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7 早朝


 まだ日も昇りきらぬうちに、三人は弐班の屯所を発った。残すべき言伝はきちんと残したし、黒豆の事も一応崇に頼んでおいた。

 後憂の芽は摘んでおいたが、紫呉の胸中は漣だっている。

 兄の言い分に納得はしている。だがこれから支暁殿に籠りきりになるのかと思えば、やはり面白くない。

 もやもやとした気持ちを溜息に変え、紫呉は歩を進めた。

 朝上がりの空気は多湿であったが、まだ温度が低いため不快ではなかった。

 里の中央森には朝靄が立ち込めている。木立は陽光を遮り、森は暗い。下生えを踏みしめる足元に、枝葉の影が落ちた。

 森を抜けると、開けた地がある。

 その中央に支暁殿、左右には左影舎・右影舎。それらをぐるりと取り囲むようにして、七官舎があった。

 急に明るくなった視界に、紫呉は目を細めた。夜雨に濡れた甍がきらきらと光っている。棟飾りの瑠璃細工が、一際眩しく煌いていた。

 紫呉は一息ついた。足をとめた途端、汗がじわりと滲んだ。

「あ」

 支暁殿の門戸の側に、蛙の姿を発見する。親指ほどの大きさの蛙だ。駆け寄って、掌の中に閉じ込めた。

「どうすんだよ、それ」

 影虎は訝しげな顔で、紫呉の掌を見つめた。蛙は掌の中でぴょこぴょこと動いている。

「兄様に差し上げたら、どのような反応をされるのかと思いまして」

 ちょっとした意趣返しだ。由月の言い分は最もだし納得もしているが、素直に言いなりになるのは何となく面白くない。これくらいの嫌がらせなら、許してくれ……は、しないか。

「……やめておいた方が賢明ですかね」

 思いもよらぬ方法で報復されるような気がする。

「由月様を撃退したいなら、いくらでも薬処方するわよ」

 ぐっと拳を握って、須桜が言った。大きな瞳が楽しげに輝いている。

 影虎が唸りながら首を捻った。

「いや、でもあいつは蛙ごときじゃびびらん気もするけどなあ。いっそ素っ裸になって逆立ちして由月の部屋行くとか」

「ついでにその蛙、頭に乗せてっちゃえば?」

「何なら俺も協力するぜ。脱ぐのも辞さんぞ」

「あ、じゃああたしも。蛙も辞さんぞ」

 二人は乗り気だ。由月が慌てふためく様子を見てみたいのだろう。

 紫呉は蛙を頭上に乗せた。が、蛙は解放を喜んですぐに跳んでいってしまった。

「……まあ驚いては下さるでしょうが、楽しまれるような気もします」

 それでは駄目だ。楽しませては意味がない。

 結局、何もせずにいるのが一番賢明なのだろう。残念ではあるが真理だ。

 袖口で汗を拭い、支暁殿の門戸をくぐる。玉砂利を踏み、母屋に向かった。

 磨き上げられた廊下に、丸窓から光が差し込んでいた。丸窓の外には緑の庭が見える。

 草履を脱ぎ、兄の私室へと向かう。

 支暁殿は、しんと静まりかえっていた。衣擦れの音すら鮮明に聞こえる。

 紫呉は無意識に息を潜め、足音を殺して歩いていた。

 影虎も須桜もそれは同じだったようで、顔を見合わせ笑い合う。

「こうも静かだとね」

 言い訳じみた紫呉の声も、低く小さな声だった。

 それに笑っていた二人だが、ふと表情を消して、動きをとめた。その理由を察し、紫呉も少しばかり身構える。

 遠くから、どたばたとうるさい足音が近づいてきていた。足音は左影舎の方から響いてくる。

 二人は、見るからに嫌そうな顔をしていた。

 足音の持ち主が、廊下の角から姿を現す。

「お前たちどこも怪我はしていないか今なら青生がいくらでも診てやるぞ!」

 目の下に隈を貼り付けた青生は、廊下を踏み鳴らしながらこちらにやって来た。

 あいもかわらず元気だ。若干気圧されながらも、紫呉は青生に会釈する。

「おはようございます。それから、お久しぶりです」

「久しいな紫呉!」

 がっと両手を掴まれ、ぶんぶんと上下に振られた。

「もー、兄貴朝からうるさい」

 耳を塞ぐふりをした須桜が、呆れた顔をして言った。

「青生には朝も昼も夜も関係ないぞ」

「あたし達には関係あるの。てか、またお風呂入ってないでしょ」

 須桜の言う通り、青生は髪も肌もどことなく薄汚れていた。医療着にしみついた薬草・薬品臭にまじって、汗のにおいもする。

「風呂に入る暇が有るなら薬をいじる」

「もー……」

 須桜が片手で目元を覆って仰向いた。

 青生と接しているときの須桜は、普段よりも少しばかり大人びて見える。ついでに常人に見える。不思議なものだ。

「由月の代わりを務めるらしいな可哀そうに」

 紫呉に向き直った青生が、にっと笑った。

「何やら気合の入った脅迫状というのかそんな物が届いていたからなだが安心しろいくらでも青生が治療してやる」

「不吉な事言うなっつーの」

「おお影虎静かだからどこぞの誰かにとっ捕まって喉でも焼かれたのかと思っていたぞ」

 元から大きな目を更に丸くして、青生は皮肉を吐いた。

「んなヘマしねえよ。お前と喋ると疲れるから黙ってたんだよ」

「相も変わらず礼を失した奴だな不愉快だぞ」

「うっせ。何の用だよ」

「薬草園に行く途中に渡殿からお前たちの姿が見えたから来ただけだ」

 特に用は無い、と言い残して青生は外へと駆けていった。

 まるで嵐のようだ。

 その背中を見ながら、紫呉はぽつりと呟く。

「……相変わらず、力強いというか勢いの有るというか」

「良く言えばな」

「ただのアホよ」

 二人は半眼になって、低い声で漏らした。

 何だかんだで紫呉は青生と付き合いが薄いが、二人はそうではない。

 須桜は彼の妹だし、影虎は歳が近いし付き合いも長い。自分と比べ、実験台にされた回数も違うだろう。手厳しくなるのも頷ける。

「……何か無駄に疲れた。由月に会うとか、もっと疲れにゃならんってのに」

「確かに何か緊張するわよねえ」

 影虎が肩を落として言い、須桜もうんうんと深く頷いた。

 紫呉も同意を返そうとした、その時だ。

「お前は本当、礼を失しているね」

 突然の声に、三人は三者三様にびくりと肩を跳ねさせた。

 ぎしぎしと強張る首を巡らせ、紫呉は後方を向いた。

 そこには懐手をした兄がいた。差し込む陽光を後光代わりにした様は、まるで一枚絵のようであった。

 身につけた単は地味な色合いではある。だが浮かぶ同色糸での縫い取りは、微細で豪奢だった。

 非の打ち所が無い堂々とした態度に、無条件に緊張を誘われた。

「……お久しぶりです、由月(ゆつき)兄様」

 首に次いで体も、ぎしぎしとゆっくり向き直らせる。

 十も歳の離れた兄は、形の良い唇に優しげな笑みを浮かべて頷いた。首肯に合わせて、背に流した夜色の長い髪がさらりと揺れる。

 同じく笑みを湛えた母譲りの濃紫の目は、涼やかでありながら優麗であった。

 図らずも兄の陰口を叩きかけていた紫呉には、その目が自分を責めているように思えて、どうにも落ち着かなかった。

「もう少し遅くに来ると思っていたんだが。いや、結構だ」

 由月は懐手を解いた。手にした扇を逆の掌に打ちつけ、軽くぱんと音を鳴らす。

 その音に、思わず背筋が伸びた。

「……つか、こんな朝っぱらから外で何してたんだよ。散歩か? 爺かってんだ」

 気まずさを誤魔化すかのような影虎の皮肉に、由月はわざとらしく秀眉を上げた。

「残念な男だな。礼を失している上に口も悪い、風流も解さない。実に残念だ」

「うっせ」

 吐き捨てて、影虎は紫呉の背後に隠れた。とは言え、紫呉よりも影虎の方が体格に優れているから、隠れきっていないのだが。

 同じく須桜も、さりげなく紫呉の後方に身を寄せた。気後れしているようだった。

 くつくつと笑い、由月は閉じた扇で丸窓の外を指した。

「見なさい。雨露に濡れた木々は何とも美しいじゃないか。側で愛でたいと思うものだろうに」

 由月は優美な手つきでゆっくりと扇を広げ、笑んだ口元を隠す。芝居がかった仕草が嫌味ではなく、むしろ似合っていた。

 弟とはいえ、自分が同じ事をしても全く絵にならないだろう。滑稽なだけだ。それ以前に多分、扇を広げるだけで一苦労しそうである。

「兄様、それで僕は如何すればよろしいのでしょう」

 話を逸らすがてら、紫呉は本題をふった。

 由月は、ツイとこちらに視線を滑らせる。

「来なさい」

 紫呉たちを追い越し、由月は自室へと足を運んだ。香がふわりと匂う。

「……あいかわらず気障な奴」

 面白くなさそうに、影虎が小さく呟いた。

 その声が聞こえているのか聞こえていないのかは知らないが、由月は振り返る事無く廊下を歩んでいく。

 ぴんと伸びた背筋に、上品な足運び。立居振舞はとことん洗練されている。

 相変わらず我が兄ながら見事なものだと、紫呉は萎縮すると同時に感心した。



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