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軍人恩給  作者: 杉下栄吉
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生存確認2

 2024年、福井市役所の住民福祉課に努める藤田憲一は29歳になっていた。市役所に採用されてすぐに住民福祉課に配属され7年間、国民年金や老齢福祉年金、恩給関係の仕事を続けてきた。福祉関係の専門家になるために異動を拒んできたわけではなかった。大学は法学部だったので行政一般を経験したいと考えていた。しかし上司である住民福祉課長の評価は芳しくなく、事務能力が低く仕事に対する熱意もあまり高い勤務評価を受けていなかった。人事異動で他の課の課長たちからスカウトされなかったのが現実なのである。しかし本人はそのことを知らず、適当な公務員生活を貪ってきた。

 この日も先週から手を付けていた年金から差し引く住民税などから政府が打ち出した減税分を差し引く額についてのチェックをだらだらとやっていた。するとその様子を見ていた加山課長が

「藤田君、チェック作業の進行具合はどうだ。早くやらないと差し迫った仕事はそれだけじゃないんだぞ。早く正確に仕事を済ませて、次を頼みたいんだ。」と急き立ててきた。しかしこの7年間、必死になって仕事をした経験などない藤田は市役所の仕事と言うのはあまり慌ててはいけないという意識を持っていた。7年間の経験と言うのは恐ろしいもので、課長の指摘を上回っていた。1週間前からやらせてきたチェック作業が1日当たり20人しか進んでいない藤田の仕事ぶりに、しびれを切らせた加山課長は頭に血が上り

「国が7月の支給から減税分を反映させろって言ってるんだ。市長からもしっかりやるように厳命が出ている。もうお前はこのチェック作業から外れろ。」と大声で叫んで藤田の机から資料を取り上げると近くの席の吉沢主事の机に置いて

「吉沢君、こっちのチェック作業を大急ぎで頼むよ。大事な仕事だから頼んだよ。」と言ってベテランの彼女の肩を叩いた。吉沢さんはこの課のエースで住民からのクレーム処理から大切な企画立案まで課長の懐刀だった。彼女は不平も言わずに頷くと、資料に目をやって確かめると藤田の方を見て笑顔を見せ、気にするなと言っているように頷いていた。

 自分の机に戻った加山課長は別の書類を持って藤田の方に歩いてくると

「藤田君、手が空いたからこっちの仕事を頼むよ。遺族年金受給者の確認作業だ。数年ぶりの家庭訪問しての生存確認もしろという厚生労働省の命令だ。外回りだから気も晴れるさ。そうだ、新人の澤田さんを連れて回ってくれ。澤田さんの新採用研修も兼ねよう。しっかり指導してくれよ。」と言って厚労省の文書を置いていった。

 書類を受け取った藤田は手にとってじっくりと読み始めた。すると加山課長の方から小さい声で

「これでしばらくあいつの顔を見なくて済むのかな。」と課長補佐に言っている声が耳に入った。藤田はぐっと怒りを我慢して資料に最後まで目を通した。厚労省の指示では軍人恩給の受給者は年々高齢化していて、残りは少なくなってきた。今後の予算処置のためにも正確な生存確認をしてほしいという事だった。戦後80年近く経って軍人だった人はほとんどが100歳を超え、戦死した軍人の未亡人たちも残っている人はわずかだ。遺族年金の支給対象は戦死した軍人の両親、配偶者、および障害のある子弟となっているので、障害のある指定を除けば数パーセント程度の100歳前後の高齢者だけになっていると書かれている。

 書類を読み終えた藤田は自分が持っている軍人恩給と遺族年金の支給者名簿をファイルから取り出してコピー機で複製し、先ほどの書類に添付させた。そして今年の4月に採用されたばかりの澤田のデスクに行き書類を渡し

「澤田さん、課長から直に命じられた重要な任務のために外回りに行くから、一緒に来てください。30分後に地下の駐車場から公用車で出発するから、それまでこの書類をしっかり読んでおいてください。」と言って総務課に車のカギを取りに向かった。

 澤田佳子は同志社大学出身の22歳、優秀な市役所職員としてこの春、採用されこの住民福祉課に配属された。福井市内の実家から通っている。まだ任された仕事はなく、新採用研修中である。書類に目を通し厚労省の趣旨を理解した澤田は支給者名簿にも目を通した。多くの名前が書かれていたが、死亡年月日の所に記載があり、ここ数年で死んでしまった人を除くとそうたくさんはいないことに気が付いた。しかし残された人数を数えると10人程度であることを確認するとすぐ終わりそうな気がした。ただ藤田と一緒に外回りすることが気にかかった。藤田も高学歴のようだが、気難しそうであまり仕事熱心ではなさそうだからだった。少し憂鬱な気持ちがあったが気を取り直して住民福祉課の部屋を出た澤田はエレベーターで市役所地下駐車場に向かった。地下駐車場は市民も利用するが、福井市の公用車の駐車場でもあった。エレベーターを降りて公用車置き場へ行くと藤田が福井市と書かれた白い軽自動車に乗って待っていてくれた。ドアを開けて中に乗り込むと

「かわいい車ですね。電気自動車ですか。」と聞くと運転席の藤田が

「地球のために環境にやさしくすることは役所として率先しなきゃいけないだろ。」と言ってエンジンスタートスイッチを押した。電気自動車は音もなくスイッチが入った。藤田がアクセルを踏むと静かに発進した。外に出る坂を上ると眩しい光で目に刺激を受けたが、しばらくすると目も慣れ、福井駅前の通りを走り始めた。

「最初はどこから行きますか。」と澤田が聞くと

「最初は一番近い松本1丁目から行こう。その後は君が行程を考えてくれ。」と藤田が澤田に頼んだ。

 車はフェニックス通りを北上し、東下の交差点で松本通りに入った。しばらくすると大きなお菓子屋さんの看板が見えた。このあたりは江戸時代の北國街道で加賀口御門があった場所で加賀の国へ向かう出口だったところだ。そのお菓子屋の角を左に曲がって数十メートルで目的の林さんの家に着いた。林家には戦死した兵隊さんの奥さんが住んでいるはずだ。名簿では102歳となっている。車を停めて車外に降りて家のチャイムを押した。中から女性の声がして玄関の扉が開いた。

「近田さんのお宅ですね。市役所の住民福祉課から参りました藤田と澤田です。今日は遺族年金受給者の確認作業のために参りました。よねさんはご健在ですか。」と聞くとその女性は

「市役所の方ですか。母はおりますが歩くのも少し困難になってきています。しばらく待っていただければ車いすに乗せてここまで連れてきますが。」と言ってくれた。

藤田はわざわざ足の悪い人を車いすに乗せるのも大変なので恐縮して

「足が御不自由でしたら御無理なさらないでください。間違いなく御生存ですよね。」と言ってよねの顔を見ずに済ませようとした。すると澤田が藤田の方を見て

「先輩、きちんとお顔を見させていただいて間違いなく確認しないといけないのではないですか。」と新人ながら躊躇せずに進言した。藤田は顔を曇らせたがその様子を見た近田さんの奥様は様子を察して

「大丈夫ですよ。車いすに乗せてきますから、少し待っていてください。」と言って中に入っていった。先輩に進言した新人はその場の気まずい雰囲気を感じていたが、仕事だからと割り切っていた。しばらく待っていると奥から車いすに乗った老婆を先ほどの女性が車いすに乗せて廊下を出てきた。澤田はその老婆に向かって

「近田よねさんですか。大正14年生まれですね。お元気ですか。」と耳が弱くなっているのではないかと配慮して大声で聞いた。するとその老婆は

「そんなに大きな声で話さなくても聞こえるよ。耳が痛いじゃないか。何年生まれかは忘れたけど名前は近田よねだ。私に何の用があるんだい。」としっかりと話しかけてきた。藤田も澤田もその老婆の健在ぶりに驚きを隠せなかった。

「おばあちゃん、お元気ですね。ご主人は戦争でお亡くなりになったんですよね。懐かしいですか。」と澤田が聞くとその老婆はさばさばと

「あまり覚えていないよ。結婚してすぐに戦争に行ってしまったから。この子と私を残して帰ってこなかった。でも私たちに恩給だけは残してくれたから感謝しないとね。」と少し笑いながら話してくれた。藤田は携帯でおばあさんの写真を撮って

「それじゃ、おばあさん。おばあちゃんが元気なことを確認できたので私たちは帰りますね。」と言って玄関を閉めて車に戻った。

「それにしても102歳のおばあさん、元気でしたね。戦時中、粗食だったことが健康上は良かったのではないかと言われてますよね。」と澤田は藤田に話しかけた。藤田は

「君は老人に話しかけるのが上手だね。次からも頑張ってくれ。」と伝えた。


 そこから次々と関係のお宅を訪問し、生存確認は進んでいった。そして荒川町の北川家を訪れた。近くの道路上に軽自動車を停めると澤田が名簿を見ながら

「この北川誠さんは75歳です。戦死した勝三さんの息子さんです。めずらしいですね。」と言うと藤田が

「4年前にこの家に電話したことを覚えているよ。安否確認したけど戦死者の息子さんは肢体不自由で就労してなかったんだ。誠さんお息子もいて40過ぎだったけどその人も働いていなかったな。」と記憶をたどった。

 車から降りて書類を手に持ち北川家の玄関のチャイムを押した。中から返事がないのでチャイムを何回か押した。すると中から女性の声がして扉が開いた。

「どなたですか。」とその女性が聞いてきたので

「市役所かの住民福祉課から来ました澤田と藤田です。」と言って首から書けた市役所の職員IDを見せた。そして

「こちらに誠さんがいらっしゃると思うんですが、ご健在でしょうか。」と聞くと

「主人は寝たきりでして奥のベッドで寝込んでいます。生まれながらに肢体不自由で歩行に困難がありましたが、20年ほど前からは病気にかかり、ベッドから出られなくなりました。」と言って中に入れてくれそうもなかった。藤田は簡単に引っ込むと澤田にまた突っ込まれる気がして

「私たちは遺族年金の受給者の方たちの健康確認も兼ねていますので、是非お目にかかりたいんですが。」と食い下がった。すると北川家の奥さんは

「とてもお入りいただくような部屋ではなくてお見せできません。」と面談を拒否してきた。それでも執拗に藤田が面談の必要性を述べようとすると澤田が

「藤田先輩。あまり無理にお願いしてもご迷惑ではありませんか。」と言って藤田に同意を求めると藤田が引き下がり、澤田が代表して

「それではまた後日ご連絡してから参りますので、誠さんに面談をお願いします。」と言って玄関をあとにした。

 外に出て先輩の藤田は新人の澤田にリードされて気分は良くなかった。しかし元々自分だけだったらそこまで執拗に面談を要求しなかったと思いなおし、

「それじゃ、また後日来るから、よろしくね。」と言って車に入った。澤田は

「先輩、あの家、怪しかったですね。誠さんは本当に奥の部屋で寝ているんですかね。あの奥さん、確か豊子さんですよね。何か隠している感じがします。それに息子の義仁さんの姿がありませんでしたが、どうしたんでしょうか。」と疑問点を投げかけた。藤田もその点は疑問に感じていて

「今度訪問するときにはきちんと聞き出そう。でも今日は成果があったと思うよ。」と澤田の活躍を褒めてくれた。


 市役所に戻り加山課長に訪問確認の成果を報告すると、仕事は山積みなので早く終えて次の仕事に取り掛かるように言われた。藤田は澤田のテーブルに歩み寄り

「北川家は1週間置いて来週訪問しよう。明日北川家に電話して本人に会える準備をしてもらえるように連絡をしておいてください。」とお願いした。澤田はこころよく了解してくれた。


澤田が連絡の電話を入れて翌週の水曜日、2人は北川家を訪問した。前回同様に北川家の近くの道路わきに車を停めて玄関のチャイムを押した。

「ごめんください。市役所の者です。訪問確認に来ました。」と澤田が大きな声で言うと前回のように豊子さんが出迎えてくれると思っていたが、何の返事もなかった。何回チャイムを押しても中に誰もいる気配がなかった。

「澤田、きちんと訪問する日時は言ってあるんだろうな。」と藤田がむっとした表情で問い詰めると勝気な澤田は負けじと

「ちゃんと伝えました。絶対居留守ですよ。中で息をひそめてるんじゃないでしょうか。」と反論した。しかし中の様子は変わらない。しばらく待って藤田が

「仕方ないから夕方になったら出直そう。」と澤田に提案した。澤田も納得して車に戻り市役所に帰った。

 市役所に戻ると加山課長に状況を報告して夕方になるのを待った。夕方までは溜まっていた書類の整理で休む暇もなかった。


 夕方6時になり、市役所の他の職員たちが帰って行ったが、2人は帰る支度も持って車に戻った。車はいつもの白い軽自動車ではなく藤田の車で向かった。北川家の訪問が終わったら藤田が澤田の乗る越前鉄道の駅まで送る段取りだった。2人が荒川町の北川家に到着すると北川家は真っ暗だった。電気をつけている様子もなかった。チャイムを押しても中は静寂を保っている。澤田は暗かったが玄関から少し横に回り、裏の方に行って見た。廊下のカーテンは完全に締め切っていたが、わずかに開いている隙間を探して中をのぞいてみた。すると奥の部屋にわずかながら明かりが見えて、かすかな人影を見た気がした。

 表に戻った澤田は藤田に声が中に聞こえないように気をつけながら

「藤田さん、やっぱり中にいますよ。カーテンのすきまから明かりが見えたし、人影が見えました。絶対いますよ。」とつぶやいた。藤田はやっぱりかと思って再び玄関のチャイムを押した。返事がないので玄関の戸を叩いて

「北川さん、市役所です。中にいるんじゃありませんか。」と大きな声で叫んだ。しかし中からは何の返事もない。中の家族は息をひそめて隠れているのかもしれないが、何の返事もないのでそれ以上どうしようもない2人はとりあえず帰ることにした。車の中で澤田は

「あの家族には何があるんですかね。何か事情があるから面談を拒否するんでしょうね。」と言うと藤田は長年の経験を生かして

「住民福祉に従事しているといろいろな家庭の事情に出くわすもんだよ。他人には言えない複雑な事情があるもんだ。あの家の場合は父親の誠さんにも何かあるかもしれないけど、息子の義仁さんにもなんかある感じがするね。注意してかかろう。」と話して彼女を電車の駅まで送った。電車を待つためにホームで立っていた澤田はぽつぽつと雨が降ってきたことを感じた。そういえば今朝のニュースで梅雨の長雨が続きそうだって言っていたことを思い出した。


 梅雨の長雨は線状降水帯を伴う豪雨になっていた。朝、市役所に向かおうとする澤田は家を出て電車の駅に向かったが、電車は遅れが出ていた。いくら待っても電車が来ないのでとりあえず家に帰って、父に車で送ってもらうことにした。車の中のラジオで雨が昨夜から100mmを超え、災害が発生する恐れがあるという事を聞いた。

 市役所に着くと何となく緊張感が走っていた。4階の大会議室には災害対策本部の設置準備をしているらしかった。隣りの机の女性に

「災害の恐れがあるんですか?」と聞くと彼女は

「昔からよく氾濫がある荒川が危険水位を超えそうだって言ってたわよ。課長も課長補佐もさっきから避難所解説の準備で走り回っているのよ。」と言ってさう害対策マニュアルを読み直していた。澤田も災害対策マニュアルを配布されていたので、机の脇に掛けてあったつづりを取り上げて、ページをめくると最初に避難所解説マニュアルが出てきた。少し読み始めると大きな音で館内放送がなった。

「職員の皆さんに緊急連絡です。ただいま市長が災害対策本部の設置を宣言しました。そして荒川地区の荒川小学校体育館に避難所を開設します。マニュアルの基づき担当課は役割分担をして避難所解説の準備をお願いします。」と大声で緊迫した雰囲気で怒鳴っている。どの課が担当名の七と思いながらマニュアルをめくると荒川地区の荒川小学校は澤田たちの住民福祉課の担当だった。驚いているところに課長と藤田が急いで戻ってきた。

「みんな揃っているかな。放送は聞いたか。荒川小学校はうちの課が担当だ。今から役割分担を発表する。藤田と澤田はまず小学校体育館のカギを持って現場に向かい、現場の安全をか確認してくれ。安全が確認されたら避難所として公表する。吉村と林と坂下は建設課のトラックで防災倉庫に行ってマニュアルに載っている物品を積み込んで小学校へ向かってくれ。野澤と杉下は役所内で連絡係。災害対策本部と避難所の連絡を取るために役所内を走り回ってほしい。他は通常業務。以上だ。よろしく頼む。」と言ってまた4階の災害対策本部にあがっていった。

 澤田と藤田は市役所の駐車場に移動し、いつもの白い軽自動車に乗り込むと大雨が降りしきる中を公道へと出て行った。荒川小学校までは20分程度だ。しかし途中から道が水で覆われ、ゆっくりと進むことを余儀なくされた。藤田はもう少し大きな4WDで来なかったことを悔やんでいたがもうすでに後の祭りだ。しばらく行くと荒川の堤防に出た。普段は川底近くにわずかな流れしかない川だが、今日は堤防ぎりぎりまで泥水が溢れそうになって、激しく流れている。堤防を走ることに恐怖を感じながら必死に飛ばして荒川小学校を目指した。

 予定よりも20分以上遅れてようやく到着した2人は学校の職員室を訪れた。校長先生は連絡を受けていたらしく、2人を迎えてくれてさっそく体育館周辺の安全確認に出てくれた。川からは100m近く離れていて、しかも少し高台にあるので川の水が氾濫しても大丈夫なようだった。体育館の屋根からも雨漏りはしていないし、周りの排水路も今のところ働いている。玄関前に少し水が溜まっているが問題なさそうだった。そこで藤田は市役所に電話を入れて、安全を確認したと報告した。すると建設課のトラックに乗った職員が災害倉庫から非常用の食料や簡易ベッド、パーテーション、簡易トイレなどを運び込んだ。小学校の先生たちも手伝ってくれてトラックの備品を下ろした。

 しばらくすると緊急放送で荒川小学校の体育館が緊急避難所として開設されたことを知らせ、心細く思っていた老人たちが一人二人と少しづつ避難してきた。テレビ放送でも福井市に大雨洪水警報が出され避難所として何か所かが開設されたことが知らされ、その中に荒川小学校体育館と書かれていた。

 藤田と澤田は体育館玄関で受付の係をした。入ってくる人たちを順番に受け付けて名簿作成をするのだ。家を空けて出てきているので救助隊が行方不明としたリストの中に避難所に来ている人がいた場合、行方不明者リストから削除しなくてはならないからだ。また休憩場所の確保、食料の準備など人数確認は避難所運営の根本になる。どんどん人は増えて来て体育館の半分くらいが埋まってきている。さらに天気は回復する気配がなかった。雨の勢いはこれまで経験したことのないレベルに達し、一瞬の猶予もない位の緊張感が避難所にも救援隊にも広がって来ていた。そしてあたりが暗くなってくるとその恐ろしさは格段に増してきた。

 自治防災組織の会長さんを通じ、災害倉庫から運んできた物資の中からわずかな食料を避難者に配布し、全員が少し落ち着いた夜9時ごろ、その知らせは避難所にもたらされた。必死の救援活動をしていた消防隊のメンバーが血相を変えて避難所に入ってきた。

「荒川の下山地区で堤防が切れた。濁流が下山地区の民家を飲み込んで、こっちの方にも流れてきている。みんな出来るだけ高いところにいた方がいいぞ。」と自治防災会の会長に伝えた。荒川小学校の校長もいたのでその場で校舎の3回の教室を解放することが決められ、体育館にいる避難者に3階の教室に逃げるように伝達された。濁流が迫ってきているかもしれないという恐怖で全員がすぐさま移動して3階の6年生と5年生の教室に入った。

 藤田と澤田は避難者を誘導して一緒に教室に行ったが、下山地区と聞いて嫌な予感がしていた。

「藤田さん、下山地区と言うのはあの北川家のある集落ですよね。北川家も大変なことになってますかね。」と聞くと藤田は

「北川さんの所は山のすぐ近くで谷川がすぐ横を流れているから、危ないかもな。」と地図を頭に浮かべながら話した。一晩中雨の勢いは収まるところを見せなかった。


 雨は夜中の3時ごろには峠を越し、線状降水帯は消えた。天気は回復し晴れ間が見えて気温は上昇してきた。藤田と澤田は避難民に朝ご飯として乾パンとペットボトルを配布して回った。幸いにして小学校の体育館は浸水を免れ、教室から体育館へ異動も始まった。

 消防署員や消防隊員で組織した救援隊が激しい被害があったと思われる下山地区に向かうことになった。大型の車で20人以上が行くらしいので、藤田も市役所の代表として現地の様子を見る名目で同乗した。澤田は藤田に

「ついでに北川家の様子も見て来てください。」と言うと藤田も

「そのために行くような物さ。見てくるよ。」と言って手を振った。


 被災地は地獄のような様相だった。水が少しひいたとはいえ、道路が川のように水が流れ、道路わきの田んぼとの境が分からない。車は細心の注意を払って進んでいくが、いつ田んぼに落ちてしまうかもしれない危険性をはらんでいた。村のはずれに車を停めるとそこからは船と歩きだった。道は足首まで水が流れ運ばれてきた砂利で歩きにくい。民家が見えてきたが、屋根と1階の柱はあるが1階の壁がない。土石流が家の中に流れ込んだのだろう。今も水が流れ込んでいる家もあるが、多くの家は水は引いているが土砂で埋まっている。この村は復興できるのだろうか。そんな思いが藤田の脳裏に浮かんだが、調査に来たのだから写真を取りながら本部に報告を上げなくてはいけない。少し進むと山に面したところに北川家があった。北川家の損傷は特に激しかった。山からの土石流は家を飲み込んでしまったようだ。1階の壁は流され床下がむき出しになっていて、柱が数本折れてしまっているので、2階部分が斜めになって1階に落ちてきていた。非道状態だなと感じて写真を撮っていると近くに見覚えのある老女が立っていた。北川豊子である。そしてその横に中年男性が立っていた。おそらく北川義仁だろう。2人とも途方に暮れている表情だった。何処から手をかければいいのかもわからない。家財道具もどこへ流れて行ってしまったのか見当もつかない様子だった。

 藤田は北川家の面談に来たわけではなかったので声をかけることもできなかったが、やはり北川誠がいないことは確認できた。

 救援隊が北川豊子に何か話している。どうも被害の状況を聞いて、ボランティアを受け入れるかどうかを尋ねているようだ。今日の午後か明日の午前中にはボランティアが入るだろう。しかし家主が拒否する家にはボランティアは入らない。棟目から聞いていると自分たちでやるからボランティアには入ってほしくないと言っているようだった。


 翌日、天候は回復して多数のボランティアが下山地区に入ってきた。澤田と藤田はボランティアの受付と接待で一緒に下山地区に入った。澤田も北川家のことが気になって見に行ってみると豊子と義仁がスコップと手押し車で土砂の排出を行っていた。100人程度のボランティアが来たので一軒当たり3人くらいは入れる計算だったが、北川家だけは依然として受け入れを拒否していた。


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