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軍人恩給  作者: 杉下栄吉
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母の死

 平成9年(1997)その年は衝撃的な事件で幕を開けた。1月2日、荒れる日本海の暴風雨の中、島根県隠岐島付近で船体に亀裂が入り沈没し始めた。乗組員は小舟で脱出したが、船長は退船を拒んで船に残ったらしい。その後、積み荷の重油を垂れ流しながら船は日本海を東へ漂流し、1月4日には福井県の三国サンセットビーチの先の岩場の海岸に座礁して付近の海岸を重油だらけに汚染した。

 福井市荒川町の北川家でも正月の家族団らんの中、テレビを見て九頭竜川河口付近のサンセットビーチからほど近い岩場のナホトカ号の映像を見ていた。巨大なクレーンが運び込まれ、ナホトカ号の回収作業と周辺に漂着した原油をボランティアたちが柄杓を使って手作業ですくい取っていた。

「ひどい事故だね。こんな真冬に海岸で作業するのは寒いだろうね。」と70歳になった妙子がベッドで横向きに寝ながらニュースを見て感想を述べている。妙子は昨年の暮れから体調を崩して寝込んでいた。年末に大学病院に行って診察してもらったところ、風邪が悪化して肺炎を起こしているという事だった。病院には嫁の豊子が同行したが、家に帰って豊子が誠に母の病状を説明すると

「風邪を悪化させただけだろ。そんなに大したことないさ。」と大げさに考えていなかった。誠にとって妙子はただ一人の親で、生まれた時から母一人子一人の関係で、常に面倒を見てくれた存在だった。物心ついて車いすに乗っていた誠をいつも乗り降りをしてくれたのも母の妙子だったし、どこに行くにも車いすを押してくれたのも妙子で、元気なのが当たり前だと思っていた。

「かあちゃんも元気になったらボランティアに行こうか。」と誠が言うと妻の豊子は

「おかあさん、無理なさらないでくださいよ。」と話の腰を折った。

妙子は若いころから苦労の連続だった。17歳で結婚して同じ荒川町の北川家に嫁いできたが、夫は3日で戦地に行って死んでしまった。子供を授かったが肢体不自由児で手がかかった。義理の母に息子を任せて働きに出たこともあったが、長続きしなかった。車いすの息子が母の帰りを静かに待つことができなかったのだ。

 

 母は元気でいるのが当たり前だと思い込んでいた誠は肺炎で細々とした声しか出ない母のことをうまき売り買いは出来ていなかった。しかし70歳という年齢と苦労してきた肉体は誠が考えるよりもずっとガタが来ていた。

 福井の2月は寒くて雪が多い。北川家がある荒川町は福井平野に広がる九頭竜川扇状地の先端部にあり、夏は反保の緑が広がる美しい場所だが、冬は雪に閉ざされると幹線道路まで距離がある。田んぼの中の道は真っ白に雪で閉ざされると道路と田んぼの見分けがつかなくなり、車が落ちる事故も多い。雪が数日続くと玄関前の雪を除雪しないと孤立してしまう危険性もある。

 北川家ではスコップで雪を除けて玄関を開ける事ができるのは嫁の豊子だけだった。ただこの日は高齢の母、妙子の肺炎の看病もあり、豊子は大忙しだった。夫の誠は車いすで心細そうに外を眺めて

「豊子、雪が降りやまないな。玄関の雪を除けないと出られなくなるぞ。」と言っているが自分では何もできない。しかし豊子はゼイゼイと呼吸を荒げてきた妙子の熱を下げるために氷枕を用意したり、額に乗せるぬれタオルを交換したりするのに大忙しだった。

 年末から続いた肺炎は2月になっても収まらず、雪の中病院に行くこともできず、妙子は少しずつ体力を落としていった。

「あなた、救急車呼んだ方がいいんじゃない。」と豊子が誠に聞くと

「この雪では車は家の前まで入ってこれないぞ。」と言って心配そうに母の顔を覗き込んだ。母の妙子はさらに呼吸を辛そうになってきていた。せめて息子の義仁が家にいてくれたら心強かったのだが、25歳になった義仁は大学を卒業して名古屋の会社に勤めていた。義母の顔を見つめながら看病していたと豊子が我慢できなくなり

「とにかく救急車に電話してみるわ。だめで元々よ。」と言って電話をかけた。母は激しく息をしていてぜえぜえとした息遣いをしている。

「もしもし、火事ですか、救急車ですか?」と電話口の向こうで消防士が問いかけてきた。落ち着かなければいけないと思いつつも気が焦った豊子は

「救急車です。早く来てください。母が肺炎をこじらせて様子がおかしいんです。」と早口でまくし立てた。住所も言わなければいけないと思っていると

「この電話は北川の北川さんですね。電話口の方はどなたですか。」と聞いてきた。住所言っていないのにわかるのかと不審に思ったが

「北川家の嫁の豊子です。雪の中ですがよろしくお願いします。」と言うと

「救急車はもう出ましたが、お母さんの様子をお聞かせください。熱はありますか。」と言うので豊子は少し落ち着いてきて

「熱もあります。38度5分くらいが3日前から続いています。ただ息が苦しそうで、ぜえぜえ言ってます。」と答えた。

「雪が続いていますが北川さんの家は大通りから車は入れますか。」と聞いてきた。

まずいと感じたが正直に言わなければと思い

「何日間も看病していたので雪に閉ざされています。大通りからも遠く、村の中の道が除雪されているかどうかわかりません。」と答えると

「最悪の場合には救急隊員が担架を持って歩いてお宅まで向かいます。どなたか玄関前に出て誘導していただけませんか。」と言ってきた。豊子は

「わかりました。では今から玄関前に出て待っていますのでよろしくお願いします。」と言って電話を切り、母を誠に任せて玄関から出て外に出た。

『閉ざされている。』

玄関前には雪が積もり、道路まで3mほどは50cm程度の積雪になっていた。スコップを玄関から取り出して道までの歩道を急いで除雪し始めた。もう少し早くにやっておけばよかったと思ったが、今更どうしようもない。全力で雪を除けて救急隊員が入ってこられるように願いながらがんばった。

 程なく遠くに救急車のサイレンが聞こえた。大通りを右折して村の中の道に入って来たのがわかった。しかし30mほど離れた場所でサイレンが止まって、救急車が停車すると救急隊員が降りてきて担架を準備している。豊子は家の場所がわかるようにと大声をあげた。

「おーい。こっちです。北川です。こっちへ来てください。」と声を上げると救急隊員たちは豊子を見つけて雪の中を積雪をはねのけながら走ってくれている。屈強な肉体の彼らは重い担架を抱えながら積雪の中を雪を蹴散らしながら走ることなど容易なことのようだ。日ごろの訓練の中にこのような体験もしているのだろうと豊子は考えた。

 玄関前で待ち受ける豊子の元に彼らが到達すると

「北川さんですね。患者さんはどちらに?」と聞くので

「中です。よろしくお願いします。」と言うと彼らは履いてきた軍隊の軍靴のようなブーツを脱いで中の部屋に入って来てくれた。布団に寝て苦しそうな息をしている母を見つけるとすぐに持って来たカバンの中から医療用の道具を取り出し、体温や血圧、脈拍などを計り、無線で本部と連絡を取り合った。

「電話でお聞きしたように肺炎が進行しているようです。高齢者の肺炎は命取りになることが多いので、すぐに病院へ運びましょう。どちらかご希望の所はありますか。」と聞いてきたので豊子は誠の方を見て

「大学病院でいいよね。」と誠の同意を伺った。誠はすぐに頷いたので比較的近い福井大学病院にお願いした。救急隊員たちが電話で大学病院の救急病棟に連絡を取ってくれて搬送先が決まった。ただ、雪は降り続き外気温は低いので、母の妙子を担架に乗せる前に毛布2枚でぐるぐる巻きにして寒くないように気を付けた。そこからは救急隊員2人が担架を前後で持ち、気をつけながら救急車近くまで運ぶと外に出されていたストレッチャーに乗せかえ、車内の滑り込んだ。

 そこからはあっという間だった。豊子は救急車の同乗して病院に行ったが、真のことも心配だった。病院に詰めることになると、彼はごはんを食べられるだろうか。トイレは何とかなったとしてもお風呂には入れない。でもとりあえずこの状況に対応しなくてはいけない。考えが頭の中で錯綜しているうちに大学病院についてしまった。母は救急患者専用に入り口から処置室に入ってしまい、豊子は待合室のソファーに座って待つしかなかった。あわただしく救急隊員たちも出たり入ったりしたが、待合室の豊子の所に来て

「それでは我々は引き揚げます。どうぞお大事に。」と言って出て行ってしまった。豊子は雪の中動けずに途方に暮れていたところを救ってくれた隊員たちに感謝の気持ちで深々と頭を下げ、ありがとうと挨拶をして見送った。

彼らが出て行ってしまうと今度は急に不安に襲われてきた。

『このまま母がここで死んでしまったらどうしよう。夫が母の死に目に遭えなかったら悲しむだろう。』そんな思いが頭をよぎり、思いついたのは名古屋の義仁に帰って来てもらう事だった。すぐに携帯電話で義仁に連絡を取った。

呼び出し音3回で義仁は電話に出た。

「もしもし、義仁かい。母さんだよ。実はね、おばあちゃんが肺炎で病院に来ているんだよ。救急車で運んでもらったんだけど、家にはお父さんを置いてきたし、母さん一人で途方に暮れているんだよ。会社の仕事もあるだろうけど、休みを取ってとりあえず帰って来てもらえないかい。」と頼むと会社で仕事をしているはずの義仁は

「おばあちゃんが肺炎になったの? 正月に帰った時にも具合はあまり良くなかったよね。わかったよ。すぐに帰るから安心して。」と言ってくれた。豊子は胸をなでおろしたが電話口がやけに静かだったことが少し心に引っかかった。

 その日のうちに妙子は集中治療室に移された。豊子が病院に詰めていても集中治療室に入れるわけではない。ただ、医師からは「いつ呼吸が止まってもおかしくない。」と言われていたので家に帰るわけにもいかず、携帯で誠に病状を知らせるくらいしかできなかった。ただ、義仁が帰って来てくれるという事を伝えると

「義仁が帰ってきたら義仁と一緒に病院へ行く。」と誠も母のそばに付き添いたいと言っていた。当然である。実の母なのだから。

 夜になり、集中治療室の家族待合室で豊子が待っていると扉を開ける人がいた。豊子が顔を向けると義仁が誠の車いすを押してきてくれたのだ。

「おとうさん、おかあさんの具合、あまり良くないらしいわ。今晩持たないかもしれないって。」と誠に言うと誠は

「年寄りに肺炎は命取りだからな。もっと早く病院に来ていたら助かったかもしれないけどな。」と少し悔やんでいた。義仁は

「諦めるのはまだ早いよ。戦争中からあんなに苦労して家を守って来てくれたおばあちゃんだよ。きっと回復するよ。その頃のことを知らない義仁が一番妙子の強さを理解していたのかもしれない。

 結婚してすぐに夫は出征し、すぐに妊娠したが夫は戦死。18歳で戦争未亡人になり肢体不自由の幼子を抱えて義理の父と母の面倒を見てきた。戦後の食糧難でも必死に田畑で働き、息子には苦労を掛けさせまいと必死に守ってきた。しかし70歳を超え、体に無理を掛けてきたことが病気となって表れたのだろう。

その夜、妙子は帰らぬ人となった。死因は間質性肺炎と説明された。車いすの誠は息子の義仁に

「義仁、ありがとう。お前が東京から来てくれたおかげで父さんもおばあちゃんの死に目に会えたよ。」と涙を流しながら義仁の手を握って話しかけた。義仁も幼いころから面倒を見てもらったおばあちゃんの最後を見届ける事ができて安堵した。ただ、同時にこれからの生活に不安を感じていた。これまでの生活は母が受給していた軍人恩給の遺族年金が主だったからである


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