の日常を返してくれ)
だが、楽しそうに紅茶を啜るルシアンと、必死に俺を“悪役令嬢認定”と呼び続けるローズピンク頭の令嬢。そして面白がって揶揄うクラスメイトたち。俺の安息は、完全に失われたのだった。
――ミレーユ・フルール。
俺にとっては、正直ただの後輩でしかなく、先日初めて遭遇した下位貴族の、家同士の交流すらない令嬢だ。家同士に付き合いがなければ、本来なら一年生と二年生は授業も寮も完全に分かれているから、関わる機会なんてまずない。それなのに、なぜか彼女は俺を見つけては「悪役令嬢ですわ!」と指を突きつけてくる。学園生活はこれまで大した刺激もスキャンダルのようなものもなかったものだから、最初こそクラスメイトたちも笑い転げていた。
「また始まったぞ」
「麗人が悪役令嬢呼ばわりか」
「まあ、シリルなら似合うけどな」
そんな風に面白がり、俺が必死に「男だ!」と否定するのをネタにしてきた。だが数日も続けば、流石に空気も変わってくる。
「……なあ、いい加減しつこくないか?」
「そうだな。毎日『悪役令嬢ですわ!』って……もう飽きた」
「それに、あれ、ルシアン殿下の前で言うんだぞ? 普通に無礼だろ」
クラスの上位貴族――公爵家や侯爵家の子息令嬢たちが、次第に眉をひそめ始めた。彼らにとって、ルシアン殿下は単なる“留学生”ではなく、隣国の皇子だ。そんな相手に、男爵令嬢が軽々しく「殿下を騙そうとしている」などと言うのは、序列を乱す行為に等しい。俺も内心、勘弁してくれと思っていた。だがミレーユは意に介さない。
「殿下! どうか目を覚まして! その方は悪役令嬢です!」
「だから俺は男だっつってんだろ!」
「信じませんわ! そんな麗しい見た目の方が男だなんて!」
周囲の空気が白ける中、唯一変わらないのはルシアンだ。
「何度もしつこい。これ以上シリルを“悪役”などと呼ぶなら相応の対処も検討するぞ」
彼は必ず俺の前に立ち、冷たい瞳でミレーユを牽制する。そのたびに、女子たちから黄色い悲鳴が上がり、噂はさらに膨らむ。こうして俺は、否応なく“皇子に庇護される麗人”ポジションに押し込まれていった。
――もっとも、学園全体が一枚岩というわけではない。
下位貴族、特に男爵や子爵の令嬢の中には、ミレーユの言葉を信じる者も少なくない。
「やっぱりシリル様は危険なんじゃ……?」
「だって、麗しすぎるし」
「殿下を誘惑しているって言われたら納得しちゃうわ」
そんな囁きが一部の寮生の間で広まっているのも耳に入っていた。つまり――上位貴族はシリルの立場を理解し、面白がる程度。下位貴族の一部は、ミレーユの主張に煽られて本気で俺を“悪役令嬢”と疑い始める。
(……ああ、どうしてこうなったんだ)
机に突っ伏しながら嘆く俺の横で、ルシアンは涼やかな笑みを浮かべている。まるでこの状況そのものを楽しんでいるかのように。
「心配するな、シリル。俺がついている」
「お前がついてるから余計にややこしいんだよ!」
「ややこしくはない。分かりやすいだろう? 俺がお前を守る」
「……っ!」
直球すぎる言葉に、胸の奥が熱くなるのを自覚してしまう。揶揄われているとわかっているのになぜか心臓が跳ねる。
……俺の平穏な日常は、もう二度と戻ってこないのかもしれない。
学園から帰宅した夕刻。自室に戻って、ようやく一息つける――はずだった。椅子に腰を下ろす間もなく、コンコンとノックの音が響く。扉を開けた先に立っていたのは、黄金の髪にルビーの瞳を輝かせる隣国の皇子――ルシアンだった。
「ルシアン? どうした?」
「シリル、話がある」
真剣そのものの声に、心臓が跳ねる。断りきれず招き入れると、彼は当然のように椅子ではなくベッドに腰を下ろした。
「……いや、そこは俺の寝台なんだけど」
「落ち着く場所に座っただけだ」
「お前な……」
眉を寄せて抗議する俺を、彼はまっすぐに見据える。普段の余裕を含んだ微笑ではなく、真摯な光を宿した瞳で。
「シリル。俺はお前が好きだ」
「……は?」
一瞬、理解が追いつかない。だが遅れて、耳の奥がじんじん熱くなった。
「す、好きって……! おい、冗談だろ!」
「冗談ではない。俺はお前を守りたいし、傍にいてほしい。シリル、お前を俺のものにしたい」
「~~~~っ!」
思わず後ずさり、机に背中をぶつける。逃げ場をなくした俺に、ルシアンは歩み寄り、両手で壁を作った。
「近い! おい、近いって!」
「足りない。もっと近づきたい」
耳に落ちる低い声。視線が吸い寄せられる。彼のルビー色の瞳が真剣で、冗談なんかじゃないことが嫌というほど分かる。熱に浮かされるように、俺の身体は動かなくなっていた。彼の顔が、近づく。唇が――
「シリル様、夕餉のご用意が整いました」
「――――っ!」
タイミング最悪のノックと共に、メイドの声が響いた。反射的にルシアンを突き飛ばす。
「い、今行く!」
「……」
俺の突き飛ばしなどものともしなかった彼は渋々身を引いてくれたものの、それでも口元に余裕の笑みを浮かべていた。
「夕食の後に続きをしよう」
「なっ、しない!」
「俺は諦めない。……シリル、白雪の君」
そう言って俺の長い薄水色がかった銀の髪をひと掬いし、そっと唇を落とす。
「っ~~~~~~!」
顔が一気に真っ赤になる。両手で頬を覆い、怒鳴るように叫んだ。
「食事の後はっ! 自分の部屋に帰れっ!」
満足げに笑みを残し、ルシアンはゆったりと先に部屋を出た。
……心臓が爆発しそうだ。
◇
そして遅れてついた晩餐の席。食堂の長卓には両親と兄二人、そしてルシアンが揃っている。空気が妙に軽い。
「シリル」
「……なに、父上」
「学園で妙な噂になっているそうだな」
兄二人が揃ってにやにや笑う。
「“白雪の麗人が皇子に庇護される”とか」
「“二人は特別な関係”とか」
「やめてくれ、兄上……」
頭を抱える俺の横で、ルシアンは悠然と口を開いた。
「事実だ。俺はシリルを護ると決めている」
食卓に一瞬の沈黙が走る。
次の瞬間、兄たちは目を見開いた。
「おいおい、殿下が真顔で言うと冗談に聞こえないな」
「いや、冗談じゃないんだろ。なあ、シリル」
「殿下の冗談だ!」
必死に否定する俺を、母は優しく微笑んで見守り、父はただ深く頷くだけ。どちらも完全に「揶揄う側」だ。結局俺は、何を言っても茶化されるのを悟り、口を閉ざして黙々と食事を口に運ぶしかなかった。
(……俺の平穏、返してくれ)
赤くなった顔を隠しながら、黙々と夕食をかき込む俺の横で、ルシアンはどこまでも満足そうに微笑んでいた。
昼下がりの学園エントランスは、いつもよりざわついていた。授業が終わり、これから帰宅する生徒、寮へ戻る生徒が入り混じる時間帯。磨き上げられた白大理石の床に、陽光が斜めに差し込み、ステンドグラスを透かした光の模様が広がっている。俺も、その中を人波に紛れて歩いていた。
今日こそ平穏に帰れるだろうか。
そう願った矢先。
「そこまでですわ! 悪役令嬢!」
甲高い声がエントランスに響き渡った。歩みを止めた瞬間、周囲の生徒たちが一斉に振り向く。ローズピンクの髪を揺らし、息巻いてこちらを指差す少女――ミレーユ。
……またか。
ため息をつきかけた俺の耳に、彼女のよく通る声がさらに飛び込んでくる。
「悪役令嬢は断罪されるべきなのです!」
「……」
「そうすれば、皇子殿下も目を覚まされ、このわたくしこそが正しき婚約者とお認めになるでしょう!」
周囲がざわめいた。
「また始まったか」と呆れる上位貴族の声もあれば、「やっぱりそうなのかも」と囁き合う下位貴族の令嬢の声も混じる。やじ馬の輪が広がり、まるで見世物の舞台のような空気が出来上がっていく。
(……勘弁してくれ)
心の中で嘆く俺をよそに、ミレーユは一層勢いを増した。瞳を爛々と輝かせ、古めかしい分厚い革装丁の本を高く掲げる。
「断罪の始まりですわ!」
その言葉と同時に、ページがばらりと開かれる。瞬間、ぞっとするような魔力の波動がエントランス全体を覆った。
「……っ!?」
肌が粟立つ。嫌な気配。
次の瞬間、空間が歪み、黒い霧が床を這うように広がった。霧の中から現れたのは、四肢を鎖で縛られたような異形の巨体――魔獣。鋭い爪に赤く濁った眼、涎を垂らしながら咆哮を上げる姿に、場は一瞬で阿鼻叫喚となった。
「きゃああああっ!」
「魔獣だ!」
「なんでこんなところに!?」
「禁書だ! あれは禁書を使った召喚だ!」
悲鳴が飛び交い、生徒たちが我先にと出口へ走る。だが一部は恐怖で足がすくみ、場に立ち尽くしたままだ。俺はとっさに魔力を展開した。
「――来るな!」
床から植物の蔦が伸び、絡み合って瞬く間に柵を作り上げる。俺とミレーユを囲うように、そしてやじ馬をしていた生徒たちを外へと分断させるように厚い緑の壁が現れる。
「きゃっ……!」
壁の向こうで悲鳴が聞こえたが、今は緊急事態だ。もし怪我をしたとしても他の生徒が誰かしら救護するだろうと判断し、俺は必死に防御を強めた。
俺は攻撃魔法は不得手だ。剣技も苦手だ。治癒魔法や、植物を育てるのに育成や活性がメインの俺にとって、この場で使えるのは植物を使った防御魔法。正直たいして持たないとわかっていても、禁書で呼び出された魔獣を止めるにはこれしかない。
「ぐっ……!」
周囲だけでなく、自分の前に施した防御魔法の大木の柵を魔獣の爪が何度も刻みつけ軋む。反動で強化する俺の魔力はそこそこあるものの、禁書によって呼び出された魔獣の力は凄まじく、限界に近づいていく。
ーーこのままでは、すぐに突破される。
防御を破り、魔獣の爪の先が見えた。
……やられる……!
そんな恐怖が背筋を走った瞬間――
「シリル!」
ドォン!と雷鳴のように響く音と、必死な声。振り向くより早く、さらに炎の光が俺の両脇を抜けて視界を焼いた。追撃とばかりに炎を纏った剣が振り抜かれ、俺の植物の柵ごと魔獣を一刀両断する。轟音と共に黒い霧が四散し、魔獣は断末魔の咆哮を上げて倒れた。
「――っ!」
残響と熱に包まれたまま、俺は強く抱き寄せられる。
「怪我はないか、シリル!」
「ルシアン……!」
彼の腕の中は、灼熱の戦場の只中のはずなのに、不思議と安心感に満ちていた。彼の心臓の鼓動が背に伝わり、全身が熱に染まる。
(……怖かった。でも、ああ……助かったんだ)
震える指先をぎゅっと握りしめた。だが、ルシアンの瞳は俺に向けられた優しさとは別物だった。燃え盛るようなルビー色の双眸が、倒れた魔獣越しに立ち尽くすミレーユを射抜く。
「……貴様」
怒りを凝縮したような冷たい声音に、空気が震えた。俺の防御魔法も解け、場に残っていた生徒たちが息を呑み、一歩退く。
「俺の大切な者に手を出したな」
炎の魔力が剣に渦巻き、辺りの空気が焼ける。その気迫に、ミレーユは顔を真っ青にして後ずさった。
「後悔させてやる」
剣を振り上げる。
本気だ。このままでは――
「ルシアン、やめろ!」
思わず抱きつくようにしてルシアンの腕を押さえた。力も魔法も彼には及ばない。このうでを振り解かれたら吹っ飛ぶだろうが、それでも必死に叫ぶ。
「シリル」
「分かってる! 彼女は俺を害した。でも……殺す必要はない!」
声が裏返るほどの必死さで訴える。
この国には法がある。彼女を罰するのは、国の裁きだ。隣国の皇子であるルシアンがたとえこの国の法よりも強い者であったとしても。彼に人殺しの汚名を背負わせたくない。
「ルシアン……お願いだ。あんな令嬢如きに……この手を汚さないでくれ……」
必死の懇願に、彼は苦々しい表情を浮かべ、しばし沈黙する。炎が剣からふっと消え、赤熱していた空気が静まった。そして、彼は俺を抱きしめ直した。
「……分かった。お前がそう望むなら」
低く、震えた声。どれだけ本気で怒ってくれていたか、痛いほど伝わる。彼が俺を守ろうとする想いの強さもその胸に抱かれながら、俺は悟ってしまった。ただの庇護じゃない。ただの友情でもない。
(俺……こいつのことを――)
頬が熱くなり、視界が滲む。胸の奥で、恋心という言葉がはっきり形を成すのを、もう否定できなかった。
ルシアンに縋りつき、彼の怒りをどうにか鎮めた直後。外から重い足音が響き、複数の影がエントランスに雪崩れ込んできた。
「無事か!」
「怪我人は!」
銀の甲冑をまとった学園の警備騎士たちが魔獣の咆哮と生徒らの悲鳴を聞きつけ、駆けつけたのだろう。先頭の隊長格が鋭い目で辺りを見回し、そして状況を一目で把握した。
「……禁書による召喚か」
彼の視線は震えるローズピンクの令嬢――ミレーユに注がれる。未だ分厚い本を抱えたまま、彼女は蒼白な顔で口をぱくぱくさせるだけだった。
「捕らえよ」
冷徹な声が響いた瞬間、二人の女性騎士がミレーユの両腕をがっちりと掴んだ。
「いやっ……! わ、わたくしは……ちがう! あの悪役が! シリルが悪役令嬢なのにっ! だからわたくしは!」
「黙れ!」
ミレーユの抵抗も虚しく、彼女はずるずると引きずられていった。集まっていたやじ馬たちがざわめき、恐怖と安堵が入り混じった空気が流れる。エントランス中央には、まだ黒い霧と焦げ跡が残っていた。断ち切られた魔獣の残骸が、形を保てぬままであるのにおぞましい魔力をまだ垂れ流している。
「……このままでは学園が汚れるな」
ルシアンが一歩前に出て、軽く剣を振るった。炎の魔力が迸り、残骸は音もなく燃え尽き、灰となって消え失せる。わずかに残った煤が、陽光を透かしたステンドグラスの光に舞い上がり、やがて跡形もなく消えた。
騎士や生徒たちはその様を見て息を呑む。そしてざわり、と場の空気が変わった。
「……さすがはルシアン殿下」
「見事な剣技に加え、炎魔法をここまで操るとは」
「やはり隣国の皇子は只者ではない」
称賛の声があちこちから上がり、場の緊張が解けていく。その中で、駆けつけてきた数名の友人たちが俺のもとへ集まってきた。彼らの顔には、心底ほっとしたような色が浮かんでいる。
「シリル、大丈夫か!」
「怪我はないんだな?」
「まったく……心配させやがって」
その一言一言に、胸の奥の強張りがようやくほどけていく。俺は小さく笑い、力なく首を振った。
「……平気だよ。ちょっと、怖かったけどな」
友人たちは顔を見合わせ、苦笑を漏らす。それでも安心してくれたようで、俺も肩の力が抜けてきた。やがて友人らが視線をルシアンに向けた。
「それにしても……」
「本当に殿下はすごい」
「いや、“さすが”と言うべきか」
焦げ跡の残る大理石の床を見やりながら、彼らは口々に称賛の言葉を重ねる。ルシアンはと言えば、剣を下ろし、俺の肩をしっかりと抱いたまま、どこか不機嫌そうに視線を逸らしていた。
ーー騒動はこうして、ひとまず収束した。
学園で起きた魔獣騒動から数日が経った。
王都にも噂はあっという間に広がり、一時まるで嵐に巻き込まれたかのような騒がしさだったが、早々に収束へ向かった。理由は簡単だ。
――ミレーユ・フルール男爵令嬢が、国の司法により断罪されたからだ。
王都における大事件の一つとして扱われたこの件は、被害者の俺が侯爵家の息子であったことから逐一報告が届いた。
「彼女はまず、シリル様への執拗な悪口や付き纏い行為、それから殿下への不敬が罪状とされました。そして決定的なのは……」
父の側近でありアーデルハイト家の家令が淡々と報告書を読み上げる。複製された報告書に、俺も視線を落とす。そこには事実だけが列記されていた。
『禁書を用いた魔獣召喚、およびシリル・フォン・アーデルハイト侯爵家三男への直接攻撃』
――この一点だけでも彼女の行く末はほぼ死刑か、国の中枢の収容所にで生涯を終えるか。だが司法は彼女を即座に処刑することはなく、調査の手があらゆる方向へ伸びた。禁書の出所と彼女の逸脱した言動があまりにも不可解なものであったからだ。
まず、学園の一年生らの証言。彼女はある日突然、俺のことを「悪役令嬢」と呼び始めたという。それ以前は、ごく普通の令嬢だった。授業態度も真面目で、友人関係も問題なかった。だが、俺が初めて彼女に遭遇したあの日からおかしくなったらしい。
次に、フルール男爵家の証言。王都の端に領地を持つ彼らは、何度も娘に手紙を送っていた。だが学園寮に入った娘からはやはり“あの日”以降返事もなく……そしていきなり、このような大事件を起こした。押収した手紙はただ娘の身を案じるものばかりで、我が家に楯突くように指示する内容も、ルシアンを唆すような内容も、ましてや魔法を使った形跡もなかった。
そして禁書について。こちらは禁書を取り扱う各所から持ち出された形跡がいっさいなく、怪しい人物との接点も疑われたがミレーユが学園や寮から無断で出た形跡もなかった。とうぜん、男爵家経由でもなく、ただ彼女は「持つべき者は選ばれしわたしだから」と言うばかり。
そうして調査官のだした結論は「原因不明の精神汚染を受けた可能性」。フルール家は一代での取り潰しこそ免れたが、事件の重大性から財産の八割を没収されることとなった。
「ーー牢の中でも、あの令嬢は“悪役令嬢さえいなければ”と繰り返していたらしい」
上の兄が報告書に目を落としたまま、淡々と告げる。冷え切った言葉なのに、俺は背筋をすっと冷たいものが撫でた気がした。なぜ俺を頑なに“悪役令嬢”とやらにしたがるのか。
「『物語の上ではシリルが悪役令嬢だ』『断罪されるのは当然』と、それしか言わないらしいな」
「そもそもうちに令嬢はいないと言うのに……」
「シリル、と言う名の令嬢がいないからといってうちのシリルを令嬢呼ばわりするのもおかしい」
そして、ルシアンが処刑を望むのでは、とも言われていたようだが、結局のところ彼女は最北部の修道教会に収容されることになった。治癒や浄化の魔術に長けた聖職者たちの管理下に置かれ、以後は世に出ることもなくなるだろう。
……結末だけを見れば、すべては終わった。
少なくとも俺にとっては、もう彼女に怯える必要はない。
◇
では事件収束によって俺の望んだ平穏が戻ったかといえば――決してそうではなかった。
「シリル、今日の髪も美しいな。光に透けると、銀に翡翠を溶かしたようだ」
「お、俺は男だって、いつも言ってるだろ!」
学園の中庭、授業の合間のひととき。陽光にきらめく噴水の脇で、俺は今日もまたルシアンに翻弄されていた。事件以来、周囲に見せつけるように、生徒の往来が多い場所や、食堂などで俺に甘く囁く。
今も、多くの生徒たちが出入りする食堂の端の席ーーとはいえテラスに近く食堂の入り口からもよく見える見晴らしのいい席ーーで食事を終え俺の髪をそっと掬い上げ、指先で弄びながら、平然と愛を囁いている。
「その頬の赤みも、可憐でたまらない」
「っ……!」
人前で言うな、と何度言ったことか。けれど彼はまるで意に介さない。周囲にいた同級生たちは、最初こそ興味津々でひやかしてきたものだが、最近はすっかり慣れてしまったようだ。食後の紅茶を飲みながら「また殿下か」と肩をすくめ、苦笑する者。「白雪の麗人だもんな」と半ば冗談めかして俺を令嬢扱いする者。本当に彼らは友人か?!と疑いたくなるような態度に、俺は泣きそうになる。
……止めてほしいのに、ルシアンは止まらない。
「シリル、聞いているのか?」
「ひ、人前ではやめてくれって言ってる!」
「ならば人がいないところなら許すのだな?」
「ちが――っ、そういうことを言うな!」
結局、俺が真っ赤になって声を上げると、ルシアンは満足そうに口角を上げる。まるで俺の反応そのものを楽しんでいるように。はぁ、とため息を吐きながらテラス越しの噴水を見やる。水しぶきがきらきらと光を散らし、学園は今日も平穏そのものだ。
……なのに俺の心臓だけが、妙に忙しなく跳ね続けている。
(平穏が戻ったはずなのに……どうしてこうなったんだ)
心の中でぼやきながら、俺は頬を手で覆った。隣では、楽しげな皇子の低い笑い声が、いつまでも耳に残っていた。
あれから一年半という時の流れは、驚くほどあっという間に過ぎていった。あの魔獣騒動から日々は静かに積み重なり、俺――シリル・フォン・アーデルハイトも気がつけば十八歳。侯爵家三男として学園に通った三年間は、気がつけば最終日を迎えていた。
リュミエール王国の貴族学園の大講堂は高い天井から下がるシャンデリアが燦然と輝き、磨き上げられた大理石の床には凛とした光が反射している。数百人に及ぶ生徒と教師陣、そして卒業する貴族の家族たちで埋め尽くされたホールは、荘厳そのものだった。
壇上には、成績優秀者として卒業生代表がたつ。選ばれたのは――当然のごとく彼だった。
ルシアン・フォン・アウグスト。
アウレリア帝国の第二皇子にして、この学園に留学していた留学生。三年間、学問も魔法も剣も一切の隙なく修め、常に首席を譲らなかった彼は、この卒業式で答辞を務める。
「……このリュミエール王国において学んだ日々は、私にとって代えがたい宝となりました」
堂々たる声が、ホールの隅々まで響く。王国の言葉を流暢に操るその姿に、生徒たちだけでなく教師らまでもが息を呑んでいた。
「学問、剣術、魔法。――そして何よりも、共に笑い、切磋琢磨した仲間たち。私はこの国で得たすべてを胸に刻み、帝国に帰還しようと思います」
静かな拍手が広がる。けれどルシアンはそこで言葉を切り、ゆっくりと場を見渡した。
「……ただ、一つ。ここで皆に宣言したいことがある」
ざわめきが広がった。卒業式の答辞で異例の言葉に、誰もが顔を見合わせる。俺もまた、胸がざわりと波打った。
彼が今から何を言うのか、嫌というほど予感していたから。
ルシアンは微笑みを浮かべ、堂々と告げた。
「私はこの国で、一人のかけがえのない存在と出会った。ーーシリル・フォン・アーデルハイト」
一斉に視線が俺へと注がれる。息を呑む音が、波のようにホールを揺らした。
「彼は皆に“白雪の麗人”と呼ばれ、その麗しさに惑わされる者も少なくなかっただろう。だが私にとって彼はただ一人、心から大切にしたい人間だ」
胸が熱くなる。
隣国の皇子という立場で、これほど堂々と。しかも卒業式の壇上で――
「私はアウレリア帝国の第二皇子として、兄である皇太子を支え、このリュミエール王国との交友にも努める。そして、その傍らには常にシリルを置きたい。――ここに宣言する。私はシリル・フォン・アーデルハイトを正式な婚約者として迎える」
教師たちも生徒たちも、貴族の家族たちさえも目を見開き、そして一瞬の沈黙ののちに大講堂は大きなどよめきへと変わる。
ルシアンは微笑みを崩さぬまま、壇上を降りた。足取りは迷いなく、真っ直ぐに俺の座る列へと向かう。
「ル、ルシアン……っ」
俺は立ち上がることもできず、ただ彼を見つめるしかなかった。周囲の視線が痛いほど突き刺さる。けれどその中で、彼は迷いなく俺の前に立ち止まった。
伸ばされた手。
その瞳は、ただ俺だけを見ている。
「シリル。お前は、私の全てだ。――どうか、私の隣に来てくれ」
息を呑む。
声が出ない。
でも、その真摯な瞳に逆らえるはずもなく、震える指先で、その手を取る。
「……ああ、もう、勝手なやつだな」
精一杯の言葉は、それだけだった。次の瞬間、ルシアンは俺を強く抱き寄せ、迷いなく唇を重ねた。
「――っ!」
大講堂に「きゃぁああ!」と黄色い悲鳴が上がり、ざわつきが広がった。誰もルシアンを止めない。むしろやがて、それは大きな拍手と歓声へと変わっていった。
「おめでとう!」
「さすがだ、白雪の麗人!」
「殿下とシリル様なら、きっと幸せになれる!」
熱に包まれるような祝福の声。俺は真っ赤になりながらも、彼の腕の中で目を閉じた。
――こうして、三年間の学園生活は幕を閉じた。
そして同時に、新たな未来への扉が開かれたのだ。
リュミエール王国での卒業式から数週間後。
俺――シリル・フォン・アーデルハイトは、侯爵家を離れルシアンと共に隣国アウレリア帝国へと旅立った。
馬車を降りた瞬間、まず俺の目に飛び込んできたのは、黄金に染まる大地だった。
アウレリア帝国――名の通り、陽光に照らされた街並みがきらめく国だ。広々とした石畳の大通り、白大理石に黄金を象嵌した楼閣、遠くまで広がる砂のような土色の大地。空気は乾いているが澄み渡り、リュミエール王国の柔らかな緑とは対照的な強さを感じさせた。
「驚いたか?」
俺の手をとり、隣で歩くルシアンが笑った。
「……驚かないわけがないだろ」
「すぐに慣れる。ここはお前の新しい故郷になる場所だからな」
言葉に胸がじんとした。確かに俺はもう、この国でルシアンの隣に立つと決めたのだ。
帝都アウルムは壮麗だった。
高台から見下ろすと、放射状に広がる大通りの中心に皇宮がそびえ立つのが見える。白と黄金を基調とした宮殿は、太陽を受けてまばゆく輝いていた。
「――ようこそ、アウレリア帝国へ」
皇宮の大扉を抜けた先、広間に立っていたのは帝国の皇帝陛下。ルシアンの父であり、褐色の肌に黄金の髪、鋭い眼差しは歳を重ねてもなお威光に満ちていた。
「父上。留学を終え、戻りました」
「よく学び、よくぞ帰った。……そして、彼がシリル殿だな」
帝国の支配者の視線をまともに受け、思わず背筋が伸びた。
「リュミエール王国侯爵家三男、シリル・フォン・アーデルハイトです」
「ふむ。勇気と誠実を兼ね備えた目をしているな」
低い声に心臓が早鐘を打つ。だがその言葉には、試すような厳しさの中にどこか温かさもあった。
隣に立つ皇后は柔らかな笑みを浮かべた女性で、青の瞳が印象的だった。
「まあ! 噂以上に美しい方。ルシアンが誇らしげに話すわけだわ」
「母上!」
横で真っ赤になるルシアンを見て、思わず吹き出しそうになった。
そして、もう一人。長身で冷静な雰囲気をまとった男が進み出た。
「兄上」
「……ルシアン。戻ってきたか」
帝国の第一皇子、皇太子アドリアン。金の髪を短く刈り、瞳は深い紅。ルシアンとよく似ているが、五つ歳が離れていると言っていたか。次期王としての強さを湛えながらも、彼は落ち着いた眼差しでこちらを見つめてきた。
「シリル殿、弟を頼む。こいつは真っ直ぐすぎて、時に危うい」
「……ええ、心得ております」
互いに小さく頷き合った。ルシアンは少しバツが悪そうにしていたが歓迎されているとわかったこの空気に、俺はここで生きていく実感が少しだけ芽生えた気がした。
とはいえ、新生活は戸惑いの連続だった。
まず、食文化。帝国では香辛料が豊富に使われ、料理はどれも濃厚で刺激的。リュミエールは温暖気候で食事もさっぱりしたものが中心であったため、胃袋が悲鳴を上げる日もあった。
「シリル、辛すぎたか?」
「……少しな。でも、慣れてみせる」
「無理をするな。お前の好きなように、厨房に頼めばいい」
「駄目だ。ここで暮らすんだ、少しずつ馴染んでいかないと」
笑いながら、ルシアンは俺の頭を撫でた。その仕草に、少し緊張がほぐれた。
次に、宮廷の慣習。
……ある日の夜会のことだった。
帝都アウルムの大広間には、煌びやかな衣装をまとった貴族たちが集まり、豪華な楽団の調べに合わせて踊り、語らっていた。
「おや、こちらが噂の」
「確かに白雪のごとき麗人だ」
王国時代と同じように、貴族たちは俺を揶揄うように「麗人」と呼ぶ。けれどその声音には悪意はなく、むしろ好奇心と羨望が入り混じっていた。
「殿下は幸せ者ですな」
「ええ、俺の宝だから」
即座にそう返すルシアンに、場が和やかな笑いに包まれる。俺は頬が熱くなり、グラスを持つ手を慌てて口元に運んだ。
「……人前で、そういうことを言うな」
「何故だ? 事実だろう」
「……っ」
返す言葉を失って俯くと、彼の大きな手がそっと俺の背中を支えた。その温もりに、不思議と心が落ち着く。帝国の貴族たちは、王国に比べてはるかに直截的だ。この宴の席で「麗しいお方」と真顔で手を取られたり、堂々と「ルシアン殿下が羨ましい」と囁いてくる。だが、ルシアンが掻っ攫うように腕の中に閉じ込め彼らに見せつけるように、いちいち口付けてきたりするものだから頬が熱くなるのを必死に隠すしかなく。
「大丈夫だ、シリル。どんなに言い寄ってくる者らがいようとも俺が手放すようなことはしない」
「……全く、お前ってやつは」
呆れながらも、心の奥底では安心している自分がいた。
◇
そうしてアウレリア帝国に来てから、三か月が経った。
最初は眩しすぎる陽光や濃い味付けの料理、率直すぎる宮廷貴族たちの言動に戸惑ってばかりだった俺も、少しずつ帝国の空気に馴染み始めていた。
宮殿の敷地内に建てられたルシアン専用の屋敷の一室に、俺の住む部屋は用意された。朝は高台から差し込む黄金の光に目を覚まし、部屋の前にある庭園の大輪の花々に水をやる。帝国の土は乾いていて、植物の世話には工夫がいる。だが俺の植物魔法を使えば、王国と同じように瑞々しい緑を育てることができた。
庭園を通りかかった侍女たちが「癒やされます」と微笑むたび、少し誇らしい気持ちになる。
こうして俺は少しずつ、アウレリア帝国での新生活に足を踏み入れていった。未知の文化、厳格な宮廷、そして強烈な陽光。すべてに戸惑いながらも、ルシアンと共に歩む道がすこしずつ伸び始めた。
帝国の勉強を終えて庭園でひとり読書をしていると、足音が近づいた。
「シリル!」
「……ルシアン」
振り向けば、黄金の髪を陽光に揺らす男ーールシアンが立っていた。汗に濡れた髪と衣服。どうやら訓練帰りらしい。魔力が溢れているのは興奮冷めやまぬほどのものだったのだろうか。
「また一段と強くなったのか」
「お前を守るためなら、どれほどでも鍛えるさ」
さらりと口にされて、心臓が跳ねる。
「……ほんと、口を開けばそればかりだな」
「真実だから仕方ない」
言い返そうとしたが、彼の真剣な眼差しに射抜かれ、言葉が喉で溶けた。
「シリル。俺は、この帝国を兄上と共に支え、この国とお前の祖国を結ぶ架け橋になりたい。その隣には、常にお前がいてほしい」
午後の光が少しずつ庭園を茜に染め、彼の横顔を照らす。力強く、まっすぐで、少し不器用な言葉。それでも俺の胸には熱く響いた。
「……わかった。俺も隣にいるよ。どこまででも」
そう告げると、ルシアンの表情がやわらぎ、次の瞬間には強く抱きしめられていた。帝国の乾いた空気の中で、その温もりはひどく心地よかった。
夜、バルコニーに立ち、星空を仰ぐ。砂漠の彼方まで見渡せる帝国の夜空は、王国よりもずっと澄んでいて、星々が手に届きそうなほど輝いていた。
「シリル」
「……どうした?」
「この星空の下で誓おう。永遠にお前を守る、と」
ルシアンの低い声に、胸の奥が温かく震えた。思わず頬を寄せ、彼の肩に頭を預ける。
「……なら俺も誓う。お前の隣で、ずっと共に生きる」
砂漠に吹く風が、二人を包み込んだ。
異国の地で始まった生活は、まだ始まったばかり。
けれど――この人となら、きっとどこまででも歩いていける。
黄金の帝国の夜空の下、俺たちの未来は静かに、そして確かに輝き始めていた。