ある店主の悩み
遠雷で彼女が聞いていなかった話。
遠雷。
春の終わりを告げる嵐の日、彼は珍しくも後悔していた。
「おいしーですね」
ワイン瓶を抱えて笑う娘。
酒に強くないと自己申告してきたのだから、勧めなければ良かった。
いつもはきっちり結わえてる金髪が、無防備に緩やかに波打っている。日焼けを気にしていたが健康的な肌が、上気して赤い。
潤んだような目がやばい。
「……俺は後悔している」
脈なんてサラサラないのに堕とされそうだ。
「止めましたよ。僕は」
白い目で見てくる同席者に視線を向ける。
年齢不詳の美青年は伝説の吟遊詩人と同じ名を持っていた。普通はそれほど機嫌の善し悪しを表に出してこないが、呆れているということを隠しもしない。
「もうちょっとちゃんと口説けばいいでしょうに」
酔っぱらいが聞いていないことを確認して、小さく聞いてくる。
彼が顔をしかめるだけの理由はあった。
「甥っ子がいるんだ。それがどうも、この子が好きみたいで」
「は?」
セフィラは彼をまじまじと見て、ぽんと手を叩いた。
「随分と上手に隠しましたね。わかりませんでした」
「わかるほうが怖いんだが」
「というと、ああ。彼、ですか」
明らかに機嫌が悪くなった。
遠くに住む甥が一体何をやらかしたのか彼は知りたくなかった。
竜を討伐したと顛末が書いてある手紙が来ただけだ。
ついでのように書かれた吟遊詩人の名。訪れたら教えて欲しいと書いてあった。
「そう。死ぬかと思ってた」
生きていることが意外だと言えば薄情に思えるかも知れない。
彼も当人に言う気はない。
ただ、死に場所を探していたような男が何をして生きるつもりになったのか不思議には思う。
ちらりと若い吟遊詩人を見る。
何が楽しいのかにこにこと笑っている。
心置きなく酔っても安心と思っているんだろうと彼は複雑な気持ちになる。
「んー?」
ぺしぺしと意味もなく手を叩かれる。痛くはないが近すぎた。
それをセフィラはニヤニヤと笑ってみている。
とっとと寝台に放り込んで来ようかと考えるが、それもまた危険な気がした。
「あとで僕が連れて行きますよ。その方面の興味はないので」
そう言いながらセフィラはチーズを口に運ぶ。好きなんだなと目減りしたチーズの山を見る。
普通の食事は半分も食べず、残すのももったいないと少なめを要求していた。
「歌のためだけにきたわけではないだろう?」
「そっちが本命ですが、他の所用もあります。様子がおかしい孫を心配した知人に様子を探って欲しいと願われて」
続きを促すように目線を向ける。
「彼女は、思ったよりまともなんですよね。旅をするわりに荒事はあまり関与してこなかった」
少し言葉を考えるようにセフィラは黙る。
彼女が次の酒を注ごうとしていることに気がつき、取り上げて泣かれるなどあり次の言葉は忘れかけた頃だった。
「僕でも竜退治なんて見たくないですよ。竜ですよ、竜。人の身には天災でしかないそれに対して死人もけが人も山ほど出ますよ。普通」
「一人で倒せそうだが」
「人がやってるのは見たくないという話です。自分から選んだのだから、見たのは仕方ない。でも、傷つかないわけではないと、思うわけです」
「死人は出なかったと聞いた」
「死なないにしても、色々あって傷ついた人を見ることにとても恐怖を覚えてもおかしくないでしょう?」
好意を持っている、あるいは、知っている人が怪我をしても平然としていられるような人ではなかったと。
「確かにまともではあるな」
「ですから、しばらくは彼女のことを知らせるのはやめてください。気持ちの整理はそう簡単につきませんよ」
うつらうつらと船をこぎ始めた彼女を横目で見る。
「わかった」
「ほんと、何で口説かないんです? かわいいくらいじゃ伝わりませんよ?」
「余計なお世話だ」
セフィラは笑って眠り始めた彼女を肩に担いだ。
……意外だ。
そして、その後の記憶は彼にもなかった。
店主
いつまでたっても名前のでない酒場の店主。
ジャレッド・ディグラ。
短い暗い金髪、整えてる系の口ひげとあごひげあり。鮮やかな翠の目。
吟遊詩人になりたくて家を出たが、全く向いてなかったため傭兵としてあちこちを放浪。最終的に酒場の店主になる。
吟遊詩人間ではちょっとした有名人。
童顔。とても気にしている。
本人の落っことした記憶の話は吟遊詩人しか知らない。