第6話
――コーネルが庭で怪しげな笑みを浮かべているころ。
「お腹が空きましたね……」
カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で、ジャガー男爵家の長男であるエディ=ジャガーはひとり呟いた。さっきから彼のあばらの浮いたお腹が、ぐぅぐぅと自己主張を続けている。幽霊のように青白い手で腹部を押さえると、彼は食糧を探すために部屋を出ることにした。
「お客様は帰ったんでしょうか」
自室のドアを少しだけ開け、廊下をキョロキョロと見渡す。彼のチャームポイントである丸眼鏡越しに人の気配がないことを確認すると、忍び足でおそるおそるキッチンへと向かい始めた。
今日は隣領の侯爵が来ると聞いて、エディは自室に引き篭もっていた。本来なら次期当主であるエディも同席した方がよいのだが、気弱な彼は早々に逃げ出したのである。
「やっぱり姉上が次期当主を継ぐべきだよね。出来損ないの僕なんかが頑張ったところで、無駄になるだけだし……」
魔物あふれるこの国では、戦闘系のジョブを持つ者が重宝されている。たとえばエディの父や姉たちがそうだ。
しかし彼が授かったのは“画家”だった。五歳の誕生日にそれを知ったとき、エディは自分の不運を恨んだ。絵を描いても買ってくれるのはごく一部の物好きだけだし、そもそも売り物になるような絵を描くにはセンスが必要だ。
それでもかつての彼は、絵を売って男爵家の家計を助けるんだ……なんて夢を持ち、王都で絵の修行をしていた時期もあった。
けれど現実は残酷だった。彼には、画家としての才能がなかったのだ。苦労して得られた仕事といえば、安月給な壁のペンキ塗りという誰でもできることばかり。
十七歳を過ぎたころ、自分を養うのさえ困難になった彼は、こうして実家に逃げ帰ってきた。彼が描けたのは、叶わない夢だけだった。
「あら、誰かと思ったらやっぱりエディちゃんだったわ。なにか探し物?」
「母上っ!?」
キッチンで食べ物を探していると、母のレイナが夫のグレンを連れてやってきた。不意を突かれたエディはビクッと飛び上がり、眼鏡を落としそうになる。
完全に気配を消していたつもりでも、レイナは息子を見つけてやってくる。もしやそういうスキルでも持っているんだろうか、と思いながらエディはずれた眼鏡を直しつつ母に答えた。
「いえ、お腹が空いたのでなにか食べ物を……と」
「そう。ならちょうど良かったわ」
ほんのりと顔を赤らめる息子を見てレイナはニッコリと笑うと、テーブルの上に次々と料理を用意し始めた。それからそう間もなく、テーブルには食べきれないほどの豪華な料理が並んだ。チーズもハムも野菜もパンもスープも……まるで宝石のようにキラキラと輝いているようだ。そして最後にワインの入ったグラスを置くと、レイナは呆気に取られている息子に座るよう促した。
「あの、これは……」
「ふふ、遠慮しなくてもいいのよ? お小遣いがなくて買い物もできなかったんでしょう?」
「い、いえ! そんなことは……」
図星を突かれて思わず声が大きくなってしまった。なにしろ今の彼は無職だ。お金を稼ぐ手段なんて限られている。
「パパが頑張って援助をもぎ取ってきたから、今日は奮発して保存食を解放しちゃうわ!」
「おう、父さんに感謝しながら食えよ! ワハハハ!」
両親は上機嫌な様子で席に着き、ワインのグラスを傾ける。一方のエディは落ち着かない気分になり、何度も座り直しながら足をぶらぶらとさせていた。ブラウンの髪に空のように青い瞳という、同じ特徴がある親子だが、性格はまったく違う。それを自覚しているエディは、自分の情けなさに猫背の背中をさらに屈ませた。
「なぁ、レイナ。そういえばネルはどうしたんだ?」
「お昼寝してくるって言ってたわ。あの子にはあとでご馳走してあげましょう。ほら、エディちゃんはもっと食べて!」
母上に促されたエディはナイフとフォークを掴むと、目の前の肉を切り分け口に運んだ。
「そういえば父上」
「ん、なんだエディ」
数年ぶりの豪華な食事に舌鼓を打ちながら、彼は気になっていたことを尋ねることにした。
「父上はこの呪われた地で、どうやって農業を再開するおつもりなのですか?」
これまでジャガー家は、この枯れ果てた土地で様々なことを試してきた。固すぎる土をほぐすために、王都から有名な水魔法使いを呼んできたこともあったし、瘴気の研究が載った高価な本を他国から取り寄せたこともあった。しかしどれも不発で、上手くいった試しなんて一度もなかった。
「そういえばさっき、パパが秘策があるって言っていたわね」
レイナは緑のピクルスをポリポリと齧りながら、隣に座る夫を見た。
そのとき、秘策と聞いたエディの背中に変な汗が流れた。
(父上の秘策だって? なんだか、すっごく嫌な予感がするのですが……)
息子のそんな心配をよそに、グレンは待ってましたとばかりに得意顔になった。
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれた。丁度いい、今ここでそれを披露しよう」
そう言って一度キッチンを後にすると、木箱を両手に抱えて帰ってきた。それをテーブルの上に置くと、二人に見えるよう蓋をずらした。
「これは……ジャガイモの種?」
「スコップみたいな道具もあるわね」
中に入っていたのは、装飾の入ったガラス箱に納められた小さな種芋だった。そして片手で握るタイプの小型スコップ。鉄製っぽい見た目で、柄のところには緑色の小さな石が嵌められている。木箱の中身は……これでおしまいだ。
これが彼の秘策らしい。スコップを使って種を埋めるつもりなのだろうか。
「聞いて驚けエディ。このジャガイモの種はな、ただの種芋じゃないんだ」
「特別って……僕の目には普通の種芋にしか見えないのですが」
引きつる顔でエディがそう言うと、父はニンマリと笑みを作った。
「侯爵が懇意にしている商人が、今回は特別にって売ってくれてな。実はこれ、迷宮で発見された“魔法の種芋”らしいぞ」
「迷宮!? あの難攻不落で有名なダンジョンの!?」
彼らの住む大陸には、財宝の眠る迷宮がいくつかある。そこには魔物やトラップという死の危険はあるものの、人知を超えた力を持つアイテムが眠っているそうで、運が良ければ一生を遊んで暮らせるほどの財宝が得られるそうだ。だから戦闘や探索のジョブを持つ人たちは冒険者となり、こぞって迷宮に潜っていく。
生まれて初めて迷宮産のアイテムを見たエディは、ポカンと口を開けていた。
「そしてこっちのスコップは、どんな土でも掘れる夢のような魔道具らしい!」
「ま、待ってください父上。それだけの効果を持つアイテムに対して、どれだけのお金を払ったんですか?」
震えた声で訊ねると、グレンは顎の無精髭をジョリジョリさせながら「んー、金貨四千枚ぐらいかな」と答えた。
「よ、よんせんまい?」
「ちょっと待ってパパ。侯爵からお借りしたお金は……まさか」
グレンは深く頷くと、いつもの能天気な笑顔でレイナの肩をポンと叩いた。
「あぁ、そっくりそのまま使ったぜ。でもこれで畑が作れたら、ここは再び豊穣の地になる。そうすれば金なんてあっという間に返せるさ!」
どうにも不安の残る言葉だ。母レイナも同じ気持ちだったのか、顔を真っ青にさせている。そんな母を見て、エディはいてもたってもいられず立ち上がった。
「どうして父上はいつもそんな楽観的なんですか! これまで散々試してダメだったのに、今回だけ成功する保証なんて無いでしょう!」
「いや、しかしだな……」
「そんな夢みたいなこと言って、もし失敗したらどうするんですか!?」
そうなれば間違いなく、今よりもっと悲惨な暮らしがやってくる。それで困るのは母や幼い弟、そして領民たちである。
ずっと我慢していた不満を吐き出すように、彼の口から次々と言葉が溢れてくる。
「いつも父上はそうだ。なんでそう無計画に行動できるんですか? もう子供じゃないんだから、夢とか理想ばっかり追いかけるのはやめてくださいよ!」
「お、おいエディ落ち着けって。仮にダメでも、父さんが魔物を狩って稼いでくればいいだろう?」
もはや父親としての威厳は消失し、オロオロと狼狽えるしかない。
とはいえ、エディが怒るのはもっともだ。魔物狩りで金を稼ぐ? なにかの理由でグレンが死んだらそこで終わりである。
そもそも一時的に凌げたとしても、問題が根本的に解決するわけではない。継続的に男爵家が存続していけるようにしなければ意味がないのだ。
こうなったら父上に現実を見てもらおう。そう判断したエディは部屋の壁に移動すると、カーテンを開きながらこう叫んだ。
「ちゃんとその目で見てくださいよ! 草ひとつ生えないこんな土地じゃ、男爵家に未来なんて……えっ?」
そのとき、三人の時間は停止した。三対の碧眼が向くその先、そこには巨大なヒマワリが咲いていた。