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軍人恩給  作者: 杉下栄吉
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誠の死

2020年、誠は75歳になっていた。車いす生活だったが運動不足から内臓疾患を患い、ベッドで寝たきりの生活になっていた。誠の介護は妻の豊子があたっていたが、高齢の女性にとって男性の寝たきり患者の介護は負担が大きかった。特に床ずれ防止のために3時間ごとに左向きにしたり右向きにしたり上向きにしたり、またお尻の下にクッションをいれたりして動かすことは豊子の体力を奪い、さらに豊子の腰に大きな痛みを蓄積させてきた。また排泄物の処理が大きな仕事だった。立ってトイレに行けないので大人用のおむつを当てているので、毎日3回から4回、交換した。そのうち一回は大便で誠の身体を左右に動かしながら器用に変えていたが、腰が痛くなる作業だった。

そんなつらい仕事だったが豊子が続けてこられたのは、誠が年間200万円程の遺族年金の受給者で、家族の生活を支えていたからだった。しかも息子の義仁は23年前に義母である妙子の葬儀に帰って来てから自分の部屋に引きこもっていた。すでに彼も48歳になっていた。豊子としては義仁に誠の介護を手伝ってもらいたいのだが、その義仁の世話も豊子にかかっていた。3食すべてお盆に乗せて彼の部屋の前に置いていたし、洗濯もすべて豊子任せだった。彼の姿を確かめるのは彼がトイレに行くときとお風呂に入るときくらいだった。3人家族だったが労働力は豊子だけだったのだ。

 

 その日は朝から雪が降り続いていた。妙子が死んだ23年前とよく似た天気で、北川家の前は雪かきもされず雪に閉ざされていた。道路は除雪車が来て車が通れるようになっていたが、除雪車が道路の雪を両側に残していったので、家の前は雪の壁のようになっていた。豪雪地帯の北陸では良く見る光景だが、普通の家では朝から家族総出で除雪車に恨み言を言いながら玄関先を開けるのが日課となっている。しかし北川家では労働力が豊子一人でその豊子も夫の誠の介護に付きっきりだったので除雪まで手が回っていない。特にその朝は誠の様子がおかしく、熱が高く咳もおさまらなかった。豊子は妙子が死んだときのことを思い出した。

「おとうさん、つらいですか。救急車を呼びますか。」と呼びかけると

「大丈夫だ。救急車なんか呼ぶな。近所の人が集まって来るぞ。」と咳き込みながら強がった。しかし熱が38度5分もあり額の汗が引きそうもない。豊子は誠の額に当てていた濡れタオルを何回も交換した。

 豊子が誠のベッドの脇で疲れて寝そうになった時、玄関のチャイムが鳴った。豊子がはっと気が付き玄関へ出て行き戸を開けると近所の男性2人が立っていた。

「北川さん、この大雪だ。町内一斉除雪になったから北川さんも誰か出てください。でも奥さんしかいないよね。忙しいかもしれないけど緊急事態だから協力してください。みんなまずは公民館の屋根雪下ろしだから、俺たちは先に行ってるから来てください。」と言ってスコップやスノッパ―を肩から担いで歩いて行ってしまった。豊子は近所付き合いしている場合じゃないんだけど若干思ったが、大雪は北川家だけの問題ではなかったので仕方なく従うことにした。ジャンパーを着て手袋を装着し、帽子をかぶって玄関に出るときに義仁のことが気になり義仁の部屋の前まで上がっていった。そして彼の部屋の前に立つと襖をノックして

「義仁、母さんは公民館の除雪に行ってくるから、お父さんの所に降りてきて、タオルの交換とか看病をしてくれないかい。頼んだよ。母さん言ってくるからね。」と部屋の中の義仁に語り掛けた。義仁は聞こえているのかいないのか、返事はない。しかし任せるしかなく豊子は玄関まで降りて長靴をはき、外へ出て公民館へ行った。

 公民館は村の中央にあり、平屋建ての大きな建物だが、屋根から落ちた雪がうず高く積み重なり、周りから見えなくなっていた。屋根には新しい雪が降り積もり、下へ落ちた雪とつながり、それ以上屋根雪が落ちなくなって屋根がつぶれないか心配な状況になっていた。村人たちは屋根に向けて梯子をかけ、上に登って屋根の雪を下に落としたり、下にたまった雪を周りの空き地や田んぼに捨てて屋根雪が落ちてくるスペースを作っていた。豊子は高齢の女性という事で屋根には上らなかったが、上から落とされる雪に注意しながら玄関前の除雪にあたっていた。

数時間作業をするとようやく目途がついてきた。屋根に上っていた男たちが頭から湯気を出して降りてくると玄関先でお茶を飲みながら休憩に入った。

「北川さん、誠さんは元気ですか。最近見たことがないけど。」と区長の吉田さんが聞くと

豊子は寒さで白い息を吐いているが、作業で出た汗をタオルで拭きながら

「先日から風邪を引いたみたいで、熱を出しているんです。」と言うと近所の澤田さんは

「豊子さん、もう雪除け作業はいいから帰って誠さんを見てあげてください。」と言ってくれた。周りの皆さんも澤田さんの意見に同意し頷いてくれた。豊子は誠のことが気がかりだったが、義仁のことも気がかりで早く帰りたいと思っていたので、簡単に挨拶してその場をあとにした。


 家に着くと豊子は着ていたジャンパーや手袋などを乾燥させるためにハンガーにかけ、廊下の選択物干しにかけて誠の元に向かった。そこには予想に反して義仁が枕元で椅子に座って誠を看ていた。

「義仁、降りてきてくれたんだね。ありがとうね。お父さんの様子はどうだい。熱は下がったかい。」と聞くと義仁は何も答えなかった。ただ誠を見つめるだけで、微動だにしないし誠も目を瞑ったまま身動きしない。

「どうしたんだい、義仁。看ててくれたんだろ。」と言って義仁の肩に手をやり近づくと

我に返ったように義仁が母の方を見て

「おとうさん、話しかけても返事がないんだ。」と言って呆然としている。豊子にとっても久しぶりに聞く義仁の声だった。20代のころに比べて義仁の声は年相応に老けてきている。しかし声のトーンよりもその内容がショッキングだった。誠が返事もしないという。

「お母さんが出て行ってからすぐに降りてきてくれたのかい。」と聞くと義仁は

「すぐではないよ。1時間くらいしてからこの部屋に来たんだ。」とぽつりぽつりとつぶやくように話した。豊子は公民館に行っていた数時間のうち最初の一時間だけ誰も見ていなかったことがわかった。豊子は恐る恐る誠の額に手のひらを充ててみた。熱は感じなかったが冷たいとも思わなかった。

「息はしているのかな。」横で見ている義仁が心配そうに聞いてきた。豊子は口と鼻に頬を充てて呼吸を確かめた。

「かあさん、どうだい。」と急き立てたが豊子にもよくわからなかった。すると義仁が掛布団の裾をめくり誠の右腕の手首を握り、脈を見始めた。

「かあさん、脈がないよ。心臓が動いてないんじゃないかな。」と死んでいるのではないかという疑問が大きくなった。

「かあさん、人が死んだときはどうすればいいのかな。おばあちゃんが死んだときはどうしたんだい。」と義仁が母である豊子に問いかけると豊子はおろおろしながら

「おばあちゃんの時は病院だったから病院がきちんとやってくれたし、知らない間に葬儀屋さんが来てくれて、病院からおばあちゃんの死体を運ぶのもしてくれたんだよ。何もしないうちにどんどん進んでいったんだ。だからどうしたらいいかなんてわからないよ。」と人の死後にするべきことなどわからないという事をアピールした。

 部屋には静寂の時間が流れて行った。義仁は48歳になっているが30歳の頃から引き籠っていたので精神的な成長はその段階でストップしている。しかいS

社会的な経験が不足している中で、長男として何とかしなくてはいけないという気持ちはあった。とにかく何とかしなくてはいけないと焦る中で

「かあさん、確か死亡診断というのは医者しか出来ないんじゃないかな。」とおぼろげな知識で語ると豊子は何か思い出したように

「そうだね。ドラマなんかでもお医者さんが腕時計を見ながら『午後11:23分御臨終です。』とか言ってるね。それにその医者が書いた死亡診断書を市役所に出すんだよ。」と知っている限りの知識を披露した。普通は病院で書いてもらった死亡診断書を持って死体と共に家に戻ると、葬式の段取りに入るがまずは葬儀社を選んで電話すると、すぐに係員が来てくれる。そして死亡診断書を渡すと役所への死亡届けを提出をしてくれる。そこで火葬許可書を発行してくれて、その火葬許可書がないと火葬場で火葬してくれない。だから通夜、葬儀、火葬という流れのためにはまず一番大切なのが死亡診断なのだが、自宅で死んだ場合には多くの人が面食らってしまう。

 豊子と義仁の場合もどうして良いか分からず、しばらくはあたふたしていたが、時間と共に布団に横たわったまま息をしていない誠を見つめながら途方に暮れていた。そんな沈黙がどれくらい続いただろう。豊子は誠のベットの脇の正座だが足首を広げておしりを畳につけて座り込んだまま、誠の手を握っている。義仁もその脇でひじ掛けのない木製の椅子に座ったまま、誠を見つめていた。

 夜になり、辺りが真っ暗になっても沈黙が続いた。外も雪がしんしんと降り続いた。残された2人は夜中になっても動かない。テレビもつけていないから全く音もない。天井からぶら下がった照明は補助球のオレンジ色のわずかな光だけが部屋を照らしている。誠の死に気が付いてから12時間以上たっていた。

 母の豊子が義仁を気遣い

「お腹すいてないかい。ラーメンでも作ろうか。」と言うと義仁は母を見て

「そうだね。お腹すいたね。」と普段と変わらない会話をした。誠はベットで横たわったままだが、12時間も座り込んで何も食べずに見つめていると、体が悲鳴を上げ始めるのだろう。義仁がしばらく待っていると豊子が

「出来たからこっちへおいで。」と声をかけた。誠が寝ている部屋の隣に台所兼食堂の部屋があり、中央にテーブルがある。その上に赤いラーメン鉢に何もトッピングが載せられていないインスタントラーメンが2つ乗せられている。

 義仁は椅子に座ると添えられた箸を持ち、温かいラーメンをすすった。湯気が顔にもかかってきたが、喉の奥にも刺激を与えわずかに咳き込んだ。しかし義仁は

「かあさん、おいしいね。ありがとう。」と母を見つめてつぶやいた。豊子はそんな義仁を見て、義仁が幼かった頃のことを思い出していた。

『こんな日常だった。昭和47年にお前が生まれて、大変だったけど幼いお前の顔を見れば元気になれたんだ。部屋に籠ってからは声も聞けなくなったけど、お父さんが死んでお前が帰って来てくれた感じがするよ。』と心の中でつぶやいた。奥の部屋では冷たくなった誠が横たわっているが、台所でラーメンを食べている2人はしばらく誠の存在を忘れる事ができていた。誠の死から半日しか経っていないにもかかわらず、誠の死を悼むよりも息子との思い出の方が優先したことに豊子はわずかながら罪悪感も感じた。しかし長年車いすの障碍者だった誠の介護で疲れ切っていた豊子の気持ちに、ようやく訪れた普通の生活に安堵感があったことも確かだった。

 義仁も車いすの父親の介護に明け暮れる母の姿を子供の頃から見てきているので、父の死を心の奥底で臨んでいたのかもしれないという悪魔のような気持ちの存在を否定できなかった。父のことが嫌いだったわけではない。しかしいつまでも母に介護を強いることに母を擁護する考えが目覚めていたのだ。いや、子供の頃から感じていたのだろう。


 ラーメンを食べ終えて食器を片付け、朝方になりテレビをつけると朝のニュースが始まったていた。昨日からの雪は北陸地方一円をすっぽりと白銀の世界に変えた様子が伝えられている。早朝の玄関先は真っ白い雪が降り続いているが、この家では誰も出て来て雪かきをしようとしない。73歳の母と48歳の息子はただじっと父親が眠るベッドの脇で座り続けている。時々食事を散りながら、食材が無くなると母が近所へ買い物に出かけ、ついでに銀行の自動現金支払機で口座から現金を引き出した。


 あれから数週間がたった。2月の下旬になり雪の激しい時期は過ぎた。朝晩はまだ冷え込むが雪はようやぅ消え始めた。北川家の生活も日常を取り戻し始めた。ただ誠の死体は死んだときのままベッドに横たわっている。死体から生じる匂いは真冬で部屋の中の温度も上げていなかったので、家の外までは漏れていないようだった。

そんな中、義仁が今後のことに思惑を巡らせ、豊子に言葉を発した。

「かあさん、父さんが死んじゃったら、もう遺族年金は無くなるんだよね。年金無くなったら我が家はどうやって暮らしていくんだい。」自分が働きに出れば解決することを棚に上げ、暢気なことを口走った。豊子は若いころから誠の介護をしてきたのでまともに働いていなかったので、厚生年金に加入していなかった。遺族年金を支給されていた誠の扶養家族だったので老齢福祉年金も額は少ない。

「どうしたらいいんだろうね。私の老齢年金は月に10万円にもならないよ。お父さんの遺族年金は月20万円近くあったから、なんとか暮らしてこられたけど、お前がどこかへ働きに行ってもらうしかないんじゃないかな。」と義仁の顔を眺めながら語った。しかしもう20年近く引きこもっていて一歩も外に出てこなかった息子の髭面の顔を見て、その期待が無理だと悟った。

「とりあえず、とうさんの死体はどうにかしないと部屋中死体の匂いが充満しているよ。」と義仁が言うと台所で夕ご飯を作っていた豊子が包丁の手を停めて

「葬儀屋さんに相談するといいんだろうけどね。でもそうすると役所に届けを出して遺族年金は打ち切られるだろうね。」落ち着いた声で話しているが、自分が言っていることのことの大きさに少し引きつっていた。

「それじゃ、どこかに埋める事にするかい。」と犯罪につながる発言をした。

「そんなことしたら警察に捕まってしまうだろ。」と豊子がたしなめると義仁は声を殺して低音で

「やるしかないよ。死んだ父さんには申し訳ないけど、生きている家族が何とか生き延びて行けるようにするために、どうにかしないと。」と豊子の耳元に近づいて話し、そのまま玄関近くの物置に行き、スコップを持って戻ってきた。そのまま何も言わず父の横たわる部屋のカーペットをめくると、昔は青かった畳が黄色くなって現れた。義仁はその畳をめくろうと畳と畳の間のすきまに手を入れようと下が入らない。わずかな段差に爪を立て、片一方の畳を力を込めて持ち上げると、ようやく4隅のうちの一つが少しだけ持ち上がった。そこからは簡単に畳を持ち上げる事ができ、2枚の畳をめくると、部屋の隅の立てかけた。畳の下は古い家は意外と簡単にできている。幅30㎝ほどの薄い板が間隔1mほどに渡された垂木に乗せられている程度だった。薄い板を4枚ほど抜き取って部屋の隅に寄せて立てかけると部屋の中央に大きな隙間ができ、床下は土が露出している。何年間も日の目を見てない槌なのでカビの匂いが激しかった。玄関から作業用の靴を持って来て、義仁が中に降りると、豊子はすぐ横に座り込み、中の様子を食い入るように覗き込んだ。

 そこからはどれくらい作業が続いただろうか。2人とも無言で作業が進み、深さは50㎝、たてが160㎝、横が30㎝程度の穴が出来た。豊子は部屋の奥の押し込みから布団を買った時に包まれていたビニール袋を出してきた。

「この袋に入れてから埋めてあげようよ。直接土をかけるのはお父さんに気の毒だよ。」と言うと義仁が頷いて床下から部屋にあがった。2人は誠のベットの布団をはがすと力を合わせて誠の身体をビニール袋に少しずつ滑らせた。義仁が誠の身体を少し持ち上げ、豊子がビニール袋の端を滑らせたのだ。父の顔を直接見ると気持ちがこわばるので顔にはタオルを乗せた。

 準備ができると豊子は足を持ち義仁は上半身を持ってベットから畳の上におろした。初めはゆっくりとおろしていたが、途中からは重くて持ちきれないので、落としてしまい部屋に大きな音が響いた。ここからは丁寧にやろうとしても間隔1㎡の樽気があるのでうまくいかない。床下に降りた義仁が下で父の上半身を持って頭から入れていったが、下半身を持っていた豊子が手を放してしまったので、誠の身体は床下の土の上にどさっと落ちた。もう、こうなったらどうしようもなかった。誠の身体を穴の中に落とし入れると誠の顔は下向きになって倒れ込んでくれた。

「このままでいいかな。」と義仁が言うと顔に玉のような汗をかいた豊子が

「もう、そのままでいいよ。早く埋めておくれ。」と言って目線を他に移した。看ていられなかったのだ。義仁は穴の横に積み上げてあった土を必死に父の身体の上にかけて行った。全部の土を上に乗せようとするとうず高く盛り上がってしまうので、最後は周りに散らして何となくわからないように工作した。

 床下から戻った義仁は床板を戻し、畳を嵌め戻すとカーペットも元にもどし、何もなかったかのように部屋にはベッドだけが空になって残った。

 朝方になり、2人は朝ご飯を普段通りに食べた。何もなかったように。



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