1.一か月目(前半)
「サッシャ、すまない。僕は君の妹に恋をしてしまった。婚約を解消してもらえないだろうか」
口をギュッと閉じて、サッシャの手を握り謝るルーク。サッシャはそっとルークの手を外すと、涙をいっぱいためた目でルークを見る。ルークは思わず手を伸ばし、こぼれかけたサッシャの涙をぬぐう。
「すまない、サッシャ。すまない」
サッシャは気丈にもかすかに微笑んだ。
「いいの、ルーク。元々あなたは妹との方が仲が良かったんですもの。父が強引に私を婚約者にすえたのだわ。いずれこうなってしまうと思っていたわ」
サッシャは涙を拭くと、首から婚約の証の首飾りを外し、ルークに渡す。
「これは、返すわ。私にはもう必要ないもの。売るなり捨てるなり、好きにして」
ルークは少し傷ついたような顔をする。サッシャは凪いだ目で告げる。
「さよなら、ルーク。幸せになってね」
サッシャはルークが出て行くまで、じっと背中を見ていた。扉が閉まるのを見届けると、サッシャは喜びを爆発させる。
「やったわ。円満に婚約を解消したわ。これでやっと働ける。結婚なんかまっぴらよ。私は母さまみたいにはならない」
サッシャは机の引き出しから王宮の官吏への応募書類を出し、じっと見つめる。サッシャはようやく開けた未来への道に、目を輝かせた。
***
「社会的に存在を抹消しますか?」
事務的に淡々と、「紅茶にしますか?」と聞くように投げかけられた問い。サッシャは目の前の女傑を凝視する。ハッと気づいて頭を必死で横に振った。
「いえ、とんでもありません。抹消だなんてそんな……。いなくなってくれないかなーと思うことはもちろんありますけど」
「そう」
全く感情のこもっていない声。王宮の影の支配者とウワサされるヘレナ・ミラージュ女史は、冬の日の凍った湖のような目でサッシャを見る。サッシャは思わず曲がりかけた背をピシッと伸ばす。
「サッシャ・ルスター、二十歳、子爵家長女。王都で一二を争う美貌と、学園での優秀な成績を誇る。それなのに婚約者を妹に奪われた。その後、降り注ぐ求婚を全て蹴散らして、王宮での官吏勤めを望んだと……」
ヘレナ女史はトントンと書類の上に尖った木の棒を打ちつける。おもむろにその木の棒を口に入れ、ガリガリと噛み始めた。サッシャは目を瞬く。
「ああ、これ? タバコの代わりなのよ。夫と王妃殿下が口うるさくてね。仕方なく禁煙してるってわけ。口寂しいから噛んでるのよ。それに……」
ビュッとヘレナ女史は木の棒を壁に掛けれたコルク板に投げる。誰だか知らない男性の肖像画の目に突き刺さる。
「イライラしたときは、むかつくヤツの絵に突き刺すと、少しスッとするわね。あなたもやってみる?」
サッシャは受け取ったものの、どうしていいか分からず、棒を手の中で転がす。
「さて、有能なはずのあなたが、この一か月全く結果を出せていない。その原因が上司であるウィリアム・デフォール。ふむ、彼はデキるのよね」
ヘレナ女史は新しい木の棒をガシガシ噛み締める。じろりとサッシャを見据える。
「ところで、さっき抹消するか聞かれたとき、誰を思い浮かべたの?」
「は? ええっとウィリアム様です」
「そう、元婚約者はもうどうでもいいのね?」
「は、はい。元々、愛情はありませんでしたので。親に決められた婚約でしたし」
ヘレナ女史は目をつぶってしばらく考える。
「まあ、一か月でどうこう言うのもおかしいけれど。あなたには期待していたのよ。さて、具体的に何が原因なのかしら?」
「はい……。その、ウィリアム様は私に秘書のような仕事をさせて、実務をやらせてくださらないんです。秘書はちゃんと別の方がいらっしゃるので、私はお茶くみやウィリアム様が移動されるときの荷物持ちなんかをしています」
「なるほど。愛人みたいな扱いを受けているのね。若くて美人にありがちね。そう……」
ヘレナ女史は木の棒を口から出すと、噛んでない方で頭をガリガリとかいた。
「上の立場からするとね、ウィリアム・デフォールは外しにくいのよ。伯爵家の三男で、仕事も卒なくやっている。あなたを配置換えする方が合理的だわね。サッシャ・ルスター、配置換えを希望しますか? ただし……」
ヘレナ女史はふーっと鼻息を吐く。
「次の部署でも同じ扱いを受けるかもしれない」
「わ、私は今の部署で結果を出したいと思っています」
サッシャは必死で言う。どうせどこに行っても同じなら、今の部署でなんとか成果を出したい。
「そうね、実績のない若くて美しい女性。どこに行ったとしても、男上司の食い物にされるわね。でも、それぐらいの覚悟があって官吏になったんでしょう? 王宮の官吏は男の世界。役職はほぼ男性貴族が牛耳ってる。まさかそんなことも知らずに、入ってきた?」
「いえ、覚悟はしてました。ただ、思ってたより何にも仕事がなくて……」
サッシャはうつむいてスカートのシワを伸ばす。ヘレナ女史はしばらく感情の読めない目でサッシャを眺めると、かすかに口角を上げた。
「ふっ。やる気はあるのに、力を発揮できないのは虚しいものよね。いいでしょう。サッシャ、あなたに三か月の猶予をあげます。その間になんらかの結果を出せなければ配置換え。月に一度あなたとの面談時間を設けます」
「は、はい。ありがとうございます」
サッシャは安堵して思わず息を吐いた。ヘレナ女史に呼び出されたときは、クビを覚悟していたのだ。ヘレナ女史は片方の眉を上げてサッシャを見る。
「とは言っても、どうしていいか分からないでしょうね。まずは、部署内の仕事を把握しなさい。誰が、何をしているのか。どんな不満を持っているのか。与えられた仕事を完璧にこなしながらよ。できる?」
「はい。できます。やってみせます」
サッシャは何度も頷く。課題を出してもらえるのはありがたい。
「いいわ。ではひと月後の同じ時間にここにくるように」
ヘレナ女史はパタリと冊子を閉じると、木の棒を机の上に放り投げた。