4、義仁の引きこもりと遺族年金の相続
妙子が死んで遺体を家に運び、雪の中を家で仮通夜を行った。家には親戚や近所の人たちが弔問に訪れ賑やかになった。葬儀社の担当者も何回も打ち合わせに来てくれた。仏壇の脇の布団で眠る妙子は穏やかな表情をしていて、肺炎で苦しんでいた面影はなかった。
葬儀社が死亡診断書を添えて役所に死亡届を提出してくれたので役所からは火葬許可証が発行された。この書類がないと火葬場で遺体を火葬することができない。さらに火葬場では火葬終了後に火葬証明書を発行してくれる。生命保険の申請などにはこの書類が効力を発揮するらしい。
仮通夜の夜は近くのお寺からお坊さんが来てくれて、お経を上げてくれた。親戚や近所の人がいっしょに読経してくれたので家族は寂しさを紛らわす事ができた。
翌日は昼過ぎに納棺があり納棺師によって体を清め、簡単な化粧が施された。
「これでお父さんが待っているお浄土にようやく行けますね。」と豊子が声をかけたが、義仁はおばあちゃんがおじいちゃんの所へ行きたかったのだろうか、たった3日しか夫婦生活を送っていなかった夫のことをどう思っていたんだろうかと疑問が湧いていた。
それからは慌ただしく通夜、葬儀の2日間が過ぎ、多くの参列者等の挨拶と続き悲しんでいる暇もなかった。しかし出棺の際に最後のお別れとして棺に花を入れるときには誠も豊子も義仁も涙を隠せなかった。特に豊子は嗚咽しながら涙声を上げた。
お寺への納骨も終わり、数日後落ち着きを取り戻した北川家では平静を取り戻し普段の生活に戻ろうとしていた。しかし東京から帰ってきていた義仁が仕事に戻ろうとしないので母の豊子が少し心配になってきた。今日も朝ご飯を食べながら
「義仁、もうお父さんもお母さんも落ち着いてきたから東京に帰ってもいいんだよ。仕事場の上司はいつまで休んでいいと言っていたんだい。」と聞くと義仁は
「まだ、大丈夫だよ。心配しないでいいよ。」と言って取り合わない。誠も心配して
「お前の会社、大きな銀行なんだろ。休んでばかりいたら出世に響くんじゃないか。」とわかったようなことを言った。すると義仁は血相を変えて
「父さんたちに何が解るんだい。そんな単純な話じゃないんだよ。」と言って朝食の箸を置いて部屋に戻ってしまった。呆気にとられた両親は息子が東京で何かあったことをその時初めて感じた。
「大きな銀行に就職できたから安心していたんだけど、大きなところはそれなりに大変なことが多いんですかね。」と豊子が口火を切ると誠も
「優秀な人たちがたくさん就職して、その中で常に競争にさらされるから、ストレスも多いんだろうね。おまえ、部屋で話を聞いてやれよ。」と言うと豊子は
「話してくれるかしら。元気にやっているもんだと思っていたのに。」と言って食事を食べきるとさっさと片づけをして義仁の部屋へ向かった。
部屋の襖は閉ざされていたが、部屋の外から
「義仁、開けてもいいかい?母さんだよ。」と言って部屋の襖を静かに開けた。中では義仁が高校生の頃のように勉強机に向かって椅子に座って本を読んでいる。気持ちを落ち着けようとしているのか豊子の声掛けには返答しなかった。
「義仁、もしかして会社で何かあったのかい。辛いことがあったのなら、もうしばらく休んでいたっていいんだよ。」と襖を開けた敷居の上で話しかけた。すると義仁が声を振り絞るようにかすれた声で
「もう、疲れたんだ。あんなノルマ、達成できるわけがないんだ。支店長は怒鳴りつけるばかりで、田舎から出て行った地方出身者は東京に親戚もいないし、頼めるコネもないのさ。どうしろって言うのさ。」と涙ながらに振り絞った声で話した。1997年はバブル崩壊から日本経済が低迷期に入り、先が見通せなかった時期だ。特に銀行は不良債権処理にあえいでいた。義仁の銀行でも1989年まで続いたバブル景気の反動で行員のリストラが行われ、各支店では売り上げ目標に達しない行員を不良行員としてリストラ対象にする処置が行われていた。
「うまくいかなくて銀行を休んでいるのかい?」と豊子が聞くと義仁は
「もう、一月くらい休んでいるよ。病院で自律神経失調症という診断書を書いてもらって毎日、下宿で朝から晩まで寝っ転がってたんだ。もう、会社の行くエネルギーはないよ。もうしばらく福井で休んだら福井で就職を探すよ。」と蚊の鳴くような声で言葉を吐きだした。重症であることを悟った豊子は焦ってもダメだという事をすぐに悟り
「それじゃ、元気になるまでこの部屋で休みなさい。東京のアパートは引き払ったっていいじゃないか。」と声をかけると怒られるんじゃないかと心配していた義仁は若干明るい声になって
「ありがとう。しばらく休ませてね。」と言って横にあるベッドの中に滑り込み、頭から布団をかぶってしまった。
誠が待っている居間に戻った豊子は義仁の様子を説明した。誠は
「それじゃ、義仁は一月間、引きこもっていたという事か。世間では小中学校の時に不登校になり、そのまま引きこもってしまう人もたくさんいるらしいけど、義仁は社会人になってから引きこもってしまったというわけだな。でも早く復帰できるように勇気づけてやりたいな。」と息子のことを心配していた。
義仁は東京の職場に連絡を取る様子もなく、それからというもの家から一歩も出ることなくしばらく過ごすことになった。
お葬式から約2週間たって、豊子は市役所の住民福祉課へ出かけた。母が死んで母が受け取っていた軍人恩給の遺族年金について手続きをするためだった。豊子は妙子がもらっていた遺族年金の最後の月の年金を日割り計算していただけるのだと思い出向いてきた。
恩給制度と言うのは明治8年(1875年)4月に陸軍で、8月には海軍で、佐賀の乱や台湾出兵で戦った兵士たちのために運用が始まった。その制度が明治17年(1884年)には文官たちにも範囲を広めて運用された。昭和21年(1946年)にはGHQの指令で傷病軍人を除き恩給制度は一時廃止されたが、昭和28年(1953年)には恩給が復活した。昭和34年(1959年)には国家公務員や教員、警察官などの恩給は共済制度に移行していった。
豊子が福井市役所の住民福祉課で送られてきたハガキを係に出すと係の女性が
「遺族年金を受給されていたお母さまがお亡くなりになって遺族年金を一時停止させていただきますが、北川様の場合、誠さんはご存命ですか。」と夫のことを確かめてきた。
「はい。夫の誠は車いす生活ですが元気に暮らしております。」と言うと
「遺族年金の規定では対象者は戦死された方の両親、または配偶者、または障害のある子という規定があります。北川家の場合は妙子様が配偶者という事で戦死者の遺族と言う公務扶助の年金が支給されていました。しかし妙子様がお亡くなりになったので、今度は障害者である子の誠様が受給する権利を相続されたわけです。」という説明を受けた。そして受給資格を新たに持つことになる誠の身分証明ができるものを持参してもう一度役所に来るように言われた。
北川の自宅に戻った豊子は誠に受給資格を相続できるようになったことを伝えた。誠は母の妙子が年間200万円以上遺族年金を受給していたことを母から聞いていた。しかしまさか自分がその権利を相続できるとは思っていなかったのだ。
「いくらくらいもらえるのかな。」と誠が豊子に問いかけた。すると豊子は
「お母さんがもらっていた金額と同じくらいもらえるんじゃない。」と少し笑みを交えて答えた。
その話を横で義仁も聞いていた。義仁は興味がないかのようにテレビを見ながら話しに関わらなかったが、テレビは上の空で両親の話に耳をそばだてていたのだ。東京での銀行マン生活に疲れて打ちのめされて引きこもっていた義仁にはこれから先も引きこもっていることが許されることになりそうな美味しい話だった。
翌日、豊子と誠が誠の保険証と印鑑と通帳を持って市役所に行き、遺族年金の手続きを終えると帰りにスーパーへ寄って3人分のステーキ肉を買い込んだ。