第-2話
「し、死んでる……?」
ヒグラシも寝静まる八月の深夜零時。出張から帰宅した俺は、真っ暗な自宅マンションのベランダで横たわる亡骸を前に、膝から崩れ落ちた。
「紅里ぃ! どうしてこんな姿に……」
急いで駆け寄り、力なくグッタリとしている彼女を両手で抱き寄せる。着ているスーツが汚れようが、そんなことはどうだっていい。
「お願いだ、返事をしてくれ――」
都会の生活に憧れ、大学受験と共に田舎を飛び出して早十年。立派な社畜となったアラサーの俺は、毎日のように実家へ帰りたいと泣いていた。そんな自分の癒しとなっていたのが――彼女(ベランダ菜園のミニトマト)だったというのに!
「俺たちの子供(果実)が大きくなったねって、一緒に喜んでいたじゃないか……!」
それが出張を終えて帰宅してみれば、この惨状である。元気だったミニトマトの姿なんて、今や見る影もない。だが俺を襲った悲劇はそれだけではなく――。
「そんなっ。紫苑、翠……!」
他の鉢植えにあったナスやピーマンまで!?
嘘だろ、愛称までつけて種から大切に育てていたのに……今年の夏は異常な暑さだと聞いてはいたが、まさかたった一日で枯れてしまうとは。 くそっ、この世に神はいないのかよ!?
「うぅっ。俺が出張なんて行かなきゃこんなことには……」
そもそも製薬会社の営業マンって仕事が、あまりにもハードなのがいけない。
病院のドクターに薬の売り込みをするのだが、頭のいい先生たちを納得させるためには当然、薬の知識が山ほど必要になるわけで。元々文系でこの業界が門外漢だった俺は、入社してから数年経った今でも日々の学習に追われている。今日だって勉強という名目で、地方の学会へ強制参加させられたところだった。
本来なら出張先で一泊するところを、嫁(野菜)たちが心配という理由で、最終の新幹線で帰らせてもらったのだが……はぁ、間に合わなかったか。
「あー、もう鬱だ。こうなったらヤケ酒でも飲むしか……ん? なんだ?」
冷蔵庫にストックしてあるビールを取りに行こう。そう思ったところで、ズボンのポケットに入れていたスマホが震え出した。
電話か? 表示は……田舎の実家?
「はい、もしもし。あぁ、母さんか。どうしたの?」
電話口から聞こえる懐かしい声で我に返った俺は、腕の中の紅里をそっと床に置くと、用件を尋ねることにした。
「あー、来週? 悪いけど、今回も帰省は無理そうなんだよね」
……どうやら今度のお盆休みについてだったらしい。こちらがやんわりと断ると、「またなの?」と明らかに呆れた声色へと変わった。
マシンガンのように続く有難いお叱りを聞き流しつつ、俺はベランダの手すりに背中を預けて空を見上げた。都会の夜空は狭く、輝く星たちもいない。真っ黒な背景に孤独な月がひっそりと浮かぶ、物寂しいキャンバスがあるだけだ。
「え? 恋人? 違うよ、仕事だって。今も出張から帰ってきたばっかりでさ。疲れたから、酒でも飲んで寝ようかと思っていたんだ」
そんな愚痴をこぼすと、今度は心配そうな声が返ってくる。
「あ、いや……大丈夫、ちゃんと食べてるよ」
もちろん、真っ赤な嘘だ。昼はだいたいカップ麵かオニギリだし、夜はコンビニ弁当ばかり。栄養なんて考える余裕はない。
声を聞いていたら、なんだか母さんの肉野菜炒めが食べたくなってきた。農家をやってるだけあって、野菜がめっちゃ美味いんだよなぁ。
「仕事が落ち着いたら、こっちから連絡するからさ。親父にもよろしく言っといてよ。……うん、うん。それじゃまた」
こうなったらボロが出る前に、さっさと話を切り上げて電話を切るしかない。……はぁ。何が悲しくて、実の親にこんな嘘を吐かなきゃならんのか。
「そりゃあ俺だって、帰れるなら実家に帰りたいよ」
夕焼け色に染まる稲穂に、忙しないセミの声。家に帰れば畳の部屋に寝転がって、婆ちゃんと一緒にテレビの大相撲を見たっけなぁ。
懐かしい記憶を振り返ると、無邪気だったあのころが一番幸せだったように思える。今じゃ時間とノルマに追われ、まともなプライベート時間なんてとれないしさ。
「父さんのことも心配だし……」
母さんいわく、このところ父は足を悪くして寝てばかりらしい。前に会った時は、元気に畑を耕していたはずなのに。
いやいや、ここで俺が出戻りしたところでなんの解決にもならんだろう。
我が儘を言って農家を継がずに、都会へ出てきたんだし。弱音を吐いて逃げ帰るわけにはいかない。ここで立派にやっていくことがなによりの恩返しだ。
「それに……瑚乃葉ちゃんとの約束もあるしな」
スマホの待ち受け画面に表示された、小さな女の子とのツーショット写真。笑顔でピースをしている彼女は、画面越しに俺を見つめている。
この子と出逢ったのは、俺がまだ新人だったころ。当時の俺は、営業のノルマを達成することばっかりで。売っている薬がどんな人に届いているかなんて、まるで考えていなかった。
そんなとき、俺は営業先の病院で入院していた瑚乃葉ちゃんと知り合った。病気と闘う彼女を間近で見ているうちに、俺は自分勝手な考えを改めた。
残念ながら、三年前に瑚乃葉ちゃんは亡くなってしまったけれど……この子と出逢えたおかげで、彼女みたいに病気で苦しむ患者さんのために、より良い薬を届けたいって思えるようになったんだ。
だからこうして俺は社畜を頑張れているのだが……。
「きゃああ!」
なんだ? ベランダで物思いにふけっていると、右隣の部屋から唐突に悲鳴が上がった。
「俺という彼氏がいるのに! どうしてあんな奴と!」
「誰が彼氏ですか! ただのストーカーのくせに、私の部屋へ勝手に入ってきて……警察を呼びますからね!」
おいおい、カップルの喧嘩かよ。と思いきや、女性の言葉から察するにただのケンカではないようだ。
気になった俺は、仕切りの壁から頭を出してみた。覗き見るのは犯罪だが、さすがに今は緊急事態だからしょうがない。偶々なのか隣室にあるベランダの窓は開いており、中の様子が窺えたのだが――、
「そうやってお前も、俺を捨てるのか……?」
「ちょ、ちょっと!? なにをするつもり!?」
なんと黒パーカーの男が、持っていた紙袋から刃が剝き出しの三徳包丁を取り出すところだった。一方で隣人の女性は恐怖で腰を抜かしてしまったのか、逃げもせずにへたり込んでしまう。
やべぇ、このままじゃ死人が出るぞ!?
「通報……駄目だ、それじゃ間に合わねぇ!」
そこからは完全に無意識の行動だった。気づけば俺は、手すりを乗り越えて隣のベランダへと向かっていた。そして部屋の中で刺されそうになっていた女性の隣を抜け、包丁を向けてこちらに走りくる男へと両手を広げて飛び込んだ。
「ってぇ……」
腹の中心に熱を感じる。いたい、くるしい。床を転がりもがいていると、俺を刺した犯人は血を見てビビったのか、「うわぁあ!」と喚きながら玄関の外へと逃げていった。
「だ、大丈夫ですか!?」
我に返った隣人さんが、声を震わせながら俺の身体を揺すっている。可哀想に、顔なんて涙でグチャグチャだ。途中で救急車、と気づいたのか、スマホに手を伸ばしかけたが……もうダメだ。俺の意識はもう、どんどんと遠くなっていく。
「ごめん、母さん。親孝行、できなかったや……」
さむい。自分の身体が急速に冷えていくのを感じる。頬を涙が伝い、固いフローリングの床を濡らしていく。
これで俺の人生は終わりなのか……苦しい社畜生活も、煩わしい人間関係も、痛いのも苦しいのも、もうこりごりだ。
あぁ、もし来世があるのなら。そのときは田舎で平和なスローライフをしたいなぁ――。
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