伝わるもの、伝わらないもの(中)
仕方なく、一度部屋に戻ることにする。
この時間であれば、もうベッドメイキングも終わってるはずだった。
そうすれば、とりあえずこの危険物をチェストに放り込んで、無かったことにしてしまえば良い。そしてその後、どうするか考えよう。
それはそれで良い考えのような気がした。というより、むしろ何故そう考えなかったのか不思議だ。やはり俺は相当動揺しているらしい。おのれアルク。許さない。
「あ、お姉様」
が、そこにはアイラが居た。
「……アイラは何を?」
「何をって……お掃除ですよ?」
何を今更、みたいな感じでかなりキョトンとした顔で返された。
うん、その通りだった。確かにそうだ。
「ああ……そうだな。ありがとう」
それしか返しようが無かったが、かなり釈然としない。
こうした状況にも、少し慣れてきた。
こうした、というのは、つまり誰かが俺の世話をする、ということだ。これはこれで、かなり今更な話ではあるけれど、これまではそれでも自分の中でお客様という自覚があって、そのせいで「相手の思うようにさせたほうが無難」と、むしろこちらが譲歩している気持ちでいられた。
だが、今はもう少なくともお客様ではない。
だからこそ、自分の事をしてもらう事に、かなりの抵抗感が残った。着替えとか、そして今アイラが当たり前のようにしている、俺の部屋の掃除とかだ。
完全なる当主であるところのレオンだったら、或いは俺がその立場だったら、それは寛容できたかも知れない。何しろ、それを養っているのが他ならない当主であることは明白だったから。
でも俺はどうなんだろう。正直、何もしていない。というか、何もすべきことが見当たらない。日がな一日、屋敷の中をぶらぶらしているだけの存在になっていた。
そうかといえば、俺以外のメイド連中は、当然のように忙しくしている。パルミラも、今や第二軍駐屯所まで通いで忙しくしている有様だった。
詰まる話、一言で言えば、いたたまれない。
その上、あちこちに俺が顔を出すと、忙しいにもかかわらず、みんながそれなりに対応してくれるものだから、いよいよ申し訳ない気持ちになってしまう。例えば、庭でボンヤリしていると、誰かがお茶出ししてくれる、とか。
とはいえ、最近はそれが慣れてきた。
というより、俺が考え方を変えるようにした、というべきか。
この館は、そういうシステムだ。そうすることで、或いはそうされるように成立している。その中にあって、俺はそうされるという役割を持っている。だから、精々そうされるような振る舞いをするのが、俺の役目というわけだった。
それは、傲慢な考え方なのだろう。以前の俺なら、若しくはこういう世界を知らない、普通の人には、間違いなく傲慢と映るに違いない。
だが、ここは「こういう世界」だ。その中にある一己の俺は、この世界を受容しなければならない。最早片足どころか、両足も身体も頭も突っ込んだ状態なのだから。
慣れるしか無い。
「どうしたんですか?お姉様。珍しい」
「なにが?」
動揺を抑え、答える。手に持った包みを、さり気なく背中に隠した。
「いえ、何時もだったらこの時間、お庭に居ると思ったのですが」
言われてみると、そうかもしれない。
何しろすることがあまりないので、一日の行動パターンが最近決まってきてる気がする。確かに、この時間ごろは、庭で日向ぼっこしながらお茶だ。思ってみれば、それは宛ら老人のようでもある。一刻も早く、何かすることを見つけるべきなのかも知れない。
とはいうものの刻まれた記憶は、刹那的な生き方しかそこに無い。それはクリス・オリジナルもはっきり肯定していた。牧歌的な環境の中、一体何をすればいいのかさっぱりわからないのだ。
これなら、レオンに再々度奴隷にされたほうがマシなのかも知れない―――と思った瞬間、後ろ手に持ったそれが急に重たくなった気がした。いやいやいやいや、そうじゃないから。そうじゃない。
奴隷はともかく、旅は良かった気がする。何時かまたどこかへ行ってみたい―――
「お姉様?」
ハッと我に返る。どうにも思考が明後日に行っていたようだ。
「あ、すまん。えーと、アレだ。暇なんだ。何かすること無いかなあと、ね」
咄嗟にそう言ったら、はぁとため息をつかれた。その様を見て、俺はしまったと口を押さえた。そのせいで、背後のそれがバサッと床に落ちた。無論、中身がまろび出た。
「……」
「……」
アレだ。この瞬間をどう表現すれば良いかと言えば、天使が通ったとでも言っただろうか。何の、何処の諺だったか。曖昧だ。
たっぷり十分、時間が過ぎた後、アイラは何かしらの結論に達したらしく、口を開いた。
「ええと、お姉様。あとで私にも触らせてくださいね?」
アイラらしい、返答だと思った。多分そこに至るまでに1、2個抜けてる。ただそこを辿るに、今のところそれは最も真っ当で、優しい推測だと言えた。
何にせよ、暇だった。
とはいえ、暇だとは言えない。先ほどしまったと口を押さえたのは、そういう事だ。
アイラだからこそ、そういう態度になったが、詰まる話それは、俺とそれ以外の立場の話だった。
要するに、俺は暇であり、そしてみんなはヒマではない。だから、俺はヒマだなんて言葉は言えない。
それでも暇なものはヒマなので、暇ヒマ言ってたら、ある日アイラに言われた。暇なのはお姉様だけだと。
確かにそうだった。アイラ自身は気にしないが、周りは気にするかも知れない。だからもっと気をつけなさい。そんな注意だった。尤もだと思う。アイラのくせに。
故に俺は、暇だなどという言葉を封印し、そして自らやることを探して彷徨う毎日だった。
実際少し前まで―――そう、少し前まで俺もそれなりに忙しかったと思う。記憶は、そう語っている。
貴族的振る舞いの練習。そんな確かに日々行っていたことだ。それは本当に大変で、結構辛かったと思う。つまり、実際忙しかったのだ。
そしてそれは、今現在行ってはいない。
何故かと言えば、その必要が無くなったから。
何しろ、その方面のエキスパートである、レオンとアーリィの記憶がここにある。正直、これ以上学ぶ必要が無い。
とはいえ、トワの講義や、身体にすり込むカレンの練習は、それなりに意味がある。俺の基本ベースはクリスなので、どうしてもそっち寄り……つまり、男寄りなわけで。
とか思っていたのだが、トワのとんがりすぎた知識はともかく、淑女の嗜みとやらは、案外身体に馴染んでしまっていた。
これはちょっとした脅威だった。
いや、俺が3番目のクリスだから云々っていう話じゃない。それはもう考えないようにしてる。吹っ切ったというほどには、完全に割り切れているわけではないけど、素直にレオンのいう言が正しいと思えるし……そして実感できるからだ。
それでは、何を戦慄したのかといえば、それこそが、俺がアルクに相談した話に繋がる。
言ってしまえば、それは記憶の問題だった。
「あら、クリス様」
食堂手前で、カレンに声をかけられた。
例によって、最年長メイドであるカレンの立ち振る舞いは、優雅だ。それは全く見事に余裕がある。アーリィは完璧なメイドだが、カレンは言ってみればメイドらしいメイドだった。
「ああ、カレン。丁度良かったわ。お茶に付き合って頂戴?」
瞬間、俺は自分を切り替える。完全無欠のお嬢様。そういう設定へと変更する。
やや上から目線。少し生意気。
そういう設定だ。
「畏まりましたわ、クリス様。何時もので宜しいでしょうか?」
「ええ、お願い」
「直ぐに、準備致します」
そんなクリスは、別に誰かの記憶をそのまま使っているわけではない。記憶のモザイク。重ね合わせ。切り貼り。その結果、生まれたもう一つの俺だ。
かといって、人格が別なわけでは無い。単純にただの戯れによる、演技だった。
そう、思っている。
ある意味、ここで行われていることは、ごっこ遊びとも言える。
秋雲広がる青空の下、芝生もまだ青々しい庭で、殆ど毎日行われるそれは、そう言うに相応しいとも思う。
別に、カレンの授業を延長しているつもりはない。それは、戯れ。遊び。暇つぶし。
そして、きっとこれから必要になるだろう俺のもう一つを、何時でも切り替えられるように、定着させるための努力だった。
勿論、そんな事は、レオンには言ってない。
レオンに言えば、きっとそのままで良いと言うに違いないから。現実がどうあれ、きっとレオンはそう言うだろう。それには確信がある。正直、それは、甘くて痺れるような確信だった。
だからこそ、俺はそれに溺れるわけにはいかない。
「本当に高くて、気分の良い空ね」
青の絨毯。真っ白いテーブル。白い茶器。風は西に回る秋風。まるで身体を突き抜けるよう。
空は果てしなく高く、そして遠くまで続く細雲。
空を見上げて、大きく深呼吸をする。それだけで世界のいっぱいを身体に感じる。そしてそれは、不思議に俺をノスタルジックな気分にさせる。
季節というのは、不思議だ。
クリスだけで考えても、少なくとも22回もそれを経験している。それは丁度場面場面を均等に切り取れる、節目のようなものでもある。そうした節目に季節があって、何時だってその空を俺たちは見ている。空は同じだから、その下にあった出来事を、俺たちは、同じ空の下、同じ風の中、同じ臭いによって、思い出してしまう。
積層する、記憶。俺の中にあるその数は、5つ。
それが俺の中で、今少しずつ再生される。それは全く夢のようで、何処か現実味が無い。でも間違いなく確かなもので……そして同時に、確かでは無かった。
「そうですわね。クリス様、こういう空は、色んなものを思い出してしまいますわ」
どうやら対面に座るカレンも、同じ様子だった。もちろん、俺のそれとは少しだけ違うのだろうが、それでも心に描かれるものは、同じ系統のものなのだろう。
そして俺よりも、それは余程確かなものに違いない。
ティーカップに視線を落とす。そしてそのまま持ち上げて、その香気を愉しむ。香りが強い。今の季節なら、ぴったりの選択なのだろう。
ここは本当に、さすがカレンだ。こうした機微に本当に良く気がつく。
「嗚呼、そうね。本当に」
適当とも言える追従の相槌を打ち、紅茶を嗜む。
だからこそ、俺はこうしたごっこ遊びを遠慮無くカレンに付き合って貰っている。カレンだったらきっと、そういう俺の気持ちも、きっとわかって貰えると思っているからだ。
だから俺は、その包みをそっとテーブルの上に置いた。
「あら、それは何ですの?」
当然のように、それを見咎めカレンは問うた。ある意味茶番なのだが、こういうのも一応貴族的駆け引き、というものだろう。
ただまぁ、ちょっと巫山戯が過ぎたかも。見せるそれを思えば、真面目にしたい。
無言で、包みを開く。なるべくには、表情に出さずに。
「まあ―――素敵」
その返答は、およそ俺が想像していたものとは全く見事に違った。斜め上とは、こういうことを言うのだろうか。
驚きを通り越し、一回りして冷静になってしまった俺は、そこから始まるカレンの妄想ともいえるような話を、わりと真面目に聞いてしまった。
それはちょっと―――いや、かなり刺激的過ぎて、最終的に俺はフラフラと放心状態。
そういえばカレンは、俺が初めて城に行く際、なんか凄い事を言い出したことを、全部終わってから俺は思い出した。
そのまま夕方になった。夕方になると、レオンが城から戻ってくる。
秋に入って少し日が短くなっているので、今、レオンが帰ってくるのは日が没するか、没さないかのギリギリの頃になる。もし帰らない場合はちゃんと伝令が来るので、俺たちはそのどちらかを待つことになる。
勿論、それまでは夕食もお預けだ。
「レオン様、帰ってきたよ!」
そんな俺は、例のモノを手に、一人部屋で唸っていた。正直昼に言われたカレン物語が余りにもアレだったので、結局手に持つそれを一体どうしたらいいのか、いよいよわからなくなってきた俺だった。
そんな最中、玄関を見ていたらしいラクロウが、声を上げるのが聞こえた。
レオン帰ってきた。帰って来ちゃった。
びくっと身体を震わせて、でもすることはわかっているので、それを部屋に放りだし、玄関に急ぐ。
玄関まで出ると、既にメイド達は勢揃い。いつの間に帰ってきていたのか、その端にパルミラの姿もある。俺が最後だったらしい。慌てて、玄関の前に立つ。
その正面に、黒塗りの小さな馬車が滑り込むように止まった。危ういタイミングだった。
そして馬車から降りてくるレオン。夕日も落ちた為ランプに煌々と照らされた玄関先で、白の軍装が映える。何時もながら絵になる男だった。
「お帰りなさいませ!御館様」
一斉にメイド、パルミラが頭を下げる。ここでは俺は、頭を下げない。
レオンがその頭を垂れるメイドの前を歩いてきて、そして眼前にまで来たとき漸くに軽く頭を下げる。
「お帰り、レオン」
ただ、口調は素のままだ。
実のところ、このお迎えがこうした形に定着するまでに、結構紆余曲折あったりする。
最初は、メイドに並んで挨拶しようとしたら、これはあっさりとアーリィに止められた。曰く、お嬢様は特別なので、一緒に並ぶのはおかしいとの事だった。
なので、今度は玄関先で迎えて、「お帰りなさいませ」などと言ったら、今度はレオンが嫌がった。そんな言葉を、俺が使って話しかけてくるのが嫌ということらしい。
なので最終的に、この形に落ち着いた。
そもそも何故俺は、律儀にレオンを迎えているのだろうという疑問も、確かに少しある。
ただ、そうするとレオンが嬉しそうなので、それで良いかと自分を納得させた。
「ただいま、クリス」
場に似合わず、如何にも庶民的な遣り取り。それが、レオンのこだわりなのだろう。
ただ、もう一つのこだわりに関しては、未だに慣れない。
影がかかるほどには俺に近付いたレオンは、俺を抱き寄せ顔を近づける。それはまったく自然な仕草で、俺はそれを受け入れ目を閉じる。
「ん……」
……恥ずかしいんだよ。何時も。
開いた眼を、メイド達に向ける事はしない。以前そうして、かなり後悔したからだ。