遠雷
あの日。
遠く、響き渡る音を聞いた。
膝を抱える私の呟きをかき消して。
「…………」
遠く雷が鳴っている。
店主が言うには春の終わりを告げる雷雨なのだという。去年もいたよね? みたいな顔をして言うくらいにはここに馴染んでいるようだ。
まだ、半年もいないんだけど。
昼過ぎから降り始めた雨を見て店主は仕込の仕方を変えた。
曰く、今日来る客はいない。
数日食材を持たせるために塩をすり込んだり、煮込んだりと忙しそうだった。
私は邪魔をしないように自室に戻った。
調律や歌の練習をしていたが、いつの間にかうとうとして嫌な夢を見た。
遠雷。
別名竜の咆哮。
もっとも竜とはおとぎの世界の話だ。それこそ冒険家ラド本人が歩き回った時代に語られること。
と思っていた頃もあった。
辺境にはまだ生息していたらしい。
見たらトカゲのような、と言われるかも知れないが竜討伐を知っている。
私が知っているのは全てが終わってからだ。
血と甘い薬の匂い。
目をつぶり耳をふさぐ。思い出してはならない。
あれは終わったことだ。
創作する人間は登場人物に感情移入しすぎるのは良くない。
それでも忘れたわけではないからこの遠雷を聞いていると気持ちがすり減る。
語るべき英雄の物語。
私が、作り損ねている物語。
一人で部屋にいるのも嫌になったので、酒場に降りてきたのに店主はセフィラと話し込んでいる。
店主は楽器をつま弾いては音程を確認している。
言葉少なだが、妙に楽しげで疎外感を覚えた。
あれから二日くらいで彼は復活し、日に二、三曲は弾いているがあまり上手な歌は歌っていない。
彼の特技は独自で、そのまま覚えることであり、音程が合っているかどうかなどあまり気にしていない。
無意識に直したり、癖が表に出たりと言うことは一切ない。
言葉の訛りですら一致する。
店主の調子っぱずれの歌すらもあの声で歌われた日には頭を抱えた。
店主本人が一番恥ずかしい顔をしていた。
彼には吟遊詩人になりたかったが、壊滅的に音痴だったので諦めた過去がある。
音を聞き分ける耳があるのにどうして音程が取れないのか私には理解できない。
最終的に楽器をやることになった。
手先は器用だったので簡単にマスターしていったことが驚きだ。何故、今まで楽器を触ろうと思わなかったのだろうか。
ぎこちないながらも音階を刻むリュートが、寂しげな店に響く。
通いの店員は既に帰されている。
ここにいるのはセフィラ、私、店主のみだ。
セフィラが、こちらに気付いたようで唇に人差し指をあてた。
階段から一番近い椅子に座る。
店主のつま弾く音は時折雷鳴にかき消えるが、しっかりとした旋律を奏でている。
「遠雷」
知っている詩だと思わず呟いた。
「おや、ご存じでしたか」
「シャエラ地方の古い歌だと思ったけど。近くに行ったことがあって教えて貰った」
それは冬の眠りと春の目覚めの歌。
歌詞自体はほぼ同じだ。微妙な違いはあれど聞き慣れていなければ聞き逃すほどに些細な。気を付けていないとどこを謡っていたかわからなくなる。
店主のリュートの音に乗せて、口ずさむ。
「冬は風に乗り去り
冬は山に帰った
春は雲に乗りやってきた
春は地に帰ってきた」
私が口ずさんだそれの続きをセフィラは口にする。
「冬は眠り
春は目覚める
遠雷を子守歌に
遠雷を目覚めの歌に」
あの地方特有の妙に平坦な発音で彼は謡う。
それから一通り謡って気が済んだのか窓の外を見る。辛うじてガラスが嵌められた窓は今は木戸でしっかりと閉じられている。
さすがにこれが割れたら店主も頭が痛いだろう。それくらいの暴風雨になるという。
今は大人しく雷の音を聞くだけだがそのうち家が壊れるかと思うほど揺れるらしい。
「そう言えば遠雷を竜の咆哮と良く言われますが、シャエラ地方でそう呼ばれていたのが広まったことはご存じですか」
私は曖昧に笑うことにした。
知っていたと言えば知っていたし、本来の意味で知ってはいなかった。
確かにそこに居たと今なら思える。
大きな山の麓の街で、雨も降らないのに鳴る遠雷。そのとき地元の住む人が一様に山を見ていた。
その翌日に春を喜ぶ祭りを行っていた。
異様に盛り上がっていたそれは今から考えればおかしい気がする。それも妹と一緒に回っていたときのことだったから二人で変なのーと笑っておしまいだった。
「ブルーベルが眠るという話も聞いたことがあるな」
店主はある聖女の名を上げる。おとぎ話よりは現実に近い聖人の名だ。生まれも死も不明なのに竜退治をしたとだけ伝わる。
その話は幾多の物語として謡われ、定番的なものだ。
そして有名なせいかあちこちに生誕の地と墓がある。どれも偽物と皆思っているが口に出すほど野暮ではない。
「へー」
相づちを打ったセフィラは全く興味ない顔に見えるが無表情すぎて怪しい。
何か知っているのではないだろうか。
「知らない方が良いですよ」
私と店主の探るような視線に無表情のまま告げた。
「……さてメシにするか」
店主はリュートを椅子に預け、いそいそと厨房に去って行った。
「遠き雷。
呼ぶ声は敵を。
望は死を。
誉れを」
店主のリュートを借り、小さく歌う。
形式もないただの歌。
形にならない英雄の歌。
「捧げよ
捧げよ
加護を受けし者よ
信じよ
誓いを」
それは決して誉れのために仕組まれたことではなかったという。
彼らは負けて追い出されたと苦く言っていた。
存在するかもわからない竜を求めて、狩るまでは帰れないという。
婚約は破棄され、既婚者は離婚させられ、家族からも友人からも遠く離れた場所で竜を探す。
「泣きそうな顔ですね」
「いつまでたっても出来そうにありませんよ」
「残念ながら、気は長い方でして」
それから吟遊詩人は肩をすくめて、こう言った。
「それに、私が作るよりは出来がよいでしょう?」
渾身の自虐に私も思わず笑った。
店主はどうしても日持ちしないものから消費することにしたようで豪華な食卓になった。
春の最後に出回る川魚を塩焼きにしたもの。
山菜を素揚げして塩を振る。
仔牛の内臓の軽い煮込みはトマトと豆も入れてある。
パンはパン焼きの日ではなかったため、軽いパンケーキが盛られていた。
仔牛は肉の熟成期間を考えてこのあたりに絞められ、この嵐が去ったあとに皆で丸焼きにして食べるらしい。
その内臓は食堂や酒場などで山分けされる。代わりに肉を焼くときにかり出されるそうだ。
「稼ぎ時だと思うが、酔っぱらいが溢れるから気を付けろよ。若い娘なんだから」
「ありがとうございます?」
「……店主と同じくらいなのでは?」
「これでも三十は超している。二十かそこらだろう。違っても答えるなよ」
……なんだろうか。
確かに二十とちょっとと言えなくもない歳だけど。思ったより店主が若い。
ちらっと見ると露骨に顔をしかめてきた。
ひげ面の男と表現した方が良い。髪はすっきり短くしているのに反してヒゲは放置だ。
剃ると幼く見えるとかそう言う劣等感を持っていそうだ。
その緑の目が誰かに似ているような……?
「あんたの歳も聞きたくない」
店主はセフィラにきっぱりと言い切った。
それには同意する。
一般的な歳が聞けるとは思えないし、言ったところで信用できない。
吟遊詩人はきょとんとした顔ではあったが、ワインを口に運んだ。
赤ワインは煮込みによくあう。後味の渋さが良い。
店主が果汁水しか口にしていないのは暗黙の了解だ。彼はこれから火を落としたりと色々ある。酔っぱらって始末を忘れて店が焼けたら元も子もない。
川魚は泥臭いとは言うが、たらいで二日ほど置いていたのでそんな事はなく口にすれば香草がふわりと香る。
付け合わせの山菜の素揚げは苦みと青臭さがあるがそこがよい。
「いつもと違ってもおいしい」
「暇だしな」
店主は手間暇をかけたらしい。
吟遊詩人は淡々と食べているが、総量は多くない。体格に見合わない小食というか。
「楽しんでますよ。ここの郷土料理とも違うあちこちの特徴が出ている感じが味わい深い」
「おい」
「はい?」
……確かにこの地ではわりと新鮮な野菜や肉、魚などが手に入るためあまりに煮込み料理は多くない。
森から少し遠いせいで煮炊き用の薪が入手しづらいという事情もあったりする。
長時間煮込む料理は贅沢品だ。
パン焼きも共同作業となっていて、焼いて良い日が決まっている。週に一回くらいで間に合うように多く焼くものだ。
だから、あまりこのようなパンケーキは焼かない。
私の故郷はもうちょっと薄いパンケーキに具材を包んだりする軽食がある。昼食の定番だ。
西方ではよく煮込むものだ。
「チーズと干し果実も用意しようとおもっていたんだが、いらないんだな」
「余計なことはいいません」
あっさりとセフィラは宣言した。
あちこちを回っていた割にこれは踏み込んではいけないというところに踏み込んでいく。少々デリカシーがないというか。
店主は厨房に引っ込んでいった。
しばらくして持ってきたのはチーズや干し果実の皿と自分用の杯だった。
「あっちの火を落としてきた。今日は湯の用意はしないからな」
そう言って自分でワインを杯に注ぐ。
「この時期に誰かが居た試しがないからな」
ちょっと楽しい。
店主が小さく言った。
雷は遠く聞こえる。
しかし、それは竜ではない。
いつか去る自然現象にすぎない。
あの不安も。
あの絶望も。
あの怒りも。
あの一夜も。
遠い日のこと。
いつか謡えるほどに遠くなること。
それを願っている。
ちょっとばかり羽目を外した私と店主が翌日二日酔いに悩まされた。
セフィラは涼しい顔で誰にも言いませんよ。なんて言っていたのが心臓に悪すぎる。
落っことした記憶が戻ってこない。
店主も青い顔をしていた。
その後、一向に彼はそれについて言うコトはなかった。




