遺骨
荒川町下山地区での災害復旧作業は進んだ。しかし北川家だけは家族だけでやっていたので遅れていた。他の家が床下の泥を掻き出すことを終えたのに、北川家はまだ半分も終わっていなかった。澤田は藤田に
「やっぱりどうしても掘り出されると困るものがあるんですよ。」とつぶやくと藤田も
「床下のどこかに死体を埋めたんだろうな。それしか考えられないよ。」と答えた。しかし証拠がないので行政執行には立ち入れなかった。何とかあの床下の土砂の掻きだし作業をすることができればと考えていた。
すると突然チャンスは訪れた。午前中の作業が行われていたとき、北川家から下流に30mほど行った草むらの中でボランティアの青年が声を上げた。
「わー。骨です。人骨です。」と大きな声を上げた。一斉に周りにいたボランティアたちが集まっていてその骨を掘り上げた。彼らの中には高学歴の者も少なくなく、大学で生物学を学んだ者もいた。その中に一人が
「間違いありません。人の骨です。右足のひざから下の下腿骨です。この大雨でどこかに埋まっていたものが表出して流れてきたんでしょうね。」と分析していた。周りは大騒ぎになり救援隊を通じて警察の通報され、福井県警と福井警察署の捜査が始まった。骨は福井署に持ち込まれDNA鑑定が行われることになった。現場周辺では他に骨がないかどうかの捜索が始まった。すると何か所かで人骨が発見された。
骨はどこから来たのか、警察では死体遺棄事件という事も考えたが、墓場に納骨されていたものが流れてきたという事も考えられるという事で、事件と事故の両面での操作が継続された。
しかし捜査の過程で澤田が刑事に例の疑惑について情報を提供した。捜査に当たっていた刑事が避難所に現れた時、澤田は刑事を体育館の脇に呼び出し
「私は福井市役所の住民福祉課で軍人恩給の遺族年金受給者を個別訪問して生存確認をしていましたが、実は先日、下山地区の北川家に伺ったんですが、面談を拒否されて、年金受給者である北川誠さん79歳に会えていないんです。状況から考えて北川誠さんは死んでいるのではないかと疑念を抱いていたんです。そこに今回の災害で北川家も被災しましたが、北川家は頑なにボランティアの受け入れを拒否しています。私は北川さんが敷地内に誠さんの死体を埋めて、年金を受給し続けてきたことが露見しないようにボランティアを受け入れないんだと思うんです。荒唐無稽かもしれませんが、お爺さんの年金が北川家にとっての主な収入源だったので、死んでしまった時に死亡届を出せなかったんではないかと思うんです。」と情報提供した。するとその刑事は内容を手帳に書き留め
「情報提供有難うございます。ただ決定的な証拠があるわけではありませんので、こちらとしては誠さんの生存を確認してみたいと思います。いないとなると遺体遺棄の可能性が出てきます。しばらくお待ちください。」と言って捜査に戻っていった。
警察に情報提供したことを藤田に告げると藤田は課長にも報告して置こうと加山課長の所に澤田を連れて報告に行った。課長は
「あくまでも職務上知りえた憶測を警察に相談したという事だ。ここからは警察の捜査を待ちましょう。」と言ってくれた。
事態は意外と早く進展していった。警察の捜査でさらにいくつかの骨が見つかり、さらに北川誠さんの生存は確認できなかった。親戚の家にも老人施設にも存在を示す証拠はなく、北川豊子さんの証言は覆され、任意に提出された北川誠さんの遺品からDNAが発見された人骨のDNAと一致したのだ。これを受けて警察は北川家の敷地を捜索したところ残された頭骨や背骨などが発見され、最終的には北川豊子が犯行を自供した。
自供の中で北川義仁の関与についてはなかなか口を割らなかったそうだ。義仁は中学生の頃に周りの人間関係のもつれから半年ほど不登校経験があった。高校大学では普通にやれていたが、会社に入り営業成績でノルマを課せられ、上司からのパワハラぎみの圧力に精神を患い、完全に引きこもってしまったらしい。北川家では北川誠が父、北川勝三の戦死に伴う軍人恩給の遺族年金が勝三の妻の妙子に支給されていた。しかし妙子の死で普通なら遺族年金も終了のはずだったが、勝三と妙子の息子である誠は生まれながらの肢体不自由があり、子に対する遺族年金が支給され続けてきたので、北川家にとっては誠の遺族年金が豊子と義仁にとって貴重な収入源となっていたのだ。誠が死んだ日のことについては義仁が詳しく証言したらしい。彼の言葉を借りれば
「仕方なかった。」ということだ。