第一話 妖の森
松の針のように尖った葉が、パラパラと灰色の路面に落下している。息を吸う度にも濃い草木と土の香が肺に行き渡る。セミの鳴き声は夏に鳴いていた種類といつの間にか、変わっていた。苔とカビの生えた土が、靴底にこびりつく。
鴇守は、おできのようにぼこりと山肌から浮き上がった木の根をひょいと身軽に跨ぎ、山の奥の方へ慣れた足取りで進む。苔のむしった石の上はつるりとして滑りやすいので、少しだけ慎重に乗る。森の葉も、人里にある並木と同じように、いつの間にか色づき始めている。鳥の羽ばたき音に、虫の音、人込みにいるときには聞き取りもしない音たちが、ここでは闊歩している。機械のせわしない動作音もアナウンスやチャイム、絶え間なくしゃべり続けるざわめき声もここにはない。
ここには、純粋に生きる音のみが息づいている気がして鴇守はこの場所にくると自然に息を吸って吐き出せる。窮屈で、囲われた学校という特殊な空間の内では、息を吸うのにも、吐き出すにも気を遣わずにはいられない。学生なんて、異端なものを目ざとく見つけ出し、攻撃する折りの中の哀れな生き物なのだ。
鴇守は、山の中原の立派な切り株に腰を下ろし、一度大きく息を吐き出す。一等大きな木のてっぺんに向かって、学校では決して出さない大声で「ハク」と呼びかけた。心のうちで十ほど数えると、かさりとはずれの音がくだんの木から山へと響いた。もう一度、「ハク」と呼びかけると、濡れ羽色の羽根がひらひらりと舞い落ちてくる。その中の羽を一つ、手でつかんで、夕焼けに翳す。
すぐそばで、ばさりという羽音と同時に、落葉が宙に飛び上り、鴇守の視界を覆う。あからさまに不機嫌な声が、鴇守の耳を打つ。
「鴇、うるさい。そんなに大声で呼ばずともすぐに起きる。ったく、豆腐といっしょに鍋で煮て喰ってやるぞ」
人間と同じような容姿、大きさで、百八十センチほどのおおきな濡れ羽色の翼を持つ、古い書にその存在を記されていた怪異の一つ天狗が今、鴇守の目前にいた。天狗という夢物語のような存在が、眠そうにあくびをし、人間味あふれる仕草でただそこに普通に――――――そこに存在していた。
「はぁ。僕の名前は確かに鴇守だけど、鳥の鴇じゃないよ。だいたいトキ汁って生臭い上に、赤くて気味悪いってこの前、ハクがいったんじゃないか。もう忘れたのか、そうかおまえもついに耄碌したんだな」
「何を? 俺は、まだまだ健康体だ。それに、俺はこう見えても若い個体の方なんだぜ。だいたい、おまえら人間は早く死にすぎだっていうんだ。俺ら天狗を見習って、あと百年くらい生きろよ。おまえらはすぐにボケが始まって、足腰が弱くなって山に上がってこなくなるじゃねぇか」
腕を組み仁王立ちになっているハクに、鴇守は白い目を向ける。ハクが、威嚇するように漆黒の羽を大きく広げたが、その目に諍いの意思がないので軽く受け流す。あいさつ代わりのようなもので、お互い慣れた様子だ。
「人間の寿命は、そんなに長くないって。それに、昔に比べれば長くなっただろ?」
どこか寂しそうな様子に、背負ってきていた風呂敷を、ハクに押し付け、鴇守は乾いた枝を拾い集める。それに、ハクがふっと息を吐きかけるようにして火をつける。人の火と違い、妖の火は、燃やすものの指定ができるため、意図して引き起こさない限り山火事の心配はない。
「ほぉ、今日はおでんというやつだな。貢物に感謝すると、宮子に伝えてくれ」
「あいよ。ばあちゃんに伝えとく。おまえ、本当にばあちゃんには、親切っていうか丁寧だよな。少しはその孫にもそういう態度をとってよ」
人間じゃない癖に、人間である鴇守より器用に箸を操り蒟蒻を口に運ぶハク。彼の正確な年齢は知らないけれど少なくとも鴇守が初めてハクとあったときから、ハクの容姿には微塵も変化も見受けられない。鍋からさつま揚げがまた一つハクの腹の中へと収められる。出会ったときと同じ姿のままのハクに対して、鴇守の目線は今ではハクとかなり近い。
「ふん、おまえ風情が、宮子と並べるわけがないだろう。おまえが、宮子よりも美味なものを献上するなら考えなくもない」
「食い意地はっているよな、ハク。肥っても知らないぞ。やっぱ、おまえと話すの、楽だわ。考えるよりも先にしゃべっているって感じでさ」
「おい。言葉っていうのは大事なんだぞ。前にも言ったと思うが、言霊っていうのがあってだな……」
そういって、がんもどきにかぶりつく。何度もハクに言われた言葉だ、忘れてはいない。だから、その続きはたやすく口にできた。
「一度言葉にしたものは返らないんだろう?」
「そうだ。そして、言霊ってもんは、他者を縛るだけでなく己も縛る危険なもんなんだぞ。とくに、鴇のような存在は言葉に気を付けなくてならんぞ。おまえの言葉には力が籠る」
つるりと滑りやすい卵を潰さずに、絶妙な力加減でつかむとハクは大きな口で丸呑みする。よくのどに詰まらないものだと、感心しながら茜色の空を見遣る。
言葉っていうのが本当に人を縛っているわけではないと鴇守は思う。ただ、それによって生み出される《空気》みたいなものが人を縛っている気がする。鴇守が中学の頃「KY」なんていうアルファベット二文字が流行って、クラス目標に「空気を読んで~」みたいなフレーズが紛れ込んでいた。断れない空気、引き受けなければならない空気、みんな一緒でなければならないようなそんな空気は鴇守が、身を置く社会には満ち溢れている。それに比べて妖たちは、文字通り「言葉」に縛られるだけであって、「空気」に縛られてはいない。確固とした己を持ち行動しているようで、たまに羨ましく思えてしまう。
鍋の中から、はんぺんをひとつ攫い、かぶりつく。むにゅとした感触に、ダシの香りが鼻いっぱいに広がり、噛む度に口の中に美味しさが広がる。
「あぁ! それ、俺が大事にとっておいたやつだぞ。こら、ふざけんな。鴇」
「耳元で喚くな。まだ鍋の中にあるだろう。あぁ、うまい。ばあちゃんの手料理ってほんとうまいわ。なぁ、ハク。この森にいる他の奴らは元気か?」
「無論だ。この俺が束ねているんだぞ。それに、昔に比べて脅威は良くも悪くも少ないからな」
森と共に生きる彼らの居場所は、消えていく。新たに植えられた整った山の中に、彼らの居場所はないのだという。信仰も薄れきって、いまでは出がらし茶のようだ。彼らの数は、徐々に数を減らしている。もし、鴇守の名前にある「鴇」のように人間にきちんと認識される存在だったならば彼らは間違いなく、レッドデータの一部に組み込まれていることだろう。確かな形を持たないっていうだけで、忘れ去られ消えてゆく存在だ。だから彼らは生きるために生きている。存在するために存在し続けているのだ。
「あいつは、生きるために理由がなきゃ生きていけないタイプなのかも」
脳裏に思い浮かぶのは、返却されたテスト結果を見て落ち込む幼なじみの姿。斜め後ろの席から偶然点数が見えたのだが、鴇守から見てもかなりの高得点の結果ばかりだった。それなのに、ひどく複雑そうな顔をしていた。
もっと上の点数が取れたのに、というそんな感じではなく、もっとどろりとした感じだ。それに鴇守は見てしまった。テストをカバンに仕舞うときぐしゃりと握り潰していた姿を……。
「あいつとはだれだ」
不意に声をかけられて、記憶の回廊から抜け出す。のろりとした動作で顔を持ち上げると、にやにやとハクが笑っていた。
「声に出てた?」
「出ていたぞ。それで、あいつとは誰なんだ。ふん、おまえにも対に気になる女でもできたか?」
確かにあいつは、生物学的には女だけど、鴇守は異性として意識して彼女を見ているわけではない。ただ、彼女が顔を曇らせる要因に心当たりがあるくせに、踏み込むことも、声をかけることもできないでいる自分がひどく情けなく感じているだけだ。箸を噛む。
「天狗でも、恋愛話とか好きなんだね」
「種族関係ないだろう。恋愛というのはいい。子孫を残すからな」
真顔でハクは、言うけれど、鴇守の年齢だとそこまでディープなのは、推奨されない。だいたい、責任が取れない。恋だの愛だのいうけれど、この年頃はどちらかというとそういう行為そのものに興味があり、相手は二の次三の次なのではないかと、話を聞いていると思えてくる。
「おまえそういえばキスもしたことなかったんじゃないか」
ハクの言葉に苦い思い出を刺激され、顔をしかめ、思わず口を濁す。できれば消し去りたい記憶というものは誰にでも存在する。だが、そういう記憶にかぎってなかなか忘却の彼方に過ぎ去らず、いつまでたっても脳裏に留まり続けるものだ。
「人間に……ならないけど」
「なら、人外になら有るのか? となりの家の豚猫とか?」
「いや、違う。……ベニだ。飛縁魔の」
それまで面白おかしくからかっていたハクの表情が能面のように一時的に固定される。ぴきりと、ハクの顔に青筋が浮かぶ。口をパクパクとさせながらなにか叫び出そうとしている。それもそのはずだ。男を惑わし滅ぼすと名高い飛縁魔という妖怪に、遊び半分でガキの頃奪われたのだ。確かに、確かに絶景の美女だ。男の理想を詰め込んだかのようなすさまじい美女だ。だが、同時に美しければ女はそれで構わないとか、絶対嘘だと思わされる存在だ。
「それは、不運だな。同時に理解した。おまえに今日まで姫さん以外の、女の影がない理由をな。だが、一つがダメだったからってすべてがそうだと決めつけるのは人生損してるぜ。だいたいな、十人十色っておまえらの言葉にあるだろう? みんな同じ色なんて持ってないんだ。どんなに似せようとしたって地の色がどこかしらで滲むもんだ」
バシバシとたたかれた背中がひりひりと熱を持つ。
「まぁ、確かに。そうかもしれないなぁ。たまには、ハクもいいこと言うんだな。ちょっとばかし見直したよ」
「おい。人をなんだと思っているんだ」
「人じゃないだろうが、ハク。だいぶ日が暮れてきたな。僕は、そろそろ帰るよ。ばあちゃんも心配するだろうし」
「そうか。気をつけて帰れよな」
薄暗い中山を歩くと危険だらけだが、ハクが用意した鬼火の入った提灯がゆらりゆらりと足元を照らしてくれる。下駄で山中を歩くことができないので、さすがに運動靴だが、袖を通しているのは着物だ。基本的に鴇は、祖母の影響もあって私服は、和服だ。制服を脱いで、こっちのかっこうで山に入るのは、なんというか気分の切り替えみたいなものなのかもしれない。うまく言葉にできないが、学生服に押し込められていた鴇守という存在が解放されたかのような感覚なのだ。
それとも、この鎮守の森にいるからだろうか。人の世と異なる世界との境界線であるこの地で人と怪異の懸け橋となりこの森を守るのが、森下家における「守」の字を許されたものだけなのだ。広大な敷地を持つこの森を守るために先祖も家族も代々守り続けてきた。時に、政界へパイプを繋ぎ、高速道路や線路のためにこの森が削られることを防ぎ、時に、この森の怪奇現象のうわさを聞いて興味本位で入ってきた人間にそれとなく注意を促す。
この森を守るために、森下の家のものだけでなく妖共も己の住処を守るために協力してくれた。
「うぅーん、今日も平和だねぇ~」
何処かにクリの木があるのか落ちていたイガを軽く蹴り飛ばす。弧を描いて地に落ちて、山肌にそって転がり落ちていくイガを見ながら、大きく伸びをする。かさりと落ち葉が擦れる音を引き連れて、大きな狸がぬっと顔を出す。おおきくうるりとした目と鴇守の目がかち合う。数秒ほど見つめあうと、ポンとコルク栓が抜けるような音が辺り一帯に響く。
「ぼうや、また来たんかい。お役目、ごくろうさん」
役目、そう役目なのだ。鴇守がここに来るのも、人ならざる彼らと言葉を交わすのも役目。どうしてこう、人は役目ってやつに縛られているのだろう。学生という役目、息子という役目、男という役目、「守様」の役目……時間の経過と共に役目ってやつは増えたり減ったり、変わったりする。息子という役目に、夫という役目とか、父親という役目が加わったりするまで、もしかしたらあと数年後かもしれないのだ。
「シイばあさん、こんばんは。役目っていうよりも、おすそ分けみたいなもんですよ。うちのばあちゃん、ハクにめちゃくちゃ甘いですから」
時々不安になる。「守様」という役目でなく、「鴇守」という、笑ったり泣いたり怒ったりする、一個人を人間にも妖怪にも見てもらえているのか不安になって胃が痛くなる。自分も、誰かを役としか見ているのではないかとふと振り返ると怖くなる。
「そうかい、そうかい。宮子の初恋はハクレンさまだからね。ぼうやたち守り人のおかげだよ。ぼうやは、まだひよっこだからね。わしらが支えてあげないとねぇ。ふぅ~、いまでこそ、なくなったが、昔はわしらのような妖を時の権力者の栄光のあかしとしてむやみやたらと倒されたりしたものよ。人はわしらを絶対的悪として扱いよったなぁ」
絶対的悪、それはその存在そのものの善悪なんて関係なく、周囲のものがそう認識することでなりえてしまうものだ。それは、一方的な暴力だ。狭い世界、情報の偏った世界で、決めつけられ、張り付けられたレッテルはその先ずっとついて回る。
そして、鴇守に張られた「守様」というラベルは、はがすことができない。名づけられたその時から張り付いたシールを無理やりはがそうとすればどちらにも傷が残るのだ。
明日から毎日朝6時に次の話を投稿予定です。7話まで、予約投稿済みです。
読んでくれてありがとうございます。