7月の雨
「彩、みてよあれ。まだあるよ」
友美が指さす先には、傘があった。昼時の大学の食堂、すみっこにある、窓際の四人テーブル席。接している窓の枠に、傘がかけられている。なんの変哲もないビニール傘。初めは、誰かが席を確保するために置いているのかもと思ったのだが、そういうわけではなかった。
「2ヶ月くらいあそこにない?」
私の返答に、友美が首を縦に振る。
それだけ放置されているのなら、多分、誰かの忘れ物だろう。
どこの大学も、というか、建物の屋外に傘立てが設置されている場所ならどこでもある事だと思うが、ここでも傘の盗難が頻繁に起きている。天気予報くらい見ろよと思う。もしくは、折りたたみ傘を常備しろと思う。とにかく、一部の心無い人のせいで傘が無くなる事が多いので、大体の学生は傘を食堂に持ち込んでいる。恐らくあの窓際の傘も、そういう人が持ち込んで、それで忘れていったのかも。
盗まれないように持ち込んだのに、忘れるなんて。ドジな人もいたものだ。
「早くご飯食べよう。急がないと席が埋まっちゃうよ」
友美に急かされ、私は慌ててトレーを取った。
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三日後。
今日は夜7時すぎまで授業があったから、晩ご飯は食堂に来た。思ったより混んでいて、最初は相席も考えたけど、空いている席を見つけた。
あの傘の席だ。
そういえば、あそこは無意識に避けていたと思う。私は何も考えず、その席についた。いただきます、と小声でつぶやいたあと、サラダを食べ始める。今日は友美はいない。アルバイトがあるからと、授業を休んだのだ。
一人黙々とご飯を食べていた。その時だった。
サーッという雑音が聞こえてきた。噛むのをやめて、辺りを見る。音がしそうなものはない。自分の両耳を手で押さえてみる。音が弱まった。手を離すと、また同じ音量になる。私の耳がおかしくなったんじゃないみたい。やっぱりどこからか音が……。
「え?」
何気なく見た窓の外では、雨が降っていた。
しまった、と私は思った。天気予報では深夜から雨と言っていた。それが早まったのだろう。油断していた。午後8時過ぎには家に帰れるだろうと思っていたのだ。
「困ったな……。傘、持ってきてない……」
ふと、私の目にあの傘が映った。
だめだ、それだけは。私が一番嫌悪していたことじゃないか。だが、私の決意を削ぐかのように雨は激しさを増す。周りで食事をしていた他の学生も驚いている。口々に天気予報が外れたと頭を抱えている。
私はもう一度、外の様子を伺った。そして、傘を見た。外、傘、外、傘。
「……!」
私は決断する。目の前にある食べかけの夕食を急いで平らげると、左手首あたりに傘の柄を引っ掛け、空の食器が乗ったトレーを片付けると逃げるように食堂を出た。
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「雨降るなんて聞いてねえよ!」
「走って! 早く!」
周りは大騒ぎだ。ずぶ濡れの生徒たちがたくさんいる。もちろん、その中には傘をさしている人もいる。私はその中の一人として、ごく自然に振舞う。傘は表面自体は少しくすんでいるものの、骨組みはしっかりとしていて、私を大雨から守ってくれた。
歩きながら、私は罪悪感と戦っていた。
(持ち主の人、困るだろうな。でも、ずっとあそこにあったんだから、もう忘れてるはず……。いや、たとえそうであったとしても、やっぱり人のものを盗ったことにかわりはないんだ。明日、必ず返そう。だから、今日だけは、今日だけは。ごめんなさい、ごめんなさい……)
自分で自分が嫌になる。「天気予報くらい観とけよ。傘は常備してるものでしょ」という自分の中の常識が、私の心にダメージを与える。あぁ、嫌な雨だ。そんなことを思いながら、私は横断歩道を渡る。そのまま真っ直ぐ無心で歩いた後、二つ目の横断歩道を渡る。その時だった。
「あの」
誰かが私に声をかけた。か細くもはっきりとした口調。振り返るが誰もいない。空耳だろうか。そもそも、こんな激しい雨の中、あんなにクリアに人の声が聞こえるだろうか。叫んでいるならまだしも、とても穏やかなトーンだった。私は少しだけ怖くなった。もう一度、ゆっくりと周囲を確認する。
そして、気づいた。
一つ目の横断歩道のど真ん中に、誰かが立っている。真っ赤なワンピースの女性。髪は長く、口元しか見えない。距離が距離だから、わかるのはその程度だった。
「あの」
また聞こえてきた。
その瞬間、違和感と恐怖で私はその場から動けなくなった。まず、声はまるで耳元で囁かれているかのようにはっきりと聞こえる。そしてその声は、あの赤いワンピースの女性が発したものだと何故か分かった。これだけの距離がありながら、何故あそこにいる女性の声がこんなにはっきり聞こえるのか。この状況を自分の中の常識に当てはめようと様々な仮説を立てるが無意味だった。それどころか、今自分が得体の知れないものと対面しているのだという事実を認識させる手助けになってしまった。
足が震えて動かない。傘を持つ手に自然と力が入る。
「あの」
三度目の呼びかけ。今度は変化があった。遠くの女性が右腕をゆっくりと動かし始める。手が肩の高さまであがった。こちらを指差しているようだ。
「返してください」
私は叫び声をあげた。その場に傘を落とし、腰を抜かしてしまう。直前まで離れた場所にいたその女性は、次の呼びかけと同時に私の目の前にいた。その人差し指を、私の眉間につきつけて。
私がその場に崩れても、彼女は微動だにしない。指さした状態で固まっている。
「返してください。返してください。返してください」
何度も何度も同じ言葉をつぶやきながら、その場に立っている。
私は思わず目をつむり、両手で耳をふさいで叫ぶ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
何に謝っているのかは分からない。ただ、ずぶ濡れのまま謝った。恐怖で頭が働かなかった。逃げるよりも先にコレに許してもらうことが大事だということだけを考えた。雨が私の体を濡らす。とても冷たい。体の震えは恐怖なのか体温が低下しているからなのか分からない。私は、恐ろしい声を自らの声でかき消すように大声で謝った。何度も、何度も。次第に息が続かなくなってくる。でも、息を吸うために言葉を止めればあの声が聞こえてくるかもしれない。いっそこのまま酸欠で意識が飛んでくれないだろうか。
「……い。……い!……おい!」
突然誰かが私の両肩を掴んで強く揺さぶった。思わず目を開けてしまう。そこにいたのは、ずぶ濡れのおじさんだった。あの女性はどこにもいない。おじさんは、とても不安そうな顔で私を見ている。
「大丈夫か!?」
その声に私はゆっくりと頷く。すると、おじさんは私とそばに落ちていた私の荷物を抱えた。そして、小走りで少し移動すると、私を下ろして壁によりかからせた。
「危ないだろう! 横断歩道のど真ん中で急にしゃがみこんで! 具合でも悪いのか? 何かにうなされてたみたいだったが……」
あぁ、そうだった。私は横断歩道を渡っている途中だったんだ。道路を見ると、車の中からドライバーが何人かこちらを見ているのが分かった。睨んでいるような人もいる。ふらふらと立ち上がり、私は道路に向かって深々と頭を下げた。声は届かなくとも、謝罪をしなければ。そう思ったからだ。
やがて、車が発進する音が聞こえてきた。顔を上げると、もう車はどこにもなかった。
「通りの少ない道で良かったなあ。お前さん、ほんとに大丈夫か?」
「あの、ありがとうございます。すみません。ちょっと気分が悪くなって……でも、もう大丈夫です。ほんとに……」
「そうか? 家まで送るか?」
「平気です……。もう、すぐそこなので……」
「……分かった。気をつけろよ。あと、家帰ったらすぐに体を拭きなさい。風邪を引いてしまうよ」
おじさんはそれだけ言うと、その場から立ち去った。その時も、何度もこちらを心配そうに振り返っていた。
私は、彼に深々とお辞儀をしてから、あることに気づいた。
「傘……」
探すが、どこにもない。風が吹いているわけではないから、飛ばされたというのはないだろう。道路にも今いる場所にもどこにもなかった。もちろん、あのおじさんが持っているわけでもない。
「もう、いいか……」
これだけびしょ濡れなら傘などあっても無意味だ。早く家へ帰ろう。
重い足を引きずって、私は家へと向かう。途中何度か転びそうになりながら、住んでいるアパートにたどり着いた。
部屋に入り、靴を脱ぐ。靴下を脱ぐことさえ重労働に感じた。そして、鍵をしっかりとしめる。そこで、ようやく緊張の糸が切れる。そのまま床に倒れ込んだ。服を脱ぐ力はもうない。
睡魔が私を誘う。抵抗することもなく、深い眠りに落ちた。
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次の日、私は学校を休んだ。理由は一つ。風邪をひいた。
見ず知らずのおじさんから言われたことを思い出し、ベッドの中でため息をつく。結局あのまま寝て、次の日の朝8時に目が覚めた。天気は晴れ。昨日の雨が嘘のようだった。
私は改めて、昨日のことを思い出す。謎の女性。赤いワンピース。返してください……。オカルトチックなことはあまり信じないのだけれど、自分の身に起こってしまったのだから、その考えは改めなければいけない。
「多分……あの傘の持ち主さんなんだろうなあ」
私は、病床の暇な時間でその答えに行き着いていた。返してくださいという言葉や、無くなった傘のことを考えると、自然とそうなった。
やはり、人の傘を勝手に使うのは良くないことだ。身に染みて理解した。
「……あ。そういえば、もう飲み物無かったっけ」
唐突にそのことを思い出した私は、枕元のスマートフォンを起動する。
『ごめん! 今日来るとき、飲み物も買ってきて欲しいm(_ _)m』
友美にメッセージを送る。5分後、返信が来た。
『(>Д<)ゝ”了解! 私がそっち行くまでしっかり休んでなよ!』
頼りになる友達だ。風邪をひいたことを伝えたら、今夜授業終わりに見舞いに来てくれると言う。今日だけは甘えてしまおう。
私はスマートフォンを切って、再び眠りに就いた。
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次に目が覚めたのは午後7時だった。電話の音が私をたたき起こす。頭がガンガンする中、苛立ちながらも画面を見た。友美からだ。私は急いで通話ボタンを押した。
『彩? ごめん、寝てた?』
「大丈夫だよ。授業は……終わってるね」
『うん。今からそっち向かうね! てかさぁ、今日雨降るって天気予報で言ってなかったよねー? 最近の天気予報外ればっかじゃん』
電話口から、さーっという雨の音が聞こえてくる。昨日ほどではないが、そこそこ降っているようだ。熟睡していて全然気がつかなかった。
「昨日も外れたもんね。雨に濡れてない? 大丈夫?」
『平気平気。 傘は忘れちゃったけどね』
「……え?」
『あ、いや! 何でもないよ!』
嫌な予感がする。
「友美? ねえ、もしかして」
『彩? なんかいった?』
「友美! 友美!」
『電波悪いな……ごめんね、いっ……きってか……』
雑音がところどころに入ってきてうまく聞き取れない。まずい。止めなくては。
「友美! あんたまさか学食のあの傘持ってきてないよね!?」
『えっ? なっ……きこっ……』
「すぐその傘返してきて! あれは持ち主がいるの!」
『あやっ……なにっ……ってる……『あの』かんないよ!』
聞き覚えのある声だった。電波が悪いはずなのに、とてもはっきりと聞こえる。
「まさか……」
『も……し……ったん……ね……ごめ……『返してください』とで!』
電話は切れた。私はすぐにかけ直す。
『現在、電話に出ることができません。ぴーっという発信音の……』
すぐに切る。もう一度かけ直す。
『現在、電話に出ることが……』
時間の無駄だ。私は、重たい体を引きずって、傘をさして外へ出た。ふらつきながら、自分の家から大学までの道のりを歩く。友美はどこにもいない。私の家までの最短距離はこの道だ。彼女もそれを知っているし、この道以外を使う理由がない。通り道にあるコンビニやスーパーの中にも入ったが、どこにも彼女の姿は無かった。
そして、遂に大学にたどり着いてしまった。
「……」
思い違いであってほしい。あの声は、私の幻聴であってほしい。強く願いながら、食堂へと向かう。
時間が時間なため、そこそこ学生がいる。ふらふらとした足取りで、人にぶつからないように歩く。そして、目を向けたのは、あの席。
傘があった。
「良かった……」
安堵した拍子に足の力が抜けてその場に尻餅をついてしまった。不安げな表情の学生が何人かこちらを見ている。私は、近くのテーブルを支えに立ち上がって、もう一度あの席を見た。
傘はある。
不自然に赤黒く着色された傘が、いつものように窓際にぶら下がっていた。