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6 夜語


*****************************************


 紫呉は昔、夜を恐れる子供だった。自身を取り巻く、濃密な暗さが恐かった。

 相手の顔も見えない。姿もあやふや。このまま暗闇に呑まれてしまい消えてしまうでは、と思っていた。

 それにきっと自分もいつかはこの暗がりと一緒くたになって、誰からも見えなくなってしまうのだと思い込んでは勝手に恐怖していた。

 幼い頃、泣きながら兄の寝床に逃げ込む度に、月の名を冠する者がそれでどうすると窘められた。

 震えてしがみつく紫呉の背を撫で、兄は言ったものだ。

 何も恐れなくて良い、夜は暗闇じゃない。

 そう言って空を指差した。空には満月が照っていた。

 懐かしく思いながら、紫呉は縁側から庭に降りた。

 今夜は月が見えない。雨はやんだものの、雲はまだ厚く垂れ込み夜空を覆い隠している。

 幼い頃は、新月の夜も恐かった。月が無くなってしまったと、しょっちゅう涙していた。

 しかし今は、姿が見えずとも月は変わらず存在している事も分かっている。

 寝間着の裾を汚さぬように尻端折る。懐から煙草の箱を取り出し、一本咥えた。

 燐寸を片手で擦るも上手くいかず、ぽきりと折れてしまう。自分の不器用さは筋金入りだ。紫呉は諦めて両手で擦った。

 息を吸いながら煙草に火をつけ、燐寸を振って火を消す。独特のにおいが香った。

 煙を肺まで深く吸わぬよう、紫煙をくゆらせた。

 紫呉は殉死者の碑の前で足を止めた。碑の前には煙草の箱が供えてある。雨に濡れていた。

 中を確認する。中の煙草まで濡れていた。

 勿体ない事をした。雨が降る前に気がつけば良かったのだが。

 紫呉は濡れた箱をどかし、懐から取りだした新しい箱を供えた。咥えていた煙草の灰を落とし、線香立てに突っ込んで立てた。

 虫の囀りが聞こえる。ここしばらく日中は蒸し暑い日が続くが、夜になれば涼しいものである。多く含んだ湿気は不快だが、風はひいやりとしていて心地良かった。

 そう言えば、いつから自分は夜が怖くなくなったのだろう。おそらくは十かそこらの頃からだったように思う。

 それまでは、兄の言葉に支えられてきた。

 恐くなったら、月を思い描きなさい。桔梗の花を思い描きなさい。葉、茎、花弁。順に思い描けば、落ち着いてくるから。

 その言葉に何度慰められたか知れぬ。

 兄の慰めを必要としなくなった頃には、自分の姿を隠してくれる夜は味方にもなるし、同時に害なす者の姿を隠す敵にもなると分かっていた。

 そしてその頃は、翔太の言葉が支えだった。

 恐いなら、お前の好きなものを思い描けば良い。そうしたら、心強く思えるから。

 今も昔も、これからもずっと、自分はその言葉を頼り続けるだろう。

 碑に刻まれた矢岳翔太の名は、夜闇に濡れて見えずにいる。だが見えぬだけで、そこに名が刻まれている事は確かだ。

 紫呉は、先程備えた煙草の箱から一本取り出して咥えた。片手で燐寸を擦る。だがやはり上手くいかない。

 紫呉に煙草を教えたのは翔太だ。酒と賭け事も教わった。何なら女も教えてやるよと翔太はにやにや笑ったが、それは遠慮した。

 翔太は片手で燐寸を擦るのが上手かった。それが何だか格好良く思え、自分も真似をしたのだが上手くできず、悔しい思いをしたものだ。

 今も彼を真似て片手で擦ろうとするが、やはり徒労に終わった。数本を無駄にしたところで諦め、紫呉は両手で燐寸を擦った。

 片手で風よけを作り、煙草に火をつける。燐寸の灯火を受けて、手首の水晶の数珠が赤く光った。

 今度は深く吸い込んでから、大きく吐き出した。紫煙が眼前をゆらゆらと立ち上っていく。燐寸を振って火を消した。

 体の芯が冷えるような、頭にかかった霞が晴れるような、不思議な心地がした。

「濡れんぞ」

 背後からの声に、紫呉は内心驚いた。だがその驚きを飲み込み、何でもないような顔をして振り返る。

 影虎は腕に伝鳥を乗せていた。紫呉と同じように、裾を尻端折っている。洋袴の裾も折り返していた。

「また雨降りそうだしさ」

「……そうですね」

 影虎の言うとおり、湿気が増してきている。肌がべたついた。

 いつから居たのだ、と問おうとしてやめた。気配に気付いていなかったのだと、自分から申告する必要は無い。

 つくづく自分は、二影の前では見栄を張りたがる。

 自身に呆れつつ、紫呉は煙草の火を消して線香立てに押し込んだ。

「どなたです?」

「由月」

 影虎の腕から伝鳥を移すなり、伝鳥の嘴から兄の声が勢いよく飛び出した。

「紫呉、明日一番に帰ってきなさい」

「……はい?」

「私に同じ事を二度言わせるんじゃない。明日一番に帰ってきなさい、と言ったんだ」

 唐突な命令に、紫呉は瞬く。影虎も目を丸くしていた。

「理由を伺っても?」

「破天から不埒な手紙が届いたのさ。奉納舞の時に、私を殺してやる、とね」

 由月の声は愉快そうだった。

「だから、帰ってきなさい。私の代わりをお前が務めるんだ」

「って、おい。そりゃひどくね? 紫呉なら殺されても良いって?」

 影虎が伝鳥の首を掴み、己の方を向けさせた。

「おや影虎。まだ居たのか」

「いちゃ悪ぃか。亮ねえも青生も赤官もいるんだし、別にお前が舞っても問題ないだろうよ」

「私に意見するとは上等だね」

「そりゃ意見もするっつの」

「お前の言い分を借りるなら、紫呉が舞ったところで問題は無いだろうに。お前も須桜も赤官もいるのだから。それとも、護る自信が無いのかい?」

「んなわけねえだろ」

「なら構わないだろうに」

「けどさあ……」

 言い募ろうとする影虎を紫呉は制した。

「兄様、お言葉ですが僕も疑問に思います。僕が代理をせねばならぬ程に危険なのですか?」

「ああ。手紙は中々の念の入れようだ。それもあちらこちらに届けられている。襲撃予定地かもしれない。違うかもしれない。分からないが、人手を割く必要がある。つまりは櫓周辺に配置する赤官の数は減る。壱班だって、当日は里中の警備で忙しいからあまり当てには出来ないさ」

 由月は一旦言葉を切り、深く息を吸った。

「弐班の仕事を言い訳にはさせないよ。お前たち駐在隊員の他にも隊員はいる。そちらに任せれば良い。鳥獣隊の仕事も同じくだ。柊親子と橘兄弟に任せれば良い。屯所の猫だって元は半野良だろう、放っておいても平気だろうよ」

 断る理由を片端から潰していく由月に、紫呉は言葉が継げないでいた。

「弐班にも鳥獣隊にもお前の代わりはいるが、如月の代わりが出来るのはお前しかいないんだよ。父上にして頂くなどもってのほかだ。父上を危険に晒すわけにもいかない。分かったなら帰ってきなさい」

 言うだけ言って、由月は一方的に会話を終えた。伝鳥の瞳から、ふっと輝きが消える。

 報酬をねだる伝鳥を宥めつつ、紫呉は心の底から大きな溜息をついた。

「……面倒臭い……」

「本音すぎるだろ」

 苦笑しながら、影虎が紫呉から伝鳥を受け取った。

「だって、舞の稽古とか今から始めるわけでしょう? あと禊もするわけでしょう? 面倒臭い。心底面倒臭いです」

「お前正直なあ」

「兄様の言う事は最もですが、逆らう気も有りませんが、……あ゛ー…………」

 影虎は肩を揺らして笑った。

 それにしても、本当に面倒である。

 指先の動き一つ足運び一つ注意せねばならぬような、面倒な舞など練習したくない。向いていない。

 この湿気の多い時期に、あんな装飾過多な衣装など着たくない。面も暑い。

 禊だって、暇で暇で仕方がない。禊場に日がな籠りっきりなど堪ったものではない。

 縁側から部屋に戻る。伝鳥に褒美を与える影虎を横目に、ぐったりと座り込み紫呉は項垂れた。

「あ、影虎。お先ー」

「おー」

 ふわりと石鹸の香りが漂う。洗い髪を浴布で拭う須桜を見上げ、紫呉は疲れた声で言った。

「須桜、帰る準備をしておいて下さい」

「へ? 何で?」

「兄様のご命令です」

 禊となると支暁殿に籠りきりになるので、今追っている最中の破天を自ら追えない。他の弐班の面子を信用していないわけではないが、多少なりとも不安というか、放り出されたような気分になる。

 拓也の一件も直接関われなくなってしまう。だが兄の命令には逆らえぬ。

 それに、兄の言い分は確かに最もだ。自分が舞うのが一番良い。もし何か有ったとしても、里への損失はさして無い。

 となれば、うだうだ言っていても仕方がない。面倒なことに変わりは無いが、前向きに捉えるのが賢明だろう。

 そう思うがしかし、気分は重い。兄に恨み言をぶちまけたい気分だった。

 ……十倍になって返ってきそうなので、絶対にやらないが。




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