風の旅人
まだ世界が三界に分かたれる以前、共に生きる三種の種族は不要な衝突を避けるため『絶界の盟約ぜっかいのめいやく』を結んでいた。
その三種族とは、最も多くの地域に繁栄した『人族』、自然と共に生き最も長命とされる『エルフ族』、その数こそ少ないが凶悪な魔力を持ち絶大なる戦力を有する『魔族』である。
これは一人の少年”風の旅人”がそれぞれの種族との関りをもちながら、『絶界の盟約』を撤廃し三界がそれぞれに干渉なく生存できるよう尽力していく冒険譚である。
ここは三種の種族が共存をする世界。人々は自分たちの住む世界を”自由”の意味を込めて『フリージア』と呼称していた。
フリージアは大きく3つの区域に分別されている。多くの『人族』が住まい広大な大地を有する「王宮都市ラウフ」、『エルフ族』との境界に位置し人族の中でも一部しか持たない魔力を有する者だけが立ち入ることができる「魔法都市ペルソナ」、そして『魔族』との紛争が絶えない最果ての地「バベル」である。
三種の種族はそれぞれが無益な干渉をしない為に遥か太古の時代に『絶界の盟約』という不可侵の条約を結んでいた。要約をすると「それぞれの領地に入るには、それぞれの統治者に許可をもらってから入ること」という約束のようなものだ。
そんなフリージアでとある日を境にして、一人の少年の噂が流れるようになった。少年は着の身着のままにフリージア各地を旅していて、村や街に立ち寄っては人助けをして去っていく。というものだった。
この世界は『絶界の盟約』が結ばれた際に、その代償として神々に”風”を捧げてしまったと言われている。荒ぶ風もそよぐ風もなくなり、無風の世界になったのだ。それ故にその少年の噂は一足飛びのように広まったことは言うまでもないだろう。そう彼の目撃談ではその少年は失われた”風”を操るとされていたからだ。
各地での功績とあたかも神の御子の様な”風”を操る力をもつことから、名前を持たぬその少年はいつの日からか希望と好奇の対象としてこう呼ばれるようになった。
――――「風の旅人」と。
風の旅人の噂がフリージア全土に広まりつつある中、なかなか情報や物資なども届きにくいラウフの最南端にある村「テット村」では急激に繁殖をしてしまった害虫である青バッタの被害に悩んでいた。テット村はラウフからも離れ、貿易からも疎く、ほとんど自給自足での生活を余儀なくされていた。
時折、村の若い衆がラウフ郊外に出向いて出稼ぎや貿易商のような役割を果たすこともあるが、村の命綱ともいえる名産品である本麦の収穫期に青バッタの被害に見舞われ、その対応を村人全員で当たるほかなかった。駆除しても駆除しても繁殖スピードが早く、本麦だけでなく村にある作物が無残にも食い散らかされてしまっていた。
「くそ、もうダメだ・・・・・・」
村一番の働き手であるケインですらもう終わりのない駆除作業と、自給自足する分すら無くなり欠けている作物を見て諦めの色が見えてきていた。
「これも神の思し召しじゃと言うのなら、この村は食いつぶされる運命にあるのかもしれんのう。致し方ない……村を出る準備を始めようじゃないか」
村長の弱弱しくも、覚悟を決めた言葉にうなだれる者、故郷を棄てなければならないことに涙を流す者、やり場のない憎しみを手に持っていたクワを地面に叩きつけ悔しがる者、反応はそれぞれだった。
「本当にこの村を棄ててしまうのですか?こんなにも美味しそうな作物が豊富なのに勿体ないですよ」
突如として村人たちの輪に入っていたのは、フードをかぶる背の小さな少年だった。背丈や声色から憶測するにまだ14,5歳ほどだろうか。
「この惨状で何ができるというのだ、部外者の、しかも君みたいな子どもに口出しをして欲しくないね」
ケインの冷静な言葉にも怒りをくみ取ることができて、それを聞いた村人の誰もがまだ村を棄てることになど納得はしていなくて、諦めきれていないことはすぐに分かった。
「本当に村を棄ててしまって、後悔はしないですか?」
フードで顔は見えないが、少年はケインの顔を覗き込むようにしてそういった。ケインは眼を見開き激昂する。
「貴様に何がわかる!!後悔しないわけがないだろうが!!」
「ケイン!やめて!!」
ケインは少年の胸ぐらを掴み上げた。そのはずみで少年の顔を隠していたフードがはらりと取れた。宵闇の様に真っ黒な髪、アシンメトリーになる前髪の右側は、その少年のもつナニカを覆い隠すかのように長く伸びている。
「良かった。まだ皆さん諦めていないんですね」
胸ぐらを掴まれ、大人に睨みつけられながらもその少年はそう言いながら優しく微笑んだ。その時、村人達は何か柔らかなものが通り抜けていく感覚がしたという。少年はその髪の色と同じ黒い瞳で柔らかにケインを見ている。
「お前・・・・・・いや、君はいったい」
胸ぐらを掴み上げられた状態のままで少年は、青バッタが群がっている田畑を見つめた。そして、ゆっくりと左手を向け、手を開いた。事が終わるまでに、少年が何かをするのだと気づいたのは掴み上げ彼の身体に触れていたケイン一人だけだったという。
「君たちの命も大切だけれど、君たちの食糧ならまだ他にあるよ。でもね、ここの作物はこの村の人達の大切な、本当に大切なものなんだ。だから、ゴメンね」
「これって・・・・・・魔法?」
少年の身体が緑色の光に包まれ、その光は流麗に田畑に向けられた左手へと収束していく。一層に輝きを増したその光は温かなものだった。
見ていた村人たちは、その光の美しさに目を奪われている。
「少し遠くまで飛ばすね。--『南方からの風』!」
田畑の作物が一斉になびき始め、おびただしい数の青バッタが空中へと舞い上がる。柔らかな風に包まれた、その青い集合体はゆっくりと上昇しながらテット村の北にある平野の方へと流れるように移動していった。
「奇跡だわ」
「あれだけの数の青バッタが・・・・・・」
「まるで神の御業じゃあ、救世主様じゃあ」
害虫がいなくなった田畑を見て、村人たちは歓喜にわいた。涙を流して抱き合う女衆、瞳を潤ませながら自分の畑を見つめる人、反応は様々だったがこの村に居続けられることへの安堵から皆穏やかな顔つきをしていた。
「乱暴な真似をしてすなかった。。。そして、礼を言わせてくれ。この村を救ってくれて本当に・・・・・・本当にありがとう!!」
ケインはゆっくりと少年を下ろし、そして深々と頭を下げた。少年は優しく笑っている。村長が歩み寄り、深く深く頭を下げた。
「この度のあなた様のお力に我々は救われました。本当にどれだけお礼をしても足りないくらいです」
「お礼なんてとんでもないです。どうか頭を上げてください」
村長が少年の顔を見ると、そこにあったのは見た目の年相応の屈託のない笑顔があった。
「ありがとう・・・本当にありがとう」
村長は少年の左手を両手で包み、何度も何度も繰り返しお礼を告げるのだった。
そこからはまだ少し残っていた青バッタの駆除作業を村人総出で行い、夜には少年への感謝の宴が催された。取れたての野菜は瑞々しく、驚くほどに甘いもので少年は満足そうだった。
「そういえば、まだあなたのお名前を聞いておりませんでしたな」
宴で賑わうテット村は温かな焚火の光に照らされている。少年は村長の隣で宴を楽しんでいた。そして、少年はほんの少し寂しそうな口調で村長に自分のことを話し始めた。
「僕に名前はありません。自分がどこで産まれ、どんな風に過ごしていたのかのかも思い出すことができないんです。分かっていることは僕には魔法が使えるということ、気が付いたらペルソナ近くの森の中に居たこと。それから・・・・・・この宝石」
少年はポケットから大切そうに宝石を取り出して、村長に見せた。それは炎の様に赤く輝き、深淵のように深く瞳を奪われる不思議な宝石だった。宝石は半分が割れたように欠けていて、フードの留め具になるように加工されているものだった。
「・・・これはなんとも見事な宝石じゃな。これほどの物であれば王国の騎士団や、魔法都市の魔術師のような高貴な方にまつわる物なのでしょうが」
「やはり分かりませんよね。僕は誰なのか?どうして森の中で目覚めたのか?この宝石は何なのか?それを見つけるために旅をしているのですが、一向に手掛かりがなくて。でも、不思議と焦ったりはしていないんです。名前は分かんなくても僕は僕ですし、いつかはきっとこれらの手掛かりから僕自身のルーツを見つける日もそう遠くないと思っているので」
村長はその少年のもつ強さに、わずかながら淋しさを感じていた。
「おう少年!食ってるか?うちの畑で取れた極上の野菜炒めだ、たんんと食ってくれ」
お皿に豪快に盛り付けて、野菜炒めを運んできてくれたのはケインだった。少年はあまりの大盛に少し困った顔をしながら笑って手に取った。
「ここは良い村ですね」
焚火を囲んで歌ったり踊ったり、人こそ少ないけれど皆が笑っている。まるでこの村にいる全員が家族の様で少年は羨ましそうに見つめていた。
「自慢の村です。そして村の一人一人が大切な、自慢の家族なのです」
とても穏やかな横顔で村長は村人たちを見つめていた。そんな姿を少し羨ましく少年は思うのだった。
「なんて顔しているんだ?君ももうこの村の家族だろ」
ケインが隣に腰掛けながらそう言った。
「えっ・・・・・・?」
少年はその言葉に驚きを隠せずにいた。ケインは豪快に笑っている。少年は村長に訴えかけるように見つめるのだが、村長も頷いた。
「また旅へ出られるのでしょうが、この村の人間は皆あなたのことを忘れたりしません。そして、あなたの探し物が見つかることを心から祈り、そしていつでもあなたが帰ってくるのをお待ちしておりますよ」
温かな焚火に照らされた村は、それからしばらく賑わい続け、宴が終わると少年は村長の家へと招かれて眠りについた。
翌日の早朝、村人たちは日の出から作業を始めていた。少年が村を出ようとすると、皆が作業を一旦止めてまで見送りにきてくれた。
「君が無事に旅ができることを祈っているよ。いつでも遊びに来てくれ、また上手い野菜炒めを御馳走するぜ」
ケインの言葉に少年が困った顔をすると村人たちから笑い声がこぼれた。村長は小ぶりな袋をもってきて、それを少年に手渡した。
「村の農産品の中でも日持ちの良い乾物です。旅のお供に、そして我々からの感謝の気持ちとして受け取ってくだされ」
干し野菜や果物がその袋には沢山入っていた。少年は村人たちに深く頭を下げる。
「頂きます。ありがとうございます。それでは・・・・・・」
そして少年が村を出ようと数歩歩いた時だった。
「いってらっしゃい」
女性の優しい言葉、それに呼応して村人達は少年の旅に幸があるようにと願いを込めながら小さくなっていく背中を後押しするように大きな声で
「いってらっしゃい!!」
そう言ったのだった。少年は温かくなった胸に手を当てながら一度だけ振り返り、大きく手を振りながら
「いってきます!!」
と、そう言い残してまた新たな旅へと出発するのであった。
テット村は貿易も盛んではないので噂話などもなかなか郊外から運ばれてくることはない。今回の少年の功績もテット村では語り継がれていくのだが、この話が他の村や街に流れ出ることはなかった。それでも、奇しくも同じ呼び名をもって少年のことを語り継ぐこととなるのだった。
――――「風の旅人」と。