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軍人恩給  作者: 杉下栄吉
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靖国参拝

 福井から北陸線で米原まで出て、東海道新幹線で東京駅まで来た北川家の4人は東京駅から地下鉄に乗り靖国神社への最寄り駅として九段下駅を選んだ。

 1978年、この春小学校に入学する義仁を連れて、車いすの北川誠と妻の北川豊子、そして誠の母の妙子が父の北川勝三の33回忌を記念して靖国神社を目指していた。父北川勝三は1945年の6月にフィリピンで戦死したので33年たった。正確には33回忌は32年目の命日にするべきなのだが、北川家は周りの同じような家族が33回忌をするのを見て遅ればせながらに靖国参拝を決めたので、1年遅れになってしまった。

 九段下駅で地下鉄の電車を降りると車いすの誠が

「豊子、エレベータを探すんだ。どこかにあるはずだ。」と言うと豊子は

「義仁、お前も探しておくれ。」と6歳の息子に頼むと義仁はあたりを見渡しホームの中央付近にエレベータを見つけ、父の車いすを押し始めた。豊子は

「危ないからお母さんに任せて。」と言うが元気な子供は言う事を聞かない。母の妙子も義仁のあとを追いかけた。エレベータに4人で乗り込むと地上まで上がり、ようやく東京の青空を見上げる事ができた。地上に出た4人は今度は豊子が誠の車いすを押して、その後ろを妙子と義仁が追いかけるように靖国通りを上っていた。左手に大きな内堀の石垣を見ながら、東京を満喫していた。この当時はまだ東京見物と言えば皇居2重橋と浅草、そして靖国神社が定番だったのだ。

 3分ほど歩くと右手に靖国神社参道が見えてくる。靖国通りの車の喧騒をさけ、横断歩道を渡って敷地内の参道を歩き始めると、程なく大鳥居を潜る。

「とうちゃん、何てでっかい鳥居なんだい。びっくりしたよ。」と義仁が大鳥居の巨大さに感嘆の声を上げている。父親の誠もこのサイズの鳥居を見るのは初めての経験だった。さらに多くの参拝客と共に参道を進むと、大村益次郎の銅像に出くわした。明治政府の海軍力増強に力を尽くした役人だが、元は江戸幕府の役人だったはずだ。父と共に説明書きを読みながら義仁は目を丸くして東京のすごさを感じていた。

 さらに進むと時代が逆戻りしたような光景が現れた。古めかしい食堂があったかと思うと、その周りでは戦時中に兵隊さんたちが使っていたような軍靴や帽子、軍服、ナイフなどいろいろなものを筵の上に並べて売っている人たちがいた。その横にはカセットレコーダーが置かれ大きな音で軍歌が流れている。3人はその光景に呆気にとられ言葉を失っていた。しかし息子の義仁は

「父ちゃん、あそこで座っている人は何をしているの。」と正直な疑問を発している。その疑問に父の誠はうまく答えられずまごついていたが

「傷痍軍人の人たちだね。戦争で傷を負って仕事ができないから、ここで座って参拝客の皆さんから施しを受けているのさ。」と小さな声でようやく答えていた。義仁はこの場所の光景を別の場所でも見たような気がしていた。

「三国祭りでも同じような人がいたね。」と同じように小さな声で父にだけ聞こえるようにつぶやいた。誠は一度だけ義仁を連れて三国祭りに行ったことを思い出した。北陸最大級のお祭りで、多くの参拝者で賑わう祭りで、いくつもの華やかな山車が出ることで有名だった。その三国神社の入口に座り込んで軍歌を流し、道行く参拝者から施しの小銭をもらっていた傷痍軍人のことを義仁が覚えていたことに少し驚いた。

 この区域を抜けると靖国神社本殿のある区域に入るので、厳かな雰囲気が高まり、周りに座り込んでいる人は見当たらなくなる。第2鳥居を抜けて神門をくぐると右手に有名な靖国の桜が茂っていた。父の北川誠が息子の義仁に

「義仁、あれが靖国の桜だよ。おじいちゃんが戦争に行くときに『靖国の桜のように潔く散って来ます。』って言ったとおばあちゃんに聞いたことがあるんだ。」と当時の兵隊さんたちの強い気持ちを説明した。しかしまだ6歳の義仁には意味がよくわからず、怪訝な顔をしている。妻の豊子は夫の車いすを押しながら幼い義仁に目をやると、義母の妙子が義仁の手を引いていたので安心した。

そこから右手の参集殿正面の入口に進んでいった。中に入ると参拝申し込みの受付があり

「戦死した父の33回忌で参拝に参りました。本殿での参拝をお願いします。」と豊子が申し込むと係の神官が

「戦死されたお父さんの御祈祷ですね。ではこちらの紙に必要事項をお書きください。御玉串料として3000円をお願いします。」と説明してくれた。豊子は渡された用紙に必要事項を書き込み、財布から千円札を3枚取り出して神官に渡した。

「では次の御参拝は3時30分からですからこちらでしばらくお待ちください。」と言われ控室に入った。同じような参拝者が既に10人ほど座っている。戦死者の家族もいるが、崇敬奉賛会と言う靖国神社の活動に賛同する人たちの会の会員もいるようだ。

 しばらく待っていると神官が現れ、

「それでは拝殿の方にご案内させていただきます。貴重品だけを持ってその他のお荷物はこちらに置いて結構ですから、私の後にお進みください。」と言って案内してくれた。北川家の4人も他の家族の後からついて行った。誠の車いすは待合室で待っている間に車輪を布できれいに拭き清めた。

 神官に続いて拝殿に入ると本殿を見渡せる場所に神社独特の2つ折りの椅子が並べられ、順番に座っていったが、北川家の3人は父の誠が車いすなので、一番後ろの端に座り、父もその隣に位置した。厳かな雰囲気で神官の登場を待っていると、正装した神主が現れた。神殿に向かい大麻おおぬさという棒に紙垂しでという特殊な切り方をした紙をつけた物を左右に振って祝詞のりとを上げている。途中から参拝に訪れた人の名前を読み上げ、神に唱えた。名前を呼ばれた家族は正面に立って玉串を奉納し、2礼2拍手1礼で神に挨拶を済ませる。

 北川家も「北川誠様」と呼ばれると、4人全員が前に出て一列に並ぶと、車いすの誠が代表して玉串をささげた。そして4人揃えて拝殿に向かって2回礼をして2回拍手をし、最後に一礼して席に戻っていった。義仁は作法がよくわからなかったので横に立っていた妙子の動作を真似しながら、何とか無事にやり遂げた。

最後には神主が全員に向かって頭を下げるように言うと大麻おおぬさを振り清めると祭事は終了となった。父の誠は靖国神社と言えど普通の神社でお祓いを受ける時と大差はないなと感じていた。

 拝殿を出て控室に戻るとき、靖国神社から配布される持ち帰り品の袋を受け取り外へ出た。参集殿の玄関から出ると左手には遊就館がある。靖国神社に祀られている英霊についての宝物館になっている。父の誠が

「かあさん、義仁に遊就館を見せてやりたいし、俺もまだ見たことがないから見てみたい。せっかく来たんだから見て行こう。」と言うと妻の豊子も

「そうね。有名な宝物館だから私も見てみたいわ。おかあさん、入りましょう。」と言うと母の妙子も頷いて賛成したので、車いすを遊就館へ向けた。

有名な宝物館なのでほとんどの参拝者が見学に入っていく。人の流れに流されながら入っていくと、いきなりたくさんの顔写真に圧倒された。鹿屋飛行場や知覧飛行場から飛び立った特攻隊員たちの顔写真が並んでいる。どの兵隊さんも10代から20歳そこそこの若者ばかりだ。

「おじいちゃんも20歳で戦死したからこの人たちと同じくらいだね。」と妙子がたった3日の夫婦生活だった夫の勝三を思い出して義仁に語った。誠は父である勝三には会ったことがなかったので、不思議な感覚だった。4人は特攻隊員たちの写真を一枚一枚丁寧に見て回った。

1945年、3月末から瀬戸内海を中心に日本の主要な港湾はアメリカが投下した機雷によって封鎖され、海上の制海権は奪われ、日本国内への物資の持ち込みはほぼ不可能になった。所謂アメリカ軍の飢餓作戦である。沖縄戦は6月だが海上航行をめぐり日本の艦船が通れるように、九州から片道分の燃料だけで南方に向けて飛び立っていった少年たちが特攻隊である。生々しい写真や飛び立つ寸前に書いた遺書などが展示されていて、多くの見学者が真剣な表情で覗き込んでいる。

「お父さん、おじいちゃんはどこで死んだの?」義仁が誠に聞いた。誠は

「お父さんもよく知らないんだ。おばあちゃんから『南方で死んだ。』とだけ聞いたんだ。航空兵ではなかったから特攻隊ではないと思うよ。」と答えた。すると妙子が

「フィリピンだよ。ただフィリピンのどの島で死んだかは分からないけど。それに遺骨も帰ってこなかったから、死んだと言われてもピンとこなかったけどね。」と話してくれた。

 4人がさらに奥に進むと旧日本軍のゼロ戦や海軍の一人乗り潜航艇など多くの戦争関連品が展示されていた。

 義仁から見て祖父にあたる北川勝三は1944年に19歳で出征し、1945年に戦死した。出征直前に祖母の北川妙子(旧姓木村)と祝言を上げ夫婦になったが、3日後に軍隊に入隊した。父の戦死の報告が来て、しばらくして誠は1945年の5月に生まれた。父のことは全く知らない。不幸なことに誠は生まれながらに肢体不自由で歩けなかった。物心ついた時には車いすに乗っていたのだ。祖母の妙子は17歳で勝三と結婚したが、たった3日で夫は出征し、翌年18歳で戦争未亡人になったのだ。しかも北川家に残された勝三の父と母の面倒を見なくてはいけないし、生まれた息子は先天性の肢体不自由児だったのだ。戦後、彼女が生きてこられてのは国から支給された軍人恩給の遺族年金があったおかげだったのだ。

 靖国参拝を終えて九段下の駅に向かうと皇居のお堀は千鳥ヶ淵と呼ばれる景勝地になっている。戦争が終わって33年、どれほどの戦争遺族たちがこの場所からこの千鳥ヶ淵を眺めたのだろう。高度経済成長は終わり、日本は先進国の伊仲間入りをしていたが、この家族の戦後はまだまだ終わらないのである。


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