第三話 落物
雲間から白色の光が差し、寝起きの目に痛みを与える。ぐわぁっと思いっきり口を開け、大きなあくびをする。目じりにうっすらと涙が浮かんだ。「ねみぃ~」と声を漏らし、もう一度あくびをこぼす。手に持っていた自転車の鍵を鞄の中にしまい込むと、ギリギリよりも一本、早い電車に人に流されながら乗り込む。
「おはようございます。鴇守くんは、今日も眠そうですね。遅くまで勉強ですか?」
同じ学校の校章を襟もとに付け、長い黒髪をゆるく三つ編みを垂らした幼なじみ―――小坂悠姫は、鴇守が勉強していないのを知りながらにこやかに挨拶してきた。悠姫も鴇守と同じ小さな村の生まれなのだ。
「いや、いや。悠ちゃんには、この僕が貴重な睡眠時間を削ってまで勉強するような人間に見える?」
「残念ながら、見えませんね。ですが、大丈夫なのですか、二限目の化学の小テスト」
心底呆れた様子で、わざわざテストがあることを教えてくれる。この間定期テストが返却されたばかりだというのにもう小テストがあるなんて憂鬱だ。興味の有る無しに関わらず大学受験に必要な科目を一通り学ばなければいけないなんて退屈で仕方がない。
「え、そんなんあったっけ?」
「ありましたよ。忘れていましたね。はぁ、いいですか。授業が始まるまで貸してあげますから、この範囲をしっかり覚えておいてくださいね。それと、ちゃん付けはやめてくださいといったい何度言えばわかるのですか」
「えぇ~、悠ちゃんは悠ちゃんだもん。悠ちゃんが、呼び捨てにしてくれたらいいよ」
「……。やはり、そのノートは返してください。どうやら、私はあなたを甘やかしすぎたようです」
がたんと電車が急停車する。ざわつく車内に、踏切の影響だというアナウンスが流れる。
「僕が借りたんだもんね。しばらくは返さないよ。それよりも、悠ちゃん……」
「だから、ちゃん付けしないでくださいと何度」
鴇守の笑みの中に浮かぶ真剣な目に気付いた悠姫は、はたと口を閉ざす。騒がしい車内で、そこだけ空間が切り取られたような奇妙な静けさが生じる。
「連続通り魔事件について、情報を集めて。後、藤沢八雲の言動を見張っておいて」
本当に言いたいのは別の事。だけど、その言葉は口に出せない。いつからだろう。どうでもいいことしか話せなくなったのは……お役目の話を業務的に頼む湯になったのは、いつからだろう。昔はもっと、もっと普通に話せていたはずなのに、確かにあったその日々が今はひどく遠い。
「かしこまりました。鴇守さま」
なぜなら、彼女を思い詰めさせている原因の一つは間違いなく自分なのだから……うぬぼれなんかじゃない。彼女もまた「守様」というシステムに組み込まれた一人。「守様」のために動くことが望まれている「式」のようなもの。鴇守も彼女もあの森に生まれた時から縛られている。鴇守は、そのことを別に疎んではいない。遠く、まだ見ぬ土地へ興味はあるもののみ知った土地から離れるのは怖い。それに、あの町も森も、あいつらも鴇守は気に入っている。だが、彼女はどうなのだろう。
世界にざわめきが戻り、一度止まった電車がゆっくりとまた動き出す。ゆらゆらと誰も握っていない手すりが揺れる。下りの列車と接近し、平行に走る。すれ違う。
「燕子花駅」
アナウンスの声に合わせて、押し合うように人が駅へ降りてゆく。悠姫の鞄に
付けられくまのストラップが、彼女の歩調に合わせてゆれる。鴇守は、ポケットの中から取り出した定期を、改札口に押し当てる。体と身体がぶつかるほどにちかくにいるのに、遠い。悠姫が、クラスメイトの方へ手を振り、合流していく。
物理的な距離が近づいても、そのものたちと心が交わることはない。ため息とともに視線を下に落とす。
「あ」
人の足、足、足……だらけの視界に、ふと落とし物を見つけた。それをよけて歩くもの、踏みかけるもの、でもだれもそれを拾おうとしない。
鴇守も、視界の端にそれ―――黒い革張りの定期入れを納めながら、通り過ぎる。
「っ、すみません。ちょっと、通してください」
駅から出ようとして、戻った。もしかしたらもう、他の誰かに拾われて届けられているのかもしれない。いや、届けられずに悪用されているのかもしれない。見て見ぬふりをして通り過ぎる人間に成り下がりたくなかった。それが自分の力が及ばないどうしようもないことなら、そうすることも仕方がないのかもしれない。
だけど、自分の力が及ぶ範囲でのそれは、良くないものだと鴇守の中の何かが騒ぐ。
「あった。すみません」
人をより分けて進む。顔をしかめられた。舌打ちされた。ワザと、おもいっきりぶつかられた。拾おうとした手は、踏みつぶされそうになった。だけど、鴇守の手は確かに落とし物を掴んだ。
黒い革張りの定期入れには白い足跡がいくつかついている。中にあるICカードを抜きだすと、そこには「藤沢八雲」というあまりにもタイムリーな名前が印字されていた。
「同姓同名? でも、学生用のだし、移動期間も僕と同じだから……あいつのなのかな」
拾い上げた定期を、あいつに直接渡すのはためらわれた。昨日の今日だ。正体がばれてしまうかもしれない。顔の半分を仮面で隠し、着物を着ていて、暗闇での出会い。頭を掻く。話し方が違っても、声はそのままだ。ばれると何かと厄介だ。
「駅員に渡すか」
人の流れに逆らわず、かといって自分の目的地へと歩きながら、駅員のいる窓口に顔を出す。自動ドアが開く。その先に、同じ制服を着た先客がいた。会うつもりはなかった。同じクラスにいたところで、話しかける確率なんてめったにない。関わり合いになんかならないつもりだった。
「藤沢?」
戸惑った言葉は、やつの耳にしっかりと届く。名前を呼ばれたことに振り向き、じっと上から下まで見られた。視線を何もない右上に向けて棒立ちの様は、鴇守のことを思い出そうとしているように思えた。
「えっと、たしか森川?」
「いや、森下。これ、あんたのだろう? さっき拾った」
惜しい。だが、意外にこいつは教室の人間を覚えているのかもしれない。転校して、一月だ。こいつにとって鴇守は、なんとなくこんな奴がクラスにいた程度の認識なのだろう。それでいい。これまでも、この先も。昨日の厳かさを感じさせない口調で、ひょいっと定期を渡す。差し出されたものの正体に気が付き、やつの張り詰めた表情が緩む。
「ありがとうな、森下」
「いや、別に。じゃあ、僕はこれで」
「同じ教室なんだ。どうせなら一緒に行かないか」
関わり合いになるつもりなんてなかったのに、一度紡がれた縁は、そう簡単には切れはしないとでもいうのだろうか。
「え、あぁ~いや」
「?」
「あぁ、いこう」
ここで逃げて変に怪しまれるよりは、流された方がましだ。今逃げたところで、どのみち教室で再会することになるという事実に思い至り、開き直る。
鴇守のすんでいる町と違い、人も建物も車も圧倒的に多い。どれも変わり映えしない建物が軒を連ね、その中に人が吸い込まれたり、吐き出されたりとせわしない。この場所と、鴇守のすむ町と時計の針は一定のペースで動いているとは信じられないほど、ここに住む人は時間に縛られている。かくいう鴇守もまた時間に縛られている一人なのだ。
予鈴の鐘が、今日もまた朝の空気に響き渡る。
最近の連続通り魔事件を受けて、部活動をせず、なるべく集団で人気のある道で帰るようにと帰りのホームルームで言われた。学校での注意勧告を受けて、あぁシイばあさんの言う通り事件は本当に起きていたのかと休み明けの久しぶりの学校で思う。寄り道せずに、と言われても、おそらく何人かは寄り道して帰るに違いない。命の危機につながるかもしれないというのに、目先のことしか考えず動くことこそ危ないことなのかもしれない。本当に危ない時、鴇守たちはそれを危険だときちんと認識できるのだろうか。
「鴇守くん、ノート受け取りに来ました。私と同じ電車に乗っていたはずなのにどうして遅刻したのですか?」
「いやぁ、ちょっと落とし物を拾ってさ」
机の中から借りていたノートを取り出して返す。テストは、悠姫のわかりやすいノートのおかげでかなりいい線いっていた。口では文句を言いながら毎度なんだかんだ言って快くノートを貸してくれる悠姫には感謝している。悠姫の労力を盗んでいるような気がして、申し訳ない気持ちにもなる。
「へぇ~、珍しいですね。鴇守くんなら、みて見ぬふりをするかと思っていました」
「悠ちゃんの中のぼくの評価が著しく気になるところだけど、僕もそうするつもりだったから何も言えないなぁ~。知った名前のやつだったからさ。ほっとくわけにはいかないだろう」
へらりと笑う。ちらりと視線を藤沢の座っていた席に向けると、納得した様子で相槌を打たれた。席を引きゆったりとした動作で立ち上がり、鞄を背負う。縦横決まった数に並べられた机は、放課後になると前後左右にずれていてきれいな列をなしていない。まるで、そこに座る人を縛ることができないというようだ。
「あぁ、彼ですか。鴇守くん、ああいう人がタイプなんですか?」
「違うってわかって言っているよね。悠ちゃん」
「だから、ちゃん付けしないでください。はぁ、ところで鴇守くんはこの後時間が開いていますか? 昼休みのうちに、通り魔事件についていろいろと調べてみましたので、報告をしたいのですが」
「空いてるよっていうより、今のところそれが優先事項だしね。悠ちゃんはさ、事件現場の場所とか全部把握してそうだよね。この辺?」
「はい。寄り道になりますが、仕方がありません。一番新しい場所は、封鎖されているかもしれないので、その前の現場に行きましょう。こうも頻繁に血が流れる出来事があると不安になります」
「うん。そうだね。犯人なら、警察がはやく見つけてくれるといいね」
ホームルーム後の、学校で一番騒がしいこの時間は、一日、拘束されていた分、一気に解放されたような気分になる。部活動禁止令が出ていても、放課後のちょっとした祭り騒ぎは相変わらずの様だ。
上を向いた水道場の蛇口からわずかに水がちろちろりとわずかに零れている。悠姫は、その蛇口をきちんとしめ、蛇口の向きをクリリとただす。水道場から、石鹸が香る。
「えぇ、水上おじさまも早期事件の解決を目指しているのですが、あまり有力な手掛かりがないそうです。もしかしたら、そのうち」
続く言葉は簡単に予想ができた。
二つ隣のこの地は、あの森から離れているし、鴇守たちの住む町に比べ人が断然多い。目立つ行為は、なるべく避けたい。この地でも、「守様」の存在は少なからず知られてはいるものの、祭りの時に登場する存在程度の認識でしかない。長いトンネルをくぐった先にあるこの場所では、町のように思うようにいかないこともある。
「あぁ、わかっているよ。悠ちゃん、僕の出番でしょう」
「はい。その時は、お供いたします」
部活がないというのに、長い筒状の布にくるまれた弓をその細い方に悠姫は、背負っている。
「いやいや。かわいい年頃の女の子が夜一人で歩くのは危険だって」
「ほめてくださってありがとうございます。ですが、私は自分の身は自分で誰かさんと違って守れますので安心してください。心配はうれしいですが、あまり女だからという理由で判断されるのは、嫌です」
顔をしかめ、歩くスピードが気持ち早まる。女だからではなく、悠姫だからだ。たぶん、鴇守は悠姫以外の女の子が夜一人で歩いていても、気にも留めない。気に留めたとしてもそれは一瞬のことで、きっとすぐに忘れてしまう。薄情な人間だろうか。無限に誰彼かまわず情を傾けられるそんな出来た人間なんて幻想だ。
「わかっているって。でも、心配はさせてね。仲良くしている子が、怪我するのは嫌だから」
「わかりました。そういえば、現場には共通点があるようです。一滴の血も流れずに服や腕が切られているようですよ。それと、傷自体は大したものではないそうです」
「一滴の血も?」
「はい。医者の明海さんが、おっしゃっていたので、間違いないかと……今まで、目に留めてはいなかったのですが、明海さんの式が傷口から妖気がわずかながら漂っていると気づいたようです。ですので、もしかしたら今夜にも」
どうやら、明日の授業中は睡眠時間に変り果てそうだ。体罰をされることはないものの、耳元で怒鳴られるのは煩い。同じく、寝ていないはずなのに舟をこぎながらも授業をちゃんと受けている悠姫は本当に偉いと思う。少なくとも鴇守にはまねができない。開け放たれている窓から金木犀が香る。
「被害者は、小学生から高校生までと幅広い割には、未成年が多いという共通点があります」
「ロリコン?」
人の性癖に口を挟むつもりはないが、抵抗できないものに無理やりは良くないと思う。
「性別は男女問わないので、何とも言えませんが。場所の共通点はあまりなさそうですね。時間は夕暮れ、夜、基本的に午後ですね。傷は足辺りが多く思えます。具体的には、脛とか足首とかふくらはぎです」
「足フェチなのかな」
良く引き締まっためりはりのある綺麗な足が、同じ歩幅で目的地へと伸ばされていく。足フェチになら共感できるかもしれない。じっと、足を見ていたのがわかったのか悠姫にはたかれた。
「もう少し真面目にしてください、鴇守くん。いい加減怒りますよ。この事件、はじめは、事件として認識されていなかったそうです。怪我した方も出血が無かったことや痛みが引いていたこともあり、病院に行くこともありませんでした。どこで、傷を作ったのも覚えていないありさまでしたが。だんだんと犯行がエスカレートしていったのか切り口が大きくなり、痛みはないものの病院に行くものや、傷がつけられたその時には痛みがある者もいるようです。それから、スカートが鋭い刃物で一閃されていたため、警察に被害届を出した人もいるそうです。まったく、女の敵です」
はっきりとそういった悠姫のその表情は凛として、やる気と使命感に満ち溢れている。二人はそうして、くすんだクリーム色の校舎を後にした。