隣の部屋の男の子
外国語は、私が得意としない分野の言語の為、
こーした方がいいよー、という意見などがありましたら、
教えて頂けると大変感謝致しますm(_ _)m
かなり年季の入ったボロアパートに住んでいるのだが、結構気に入っている。何せ築ウン十年なだけあって、交通の便がかなり良い都会の中心街にあるにも関わらず家賃はなんと破格の2万円!それにこのベランダから見える景色。目の前に流れている川の向かいにある遊歩道は、今はまだ寂しい木々ばかりが目立つが、あと二週間ほどでもすると、満開の桜でピンク景色に早変わりする。そして、奥にそびえたつ高層ビルたちとのコントラストといったらもう、言葉に表せないほどの美しさ。都会の風景と美しい自然が重なりあった幻想的な風景はきっとこのベランダから以外で見ることなんてできないだろう。
バタバタ、ドンドン。
隣の部屋からかすかに音が漏れてくる。まぁ壁が薄いからしょうがない。
それにしてもこの音はどこから聞こえるのだろう?と俺は首をかしげる。
隣人たちとは生活リズムが全く違うから、こんな時間にドタバタの生活音が聞こえてきたことは記憶にない。いつもは聞こえないはずのこの音に、俺の聞き間違いかな?と再度首を横に捻り、アパートの住民を思い出す。
このアパートには俺を含めてたった四人しか住んでいない。
まず、一階に住む大家のおばあちゃん。見た目は御年80歳以上。耳が遠いのか、たまに一階からテレビの声が大音量で聞こえてくるが、それは愛嬌。寝るのが早いから、夜遅くまでテレビの音がうるさくて寝れない、なんてことは一切ない。それどころか、おばあちゃんの朝は早いから、そのテレビの大音量は俺の目覚まし代わりにもなっている。正直言って飲みすぎた次の日はアラームを設定し忘れているから、とても助かっている。
次は、二階。俺の部屋から向かって左隣に住んでいるのは美しい金色の髪を持つ外国人のお姉さん。年齢は30代前半くらいかな?きっと夜のお仕事をしているのだろう。俺が仕事から帰ってくるときに、毎日綺麗なドレスに身を包んだ彼女とすれ違う。まだ日本に来て日が浅いのだろうか?あまり日本語が得意ではないようで、会うたびに「こんばんは」と挨拶しても、「ヨコソ~」しか言わず、その言葉以外の日本語を聞いたことがない。ま、俺と違ってお姉さんは昼夜逆の生活だから、俺が家にいるときにはお姉さんは外出中。そんなわけで、休日以外の日に彼女の部屋から生活音が聞こえてきたことなんて覚えがないのだ。
最後は俺の右隣の部屋に一週間前に引っ越してきた、強面の顔をしたおじさん。俺の親父と同年代の50代くらいの男性だと思う。俺は大家のおばあちゃんのおかげで早起きが習慣づいてしまったので、毎朝6時前後にジョギングに出かけるのだが、その時に長い竿の入った筒のようなものと大きなカバンを持って外出するこのおじさんとよく出くわす。きっと釣りにでも行くのだろう。普段何をしている人か全く分からないけれど、会えば最低限の挨拶はするものだから、不気味な人、っていうわけでもない。それに彼は家にいても別にテレビを見るわけでもないようで、たまにギシギシと移動してトイレに向かうくらいの生活音しか聞こえないものだから、俺的には四六時中机に向かっている売れない作家さんではないかな、と推測している。
だから、今、こんな朝早くから聞こえてきたドタバタした足音に少し首をひねっているのだ。どの隣人たちも今までこんな音を出したことがないから。もしかしたら客人とか?ま、俺には関係ないか。
少し体をぶるっと震わせる。季節の変わり目だからか?なんだかいつもよりも少し肌寒さを感じるし、体が重たいような気もする…。もしかしたら、昨日の酒がまだ体に残っているのかも…。
だけど自分のルーティーンを崩したくはなかった。
朝5時に大家のおばあちゃんのテレビの爆音で目覚めた俺は、いつものように6時からジョギングにでかける。ガチャリと音がして、これまたいつものように右隣のおじさんが釣りに行くところと出くわしたから、会釈して軽く挨拶。ジョギングから戻ってきた俺が会社に出勤するのは8時頃。おばあちゃんがアパートの周辺をいつも掃除してくれているところに出くわした。元気に「おはようございます」と挨拶して出勤し、いつも通り17時半まで仕事をこなす。朝と比べて随分と重たくなった頭と体を引きずりながら帰宅したのは18時頃。普段通り階段で出勤前のお姉さんとすれ違う。
「こんばんは」
「ヨコソ~」
あら?異変を感じた。お姉さんから漂ってくるいつもの甘い香りがしないぞ??
これって、もしかして………。
*****
「あ~。これはコロナですね。お薬処方しますから家でゆっくり休んでください」
昨夜の嗅覚障害と、体の重さ、そして悪寒。
まさか、と思った俺は次の日休みをもらって、朝早くに病院へ直行した。案の定というか、体調不良の原因は新型コロナウィルスだった。
会社に報告すると、『一週間しっかりと体を休めてください』と言われたため、快く甘えて一週間有給休暇を消化することに。久しぶりの長期休暇。仕事から解放されて嬉しい反面、体は想像以上に怠くて重いからこんなことで消化された有給が哀れにも思う。
『一週間前に誘拐されたカナダの資産家の娘、レティシアちゃんの行方はいまだ分かっておりません。警察は誘拐事件として………』
テレビの音がうるさい…。だけど手がリモコンの元まで思うように動かない。しょうがないので、もう何日も前から同じことを繰り返しているニュースを聞きながら、俺はそのまま気絶するように意識を手放した。
*****
次の日の朝、テレビから流れてくるいつもの音楽に目を覚ます。それは出勤時の合図でもある8時から始まる、あるワイドショーの始まりの音楽。
- やばい、寝過ごした!
慌てて布団から飛び上がる。だが昨日と打って変わって大分軽くなった頭のおかげで、すぐに理解した。
- あ、そっか。思い出した。俺、コロナで一週間有休をとっているんだった…
気を切り替えるために少し伸びをする。まだ体に多少の倦怠感を感じるものの、昨日と違って頭はずいぶんと軽く、清々しい気分。どうやら熱は引いたよう。とりあえずコップに水を注いでそれを一気飲みすることにした。
- う~んおなかは全く減ってないなぁ…。
ガラガラガラ
ベランダへでて、外の空気を吸うことにした。
車のクラクションやザワザワとしたさざめきが聞こえてくる。どうやら都会の日常が始まりだしたようだ。皆が仕事をしているときに家で一人じっとしてるのもなんだかなぁ、と少し罪悪感も芽生えてくる。
医者からはお控えください、と言われてはいたものの、咳はしてないし大丈夫だろ、と俺は煙草に火をつけてぼーっと川岸にある遊歩道を眺めることにした。こんなにも暖かくなっているのに、まだ蕾すら実らせていない。辺りには草もなく、寂しい裸姿の桜並木。桜の見ごろはまだまだ先かな、なんて思った時だった。
ガタ
左隣の外国人のお姉さんの部屋のベランダから音がした。
ま、今日は平日の朝だし別におかしいことでない。夜の仕事から今帰ってきたのかもしれないし、夜中に帰ってきて今目を覚ましたのかもしれない。
ガラガラ
隣から人の気配が強くなってきた。どうやらベランダへ出てきたようだ。
おいおい。あの美人の部屋着を見れるチャンスだぜ!
普段こんな平日の時間帯に家になんていないもんだから、変な気分とテンションで感情が高ぶってくる。
外国人だし、部屋着ってきっとエロイ服装に違いない。バスローブ?それとも俺がいないと思っての下着姿とか…??グヘヘ。
- 少し…。少しだけ…
醜い感情が表に出ないように一度頬を両手で叩いて表情をもとに戻す。そして、外の景色を眺めているんですよー、周りに関心なんてないんですよー的な顔を新たに作って、ベランダから少し体を乗り出す。そして横目で左隣の家のベランダを覗き込んだ。
「わ、え!?お、おい!危ないっ!」
左隣からした気配はボンキュッボンの外国人のお姉さんのものではなくて、想像すらしていなかった幼い男の子のものだったのだ。お姉さんが子持ちだった、とい事実よりも、その男の子がベランダからぐっと身を乗り出していて、危うくベランダから落ちそうになっていことに俺は強い衝撃を受け、つい大声で声を上げる。そして手をとっさに伸ばし、男の子の上半身を支えたのだ。
ああ、驚いた!!まだ心臓がバクバク言ってる!あのまま放っておいたら確実に下に落ちていたぞ!
腕に抱きかかえた男の子をそっと覗き込む。表情はよく分からなかったものの、乱雑に切られた髪色はお姉さんと同じ金色に光り輝いており、瞳は女の子のようにクリクリと丸みを帯びた綺麗な瑠璃色。風にのって香ってくるあの甘い香りはあのお姉さんと同じもの。あ、鼻が治った。と喜んだのと同時に、やはり親子なのか、と自覚した。
「お母さんは?」
俺の問いに、急に怯えたように震えだす男の子。そこで気づく。ああ、そうだった。お姉さんも日本語が殆ど分からないのだった。平日のこの時間に家にいるってことは、きっとこの子は保育園にも、幼稚園にもいっていないのだろう。もしかしたら、あのお姉さんと同じでこの男の子も日本語が分からないのかも知れない。それにさっきとっさにでた俺の大声。怒られたと思って萎縮しているのかも…。
あぁ、クソッ!俺はお姉さんがどこの国出身なのか知らない。だから、この男の子がどこの国の言葉がわかるか、なんて想像もつかないのだ。ああ、こんなことならどこの国出身なのか、とかもっとお姉さんと話して仲を深めておけばよかった……。気の利いたことを一言も伝えられない自分自身に嫌気がさす。だけど、何とかして、俺が怒ってないということを伝えないと…。
「オレ オコッテ ナイヨ。デモ、ココ デンジャラス。アブナイ」
片言の英語を使って身振り手振りで男の子に話しかけるが、少年は頭をフリフリし返してくるだけ。
クソッ!外国人なんて皆英語分かると思ってたのに!まさか英語が伝わらないとは…。焦る俺。
「ユア ママ ドコ? ウェア イズ ユア ママ??」
「Maman?」
〝ママ〟という言葉に反応した男の子は、怯えながらも、恐る恐る俺に話しかけてくる。
「Êtes-vous l’une des mauvaises personnes?」
俺と意思疎通を、男の子なりに図ろうとしてくれているのだろうか?
「ノーノー!ゼンゼン オコッテ ナイナイ!」
とりあえず、腕を前に大きく伸ばして手を振りながら、再度怒ってないと表現してみる。英語ではない言語を話しているから男の子に伝わるわけないのに、なぜだか俺の口からは片言の英語がポロポロこぼれて出てくる。
「Hé, au secours! Aidez-moi, s'il vous plait.」
な、何て!?
俺に恐怖心を抱かなくなったのだろうか?男の子は怯えた表情を変えることはなかったが、俺に一歩一歩近寄ってきながら、何かを話しかけてくるようになった。
けれど、何を喋っているのか理解できない。
「あっ!!」ここであることが頭を過り、我に返った。「あ!オレ コロナ!あ~。シック!シック!ミー ハ シック ネ。ウツル カラ、ユー ニード スペース!」
身振り手振りでそう説明するが、やはり男の子には英語は通じない。
「Hé, aidez-moi s'il vous plaît」
再度訳の分からない言葉で返される。俺はもうお手上げだ、と感じた。とにかく、こんな幼い子に病原菌を移さないように気を付けないと!
「ま、ボウズ。外は危ないからママ無しでベランダへ出るなよ。ヒアー デンジャラス。ノー ママ、ノー ノー」
俺は逃げるようにして部屋の中へと戻っていった。
*****
昨日の今日だしな…。
まだ病原菌があるからできれば男の子に会いたくないな…。だが俺の思いとは裏腹に、次の日の朝もタバコを吸いに外にでると、俺が窓を開けた微かな音を聞きつけた男の子は、俺の後を追うようにベランダへと出てきた。そして、ひょいっと隣のベランダから身を乗り出して「Au secours」と片手をあげて挨拶してくる。そしてその後、不思議なことに手をパーの形からグーの形へと変化させる。
- この子の国の挨拶の仕方なのかな?
「おはよ。でも、それはデンジャラスだから!ノーノー。ダメだよ」
ベランダに俺も体を乗りあげて、その後両手で大きく罰の字をしてそう伝える。危ない行為だと理解してくれただろうか?それにしても、通じないと分かっているにも関わらず、昨日に引き続きこの子と話すとつい英語が出てきてしまい、ルー大〇みたいな変な日本語になってしまう。我ながら、間抜けだな、と思う。
男の子は理解してくれたのか、次は体を乗り上げる、なんて危険なことはしなかった。それでも、背いっぱい背伸びをしながらベランダの隙間から俺に再度手を挙げて、その後グーをする。今度はなんの言葉もなしに。
再度挨拶をしてきているのだろうか?俺も「ハーイ」と笑顔で答え、男の子と同じように片手で手を挙げ、その後パーをグーの手をするジェスチャーを真似た。
「Non. Non」
男の子は首を振る。そして今度はそのジェスチャーをゆっくりと繰り返し行った。
その仕草に注意深く目をやる俺。あぁ、なるほど!パーの状態から、すぐグーにするという簡単な動作ではないようだ。まずは親指を折り曲げて、その後に親指を包み込むように他の指を折り曲げていく。
「オッケオッケー!」
今度は男の子と全くジェスチャーをしてそう答えた。
男の子は明らかに少しほっとした顔を見せる。「Aidez-moi, s'il vous plait」と呟いて。
*****
「Quand est-ce que tu m'aides ? Quand maman vient ici pour m'aider?」
次の日の朝、俺がベランダに出るや否や男の子がドタバタと隣のベランダから駆け寄ってきた。まるで俺が出てくるのをずっと待っていたかのようだった。何かを俺に聞いてくるのだが、早口すぎて何を言っているのか分からない。まぁ、ゆっくり喋られたところで何も分からないのだけれど…。
「おはよう。グッモーニング」
俺は煙草をふかしながら、昨日男の子がやって見せてくれたジェスチャー込みの挨拶をして見せる。
けれどなぜだか男の子の表情がみるみるうちに曇っていった。
- え、何で何で??
俺が動揺しているのをよそに、涙をポロポロ流しながら、「Maman, Maman au secours...」と声を落とす。
- マ、マ…?
そういえば…。昨夜を思い出す。
右隣のおじさんの部屋からはいつものように部屋を歩く足音と、トイレを流す生活音は変わらず聞こえてきていた。けれど、左隣のこの子のいるお姉さんの部屋からは、会話をする人の声も、お姉さんが出勤する時にいつも鳴り響かせているヒールの音も、一日中何も聞こえてはこなかったのだ。
もしかしたら、あのお姉さんはこの子を部屋に置いたまま家に帰ってきていないのでは?これっていわゆるネグレクトってやつなのかもしれない…。男の子を不憫に思った俺は、ベランダの影から手を伸ばして頭を撫でてやる。
「ボウズ、腹減ったか?ハングリー?」
児童虐待なのかもしれない。けれど、いかんせん何の証拠もないのだから、自宅待機中の俺がしてあげられることって何もない。とりあえず俺ができるのは、もし腹を空かせているのなら家に残っている数少なくない食べ物を分け与えてやったり、人恋しく思っているのなら傍にいてやったりすることだけ…。
俺が「ほら」と渡したチョコレート。男の子は「Maman, au secours...」と涙をポロポロ流しながら受け取る。「Thank you」と男の子がお礼を呟いた。それは自身が学び、よく耳にする英語のお礼。けれど男の子の発するその言葉は、自身が知っているものと比べ随分と訛っているように聞こえてきた。
*****
あの日以降も男の子との奇妙な関係は変わらず続いている。
いつものように朝、俺がベランダに煙草を吸いにでると、男の子が部屋からでてこちらに駆け寄り、隙間からいつもの挨拶をしてくれた。手をパーに広げて、親指を曲げて、その親指を他の指で包み込む。その不思議な挨拶に「Au secours」という言葉を添えて。
俺も同じように、「オスクール」と笑顔を浮かべながら同じジェスチャーで挨拶する。オスクール、の意味は分からないけれど、きっと”おはよう”とか、”やぁ”とかの一種なんだろう。目が合うたびに男の子はこれしか言わないもんだから嫌でも覚えた。でも、男の子は不思議なことにそれ以上の言葉を発することはなくなってしまった。言葉が通じていないから諦めているのかもしれないし、この言葉を覚えてほしいからワザとそうしているのかもしれない。
そういえば。男の子と過ごすこの不思議な挨拶の時間は、決まって朝の煙草タイムの時間だけなのだ。
お昼の時間も、夕方の時間も、その他のどんな時間に俺がベランダへ出て行こうとも、男の子が隣の部屋から出てくることはなかった。最近、たまに左隣からカタカタとかドンドンとか色んな音を耳にするようになったから、もしかしたらお姉さんが帰ってきて一緒に過ごしているのかもしれない。
- やっぱり親と一緒に過ごすほうがいいのか…
小さな子供なのだから当たり前な筈なのに、やはり残念だな、と思う。どんなに育児放棄されていたとしても、あの年頃の子供は親と過ごす時間が世界の中心であり、かけがえのない貴重な時間なのだ。俺は邪魔をせずに何かあったらすぐに駆けつけてやれるくらいの距離で見守っておこう、そう密かに心に決める。
それにしても、だ。隣からはほとんど会話らしい人の話声は聞こえてこない。壁が薄いから遠慮しているのだろうか?けれど、まだ子供なんだからもう少し活発に動きまわっても、大声出しても俺は怒らないのにな。でも、でももし俺がお姉さんのいないところであの子に勝手に助言して、後で怒られたり、それが原因で虐待をさらに受けたりするようなことになってしまったら…。そうなったら困る。
- しょうがないか…
俺はため息をついて空を見上げる。自宅待機期間が明けた後、お姉さんに直接伝えてあげよう…。そう心に決めた。
*****
『警察関係者の話によると、犯人より1,000万ドルの要求があったそうです。が、保護者は先にレティシアちゃんの声や姿を送るよう依頼。しかしその後犯人から連絡が途絶え、未だ行方はいまだ分かっておりません。警察は身代金誘拐事件として………』
家にいても何もすることがないし、男の子も朝の時間以外にベランダに出てはくれないから、俺は毎日進展することのない同じニュースを垂れ流ししているワイドショーでも見ることにした。そういえばこのレティシアちゃんってあの男の子に似てるな、とふと思う。
そういえば以前名前を聞いたとき…。
『ワット イズ ユア ネーム?』
『??』
『ミー ヒロキ。ヒロキ、オレ ヒロキ。ユー ナニ?』
『Lætitia』
あの英語が通じたのかは知らないけれど、あの時発したレシーシャがあの子の名前だと思う。レティシアとレシーシャ…。似てる、よ、な…?
髪の色も金色だし、目の色も綺麗なブルーの瞳だし…。画面の女の子と同じだ。でも、髪は背中まで伸びてない。あの子はボサボサのショーットカットヘアーだしな…。
テレビ画面には、流暢な英語で会話するレティシアちゃんのお父さんがいた。その映像を見て、俺は何であの男の子がレティシアちゃんと同一人物かも、なんて考えが頭をよぎったのか、自分があほらしく感じた。レティシアちゃんはカナダ人だ。だから、このインタビューを受けているお父さん同様、英語が流暢なはず。
だけど、あの子は英語を話さず、代わりに何語か分からない言語を話している。いくら俺がバカだったとしても、話されている言語が英語かどうかなんてさすがに一週間近く一緒にいれば区別くらいつく…。以前耳にした〝Thank you〟の言葉だって画面上の男の発音と違い、かなり訛った英語のものだったと記憶している。それに、〝オスクール〟なんて挨拶が英語圏である、なんてこと勉強したこともない!
- 他人の空似か…
再度ベランダへと出て煙草に火をつける。
- ま、外国人の子供なんて俺らからすれば、皆同じように見えるもんだしな…
一人勝手に完結し、この小さな違和感に蓋をすることにした。
*****
そんなこんなで、今までの人生の中で一番長い一週間が終わりを迎えようとしていた。
今日はその自宅待機を命じられた最終日。俺の心はもうウキウキだった。
この一週間、隣の男の子としか顔を合わせていない。しかも、毎朝一度だけの簡単な挨拶だけ。決して会話と呼べるものではない。だから俺はこの一週間の大半を、一人で一日中ぼーっと過ごしていた。それがいかに精神的に堪えるものか想像がつくか?
- ああ、やっと解放される!この狭い空間から、この息の詰まりそうな重い空気から、そしてこの孤独からも!!
けれど、解放される喜びにワクワクするや否や、あの男の子のことが頭をよぎり、少し心が重くなってしまう。
「お姉さんがいない出勤時くらいは、たまに面倒でもみてやるかな…」
俺は一週間だけの缶詰でもこんなに精神的にも堪えたんだ。けれどあの男の子はきっと俺が知らなかっただけで、きっともう何か月も外に出ていないに違いない。
急に俺がいなくなったら寂しく感じないだろうか?より孤独を感じたりしないだろうか?あの男の子にどうやって説明しよう?
頭の中で随分とたくさん会話のシュミレーションをする俺。ようやく俺が意を決して朝の煙草を吸いにベランダへ出ても、左隣からは何の音も聞こえることはなかった。そしてその後どれだけベランダで待っていても、あの男の子いつものようにベランダから顔をだしてくれることはついになかった。
*****
「やべぇ!今何時だ!?」
目を覚ますと、カーテンは開けっ放しているのにも関わらず、あまりにも暗い暗闇に自分がいることに少し焦る。なんだか頭がボーっとしている。どうやら眠り過ぎたみたいだ。
結局男の子は現れなかった。今日が最後だったにも関わらず、いつもの朝の挨拶ができなかったことに少し不貞腐れた俺は、早く一日が終わるように、と、まだ陽の高いうちから布団に潜り込んでいたのだ。それがいけなかった。枕元に置いてあったリモコンでテレビをつける。もう夜のニュース報道の時間だった。トップで報道されているのは、やはりまだ見つからない身代金誘拐されたカナダ人の女の子のニュース。
「この子まだ見つからないのか…」
独り言がつい口から零れた。
- まだ見つからないなんて…。もしかしたらこの子はもう…
暗い気持ちに沈みそうになるのを頭を振って振り払う。
- そんなことより、今は寝すぎた自分の体をどうにかしないと!
明日から仕事復帰なのだ。なのに一日中寝てしまったもんだから、もう眠気なんか一ミリもない。でももしこのまま夜更かししてしまうとすると、明日、山のようにある仕事に身が入らなくなることは目に見えているし、その上、ミスを奮発する様子が嫌でも脳裏をよぎるのだ。冷汗が溢れてくる。なんで今日こんなにもダラダラと過ごしてしまったんだ!俺の馬鹿野郎!!
携帯画面を確認した。時刻は22時を指している。今日まで自宅待機。けれど、残り二時間くらい別に外出しても問題ないよな??
スポーツウェアに急いで着替え始める。今からジョギングを1時間くらいすれば、久しぶりの運動に体が疲れて眠気に襲われるかもしれない。とにかく俺の頭の中ではどうやったら再び眠ることができるのか、そんなことばかり考えていた。
乱暴に玄関のドアを開けて、部屋から出る。大きな足音を響かせながら階段を下りている時だった。
ドン
何かにぶつかった。
「いたっ」これは前をちゃんと向いていなかった俺の不注意だ。額をさすりながらぶつかったモノへと慌てて焦点を合わせる。
「すいません!」
俺がぶつかったのはモノではなく、ヒト。右隣に住んでいる厳つい顔したおじさんだった。
「いえいえ、大丈夫ですよ」その厳つい顔つきに似合わず、優しい声。「それより随分とご無沙汰のように感じられるのですが、何かありましたか?」
おじさんとはいつも会釈での挨拶程度の希薄な近所づきあい。だから会話らしい会話を今まで交わしたことなんて一度もない。けれどそんな関係にも関わらず、しばらく会わなかったことをこのおじさんなりに心配してくれていたことに俺は密かな喜びを隠せないでいた。
「あ、あの…。恥ずかしい話、コロナに罹患していまして…ハハハ」頭を掻きながら男の問いかけに顔を少し赤らめそう答える。この一週間、人と会話らしい会話なんてしていなかったから、たったこれだけの些細な言葉のキャッチボールでも楽しく幸せに感じる。
それにしても…。おじさんの格好を改めて観察する。よくよく見ると、出勤時にいつも見る格好と同じだ。黒っぽい服に長い筒と大きなカバンを持っていて…。
「もしかして、今、釣りの帰りとかですか?」
いつもこんな遅い時間まで釣りをしているのだろうか?それとも、この服しか持ち合わせがないのだろうか?作家だと勝手に想像していたおじさんだが、もしかしたらプロの釣り人なのかもしれない。
「ま、まぁ…。そ…、そんなとこ?で…す」
けれど俺にとっては想定外。なぜだか俺の単純な問いかけにおじさんは明らかに動揺し、言葉をどもらせながらそう答えたのだ。
- え?なぜ?
「では、ジョギングいってらしゃい」
先ほどまでの穏やかな時間が嘘かのように急にぴりついた空気になり、その後おじさんはあからさまに俺との会話を強制終了し、そそくさとこの場を去ろうとする。
俺の中で嫌な感情がふつふつと湧き出てくるのを感じる。
- 何なんだ!?この男はきっと何かを隠している。怪しい…。怪しすぎる…。
「あ、そういえば!」
俺の中の変な正義心に火がついた。この挙動不審の人物の行動をもう少し探ってみよう、と。
「なんです?」
「あの右奥に住まわれている外国人のお姉さんにお会いしたことあります?」
だけど俺にはそんなに会話の引き出しがあるわけではなかった。頭をひねりようやく絞り出したのは、ご近所さんのこと。巷の奥様方もご近所さんの噂話で話に花を咲かせるという。俺もそれに乗っかってみることにしたのだ。
まぁ、案の定、おじさんはなんでそんなこと聞くんだ?と不思議そうな顔を浮かべてはいたものの、首を振って「そういえば最近見てませんね…」と答える。
ど、どうしよう…。ここから先のことを全く考えていなかった。
「オスクールって知ってますか?」
もうこうなったら仕方ない。何が何でも会話を引き延ばして、この男が隠そうとしていることを炙り出してやる!
「オスクール?」
だから、変にムキになってしまった俺は、明日会社の人にきこう、っと思っていた疑問をこのおじさんに前振りもなくそう尋ねたのだ。
「はい。お姉さんのお子さんがベランダ越しによく挨拶してくるんです。こうやってジェスチャーしながら…意味わかります?せめてどこの国か分かれば…」
少し男の子のジェスチャーをして見せる。手をパーに広げ、親指を曲げ、それを包み込むようにグーの手にするいつもの挨拶。
「どこで!?その子供はどこで見た!?」
淡々と話しながら男の子の仕草をする俺を注意深く見ていたおじさんは、みるみる目を見開いていく。そして俺の肩をぎゅっときつく掴んでそう大声を上げた。唾が顔に少しかかった。俺は眉間にしわを寄せて少し早口で言葉を返す。
「え、あ、いや。さっき言ったお姉さんの家のベランダで…。一番左奥の…」
俺の言葉を全て聞き終える前に、おじさんはドタバタと大きな音を立てながら階段を駆け上がり、ドンドンドンと大きな音でお姉さんの家の扉を叩く。
「開けろ、誰かいるか?開けろ!!」
ドンドンドンドン
「ちょ、ちょっとこんな夜中に何してるんですか!」おじさんの急な行動に俺も慌ててその後を追いかけ男の行動を制止する。「男の子、ビビっちゃいますよ。こんな夜中にそんな大声で」
一度冷静になった男は扉から少し離れる。そして扉の前のあるものをみて顔をしかめた。
「クソッ。全然気づいてなかった」
「何がです?」おじさんの吐き捨てるような声に俺も後ろから扉を見る。「ちょっ!これって!」
なぜだか外国人のお姉さんの家の玄関扉が外からチェーンで繋がれていたのだ。これなら男の子が家の中から外へ出て行こうとしても、このチェーンが邪魔をして外に出ることなんてできやしない。
「いや、まだ幼いし…。勝手に外に出て、事故にでも合わないようにするための母親の心配心からなのでは?」
「んなわけないだろ!」俺の言葉にきつい言葉で怒鳴りながら否定してくるおじさん。だが男はすぐに冷静さを取り戻し、「大家さんにここのマスターキーを聞いてもらえますか?私は消防に連絡してこのチェーンを…」と淡々と指示を出してきた。
「え、え、え!?でも、勝手にそんなことしていいんですか?だって、もしかしたらあの外国人お姉さんがカギをなくして仕方なくこうしてるとか…。何か訳アリだったりとか…」
「違う!」それでもなお食い下がる俺に、再度そう否定の言葉をかぶせるおじさん。「よく聞いて。まずあなたが聞いた〝オ スクール〟。確証はないけれど、もしフランス語の〝Au secours!〟のことだとしたら…。それは〝助けて〟という意味なんです」
「いや…え?そんな…」何が何だか。俺の頭は今このおじさんに言われたことをなかなか理解できないでいた。「で、でも。聞き間違いという線だってあるかもしれないじゃないですか…」
「確かに一理ある。だけどね、助けを求めている、と確信を持てる一番の理由はこのハンドサインなんだ」おじさんもあの挨拶をする。手をパーに広げ、親指を曲げ、それを包み込むようにグーの手にするあの挨拶。「これはシグナル・フォー・ヘルプ。カナダ発祥の助けを求めるサイン。口に出して助けを呼べないときにこれを使用するように、向こうの国では幼い子供のうちからそう教育されているんです」
「じゃ、俺にあの子は挨拶してたんじゃなくて…」
頭の中でグルグルとあの子との会話を思い出す。
いつもあの子はその挨拶しか俺に言わなかった。
笑顔で話しかけてくれたこともなかった。
そういえば、ずいぶん最初のほう、あの子は泣いてた…。
そんな、あの子の助けに気が付かず…。
俺の頭は真っ白で体を動かすことができないでいた。
- あの子はずっと俺に助けを求めていたのに…。俺はなんてことを…
「私は刑事です」頭も体も働かない俺に、おじさんは優しく声をかけてくる。「私はとある事件の張り込みで毎夜このアパートに通っていました。にも関わらず、二つ隣の部屋の異変に気が付かなかったのです。罪でいえば私のほうが随分と重い。反省するのは後です。それよりも早くその男の子を助け出してやりましょう」
おじさんはそう言うと駆け足で階段を下りていく。下から人の会話の声が聞こえてきたから、恐らく大家さんと話でもしているのだろう。
*****
22時半過ぎ。消防隊員が現場に到着した。扉につけられていたチェーンを切断し、大家さんの持つマスターキーであの部屋へと突入。
後から説明された話によると、部屋の中は簡易の食料品の袋や空いたペットボトルたちのせいで、ゴミ屋敷のような状態になっていたらしい。そしてゴミの山の奥、ベランダの窓の前で一人子供が倒れていた、とのこと。熱が40度近くあり、呼吸音も弱かった。だから俺が一目見ることも、声をかけてやることも叶わず、そのまますぐに救急病院へと搬送した、と。
そしてその子が誘拐されていた、あのカナダ人の資産家の娘、レティシアちゃんと知ったのは、事情聴取を終え帰宅した際に見た、朝方でのニュースでのことだった。
*****
左隣に住む外国人のお姉さんの証言では、スナックの常連客の男性に、「少しでいいから預かっておいてくれ」と言われて仕方なく預かっていた、と。だけど、英語も伝わらず、何を話しかけても答えてくれない子供。さすがに何か訳アリかもしれない…。と感じたという。けれど提示されたお金の金額に目がくらみ、つい飲んでしまったらしい。愛想のない子供でもあったので、暫くの食料と飲み物だけ置いて、勝手に外に出ないようにチェーンで玄関の扉を施錠し、自分は九州へと旅行に出かけていたそうだ。
そのことを後日右隣に住んでいたおじさん、否、刑事さんから聞いた時、女の無神経な行動に俺は呆れて開いた口が塞がらなかった。
さらに刑事さんの補足情報によると、レティシアちゃんを誘拐した犯人が、子供がすぐにレティシアちゃんとバレないよう、髪を切り落とし、男の子のような服を着せたらしい。ベランダ越しとはいえ、会話を一週間ほどしていた俺も結局気が付かなかったのだから、一応対応としては犯人の思惑通りに進んでいたのだろう。
結局レティシアちゃんが保護されてから二日後、女へと依頼したと思われる客の男性が誘拐犯の仲間とともに確保され、身代金誘拐事件はこうして幕を閉じることとなったのだ。
「俺ずっと作家さんが朝早くに釣りにでかけているものだと思っていたんです」
刑事さんとのお別れの日。刑事さんはわざわざ菓子折りをもって引っ越しの挨拶に来てくれた。
「ふふ。紛らわしくてすいませんでした」
「本当に。でも本当はあの筒と鞄の中身って何だったんですか?もう最後ですし、ここだけの話、教えてくださいよ」
「ハハ。本当にここだけの話ですよ?」コホンと一度咳払いして刑事さんは話を続ける。「あの中身は望遠鏡とカメラ。後は張り込み時の食料とかまぁ、色々とそんなものです」
「ぼ、望遠鏡??」
「ええ。ほら、向かいの桜並木道の奥にある高層ビル。どこかはさすがに機密情報になりますので申し上げられませんが、そこの一室に部屋にレティシアちゃんの誘拐犯の容疑者の一人がいるっていうタレコミがあったんです。それが、まさか二つ隣に監禁されていたとは…」
「そ、それにしても、刑事さんって多言語にも流通しているんですね!!!」
あからさまに肩をがっくしと落として落ち込む刑事さん。俺は慌てて話題を変えることにした。
「そういうわけではないんです」頭を掻きながら恥ずかしそうに呟く。「レティシアちゃんを一日でも早く救出してあげたくて…。もし私が彼女を助けてあげられたなら、少しでもこれ以上大きな不安を抱かせないように。早く安心してもらえるように。一端にそんなことを考えて少しだけ彼女の母国語をあの部屋の中で勉強していたんです」
「普通にすごいです。警察官の鏡ですよ!」
「なんの活躍もできませんでしたが…。でもそう言って頂けるだけでも心が洗われる思いです。ありがとうございます」
「でも、彼女の母国語ってフランス語なんですね。ご両親が在カナダのフランス人とかだったんですか?」
「ふふ。レティシアちゃんたちはカナダのケベック州出身です。正真正銘のカナダ人ですよ」刑事さんは屈託ない笑顔で続ける。「日本では考えられないんですけど、カナダではそこの州だけが、公用語が異なるんです。英語ではなく、フランス語に。ややこしいですよね…」
ただ俺の無知を無様に披露しただけだった。恥ずかしくて恥ずかしくて…。穴があったら入りたいと初めて本気でそう思った。
*****
「おはようございます」
あの事件から数か月。未だ俺の両隣に住民はいない。だから毎日顔を合わせるのは一階に住む大家さんだけだ。
「おはよう。今日、念願のアレ。届いたわよ」
大家さんから渡されたのは、国際郵便で届いたはがき。フランス語で書かれた文字の解読は俺にはまだ困難だ。
あの事件の後、レティシアちゃんのご両親の代理人から連絡があったのだ。レティシアちゃんに笑顔が戻ったら、きっといつかお礼の手紙を送ります、と。
ハガキに添えられた一枚の写真に自然と口元が緩む。だってそこには少し髪が伸びたあの女の子の屈託のない笑顔があったから。俺はこれを大事に鞄の中にしまった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
いつかお金が溜まったら、彼女に会いに今度は俺がカナダに会いに行こう。そう心に決めて。
- FIN -