03 僕はネットアイドルのアイリだけを見ていたい…
擢は自室に到着するなり、パソコンを起動させた。
動画サイトを開き、アイリのアカウントを画面上に表示させたのだ。
擢はパソコンが置かれた机前にある椅子に腰かけ、マウスで動画一覧のサムネイル画像をクリックする。
すると、昨日アップされたアイリの動画が映し出されるのだった。
「そういえば、他の動画も上がってたんだな」
擢は動画を見て思う。
昨日はアイリに好きな人がいるという放送事故があり、他の動画を見るほどの勇気が出なかったのだ。
一日睡眠をとれば、何とかなったものの、まだ、心が苦しい。
一体、アイリは誰が好きなのだろうか?
アイリはネット発のアイドルだが、今では普通に芸能人との関わりがある。
もしかすると、一般人とかではなく、いつも接点のある芸能人か、どこかの起業家とか、そういった人なのだろう。
一般人で、どこの誰かわからないような擢が選ばれるわけがない。
単なるネットアイドル好きの妄想である。
擢が、アイリの存在を知ったのは、中学二年生の頃。
学校の人間関係で悩んでいる時に、たまたま動画サイトで目にしたのだ。
奇跡の出会いと言っても過言ではないだろう。
もし、知らなかったら、今の擢はいない。
アイリは四人アイドルグループ――“ミロワール”のメンバーの一人。
彼女がネットアイドルとしてデビューしたのは、中学一年生の頃である。
擢とアイリは同い年であり、彼女の存在を知ったのは、その一年後ということになるのだ。
見始めるようになった時期から、アイリはデビュー一年目で、登録者数十万人にいくか、いかないかくらい。
十万人近い登録者数がいたとしても、人によって態度を変えることもなく、自分らしさを保ちつつ、愛想良くふるまっていた。
アイリの魅力はそれだけじゃない。
歌を歌ったり、演技ができたりと、他人を楽しませることを意識した立ち振る舞いができなることだ。
さすがはプロだと思う。
一部のアンチからは単なるネットアイドルとか、素人とか、本当のアイドルになれなかったヤツだとか、散々言われている。そういった悪い噂を広めようとしている人も少なからずいるというもの。
彼女のような素晴らしい存在を悪く言うような人は誰だって許したくない。
アイリの身に何かがあったら、どんな状況に巻き込まれたとしても、絶対に守り抜ける自信はあった。
自分の人生を救った人であり、その恩返しをしたいと考えていたくらいだ。
「あ、それより、鈴木さんとのことを書かないといけないんだった……」
擢はしぶしぶといった感じに、スマホを操作し、メモ機能に鈴木との出来事を書き出していく。
「というか、明日は何をすればいいだろ。んん……」
今日はコンビニでお菓子を購入しただけであり、デートと呼べるかは疑問だ。
一か月も罰ゲームとして、彼女と付き合っていくなら、別の場所も決めておいた方がいいだろう。
幾留は面倒な存在であり、マンネリ化してくると、いつも思い通りに物事を進めたがろうとする。
なんで同じクラスになったんだろうと思ってしまう。
これは運が悪かったと考えるしかない。
「はああ……」
ふと思う。
先ほど、鈴木の瞳はアイリと同じだったことに。今、動画サイトの画面上に映っている彼女の瞳を何度も見ても、本当に似ていると思ってしまう。
まさかとは思うが、同一人物ではないはずだ。
普段のアイリが、あそこまで根暗でかつ、陰キャ女子なわけがないからである。
信じたくもない。
頭を抱え、息が苦しくなってくる。
「……」
擢の高校生活は絶望ともいえた。
生きた状態で煉獄の世界にいるような、気分に陥るのだ。
「まあ、しょうがないか。僕の人生は、ネットだけでいいんだ。ネット上にいる、アイドル、アイリだけを見て、心が癒えればそれだけで」
擢は画面上に映るアイリの笑顔を見ているだけで、生きているのだと実感できた。
学校に行きたくない。
むしろ、ずっと、ネットだけを見て、生きていきたいとさえ、感じてしまうほどだ。
それができたら苦労しないし、多分、好きな女の子だけを見て、生活しているのは、楽しいと思う。
でも、自分の息子が、中卒の引きこもりで、仕事もせずに。動画サイトでアイドルを見ている生活など、両親は絶対に許してはくれないだろう。
擢はボールペンを机に置き、インターネットで、アイドルグループ“ミロワール“とアイリのことについて検索をかけた。
「ん?」
パソコンの画面に表示されたのは、ミロワールのメンバーである、アイリがストーカーにあっているという記事である。
その情報は、初めて知った。
彼女のファンなのに、全く知らなかったのだ。
記事をよく見てみると、一年ほど前からストーカー事件にあっていたという事。
毎回、警察に頼んでその都度、解決してきたらしい。
が、今回ばかりは、どうしても解決できそうもなく、公のネット上に情報を公開したようだ。
だ、大丈夫なのか……。
自分にできることはないかと、必死に考えている。
しかし、彼女がどこで被害にあっているのかもわからず、手を差し伸べてあげることもできない。
心が痛くなる。
自分が最も好きなアイドルが、今苦しいと考えると、擢自身も心臓が締め付けられるように、痛く感じるのだ。
「なんか、僕、どうすればいいんだろ」
擢は何もできず、動画サイトを付けたまま、ベッドの中に入った。
実際、擢はそんなに強い方ではないのだ。
どうすればいいか、そんなことなんてわからない。
アイリが無事であることを、ただ単に願うしかできないとか、本当に残念な存在だと感じた。
もう、布団から出たくない。
どこかに消えてしまいたいとさえ感じた。
そんなことを考えていると、陰キャ女子の鏡花のことを思い出してしまう。
彼女も消えてしまいたいと、帰宅途中に言っていた。
同じ陰キャであり、考え方に多少の誤差はあるものの、やはり、鏡花とはどこか似ているのかもしれない。
だが、彼女のことを意識することなんて多分ないだろう。
学校一の陰キャ女子なのだ。
そんな女の子を、いくら陰キャの擢であっても、好きになることはない。
擢は、ベッドのシーツを力強く握りしめた。
何もかもがめちゃくちゃだ。
学校に行っても、幾留には弄られ、罵声を浴びせられ、陰キャ女子と一か月間付き合う羽目になるし。そのうえ、好きなネットアイドルは事件に巻き込まれてしまう。
自分も含め、自分の好きなものまですべてがうまくいっていないのだ。
こんな人生でいいのか?
布団から出られない。
もう、このまま明日まで寝ていたいと思う。
夕食もいらないし、今は一人になりたい。
擢は、泣きつかれて、そのまま瞼を閉じるように、眠ってしまった。
「たく――」
誰かの声が聞こえる。
「擢――」
また、優しい口調の女の子の声が聞こえたのだ。
どこかで耳にした、天使のような問いかけ。
「擢君。早く起きないと――」
「え?」
擢はその声が誰なのか、瞼を閉じた状態でもわかった。
その声の持ち主は、ネットアイドルのアイリだ。
そう確信ができるほど、彼女の声は飽きるほど耳にしている。
でも、飽きるということはない。
飽きるという限界を超え、悟りを迎えているような感じだ。
擢は瞼をゆっくりと見開き、その目の前にいる人物――アイリを見た。
ネット上のアイドルがなぜか、自宅にいたのだ。
ありえない光景。
なんで、こんなところにいるんだろう。
疑問に思うが、そんなことどうだっていい。
願いが叶うなら、彼女の手を触ってみたかった。
「擢君、早く起きないと、遅刻しちゃうよ♡」
ベッドから起き上がるように、彼女の方へ右手を伸ばす。
が、刹那――
擢の体がガクンと傾き、そのまま床に叩きつけられた。
「い、テテテ……な、なんだ? あれ?」
叩きつけられたことで、擢の意識が鮮明になる。
そこは、いつもの自室。
先ほどの彼女の声は、スマホにインストールされていた、ミロワールの公式アプリのセリフである。
その音声が、擢の願望と入り混じって、幻想を見せていただけだった。
「夢か……って、もう朝なのか⁉」
スマホの画面を確認すると、すでに朝の七時。
擢は昨日の夕方からずっと寝ていたようだ。
でも、体の疲れは解消されていた。
学校には行きたくないものの、擢はしぶしぶと自室を後にする。