第四十五話:帰還!天使の成長は尊すぎる!?
音速の壁を突破し、周囲の景色が光の帯となって後方へ流れていく猛烈な速度。カイル兄様が馬車の周囲に展開した何十重もの流体力学的な魔導防壁がなければ、乗っている私たちは愚か、馬車そのものが空力加熱によって燃え尽きていたことでしょう。
アイリスが手綱を握り、狂気に満ちた笑い声を上げながら馬に魔力を注ぎ込み続けること数時間。私たちは、通常の馬車であれば数日はかかるはずの王都からハルトマン領までの道のりを、お茶会のケーキが冷めるよりも早い時間で走破いたしました。
すべては、私の愛しき弟、テオドールが待つこの聖域へと一秒でも早く帰り着くためです。
雪が静かに舞い落ちるハルトマン領。その広大な敷地の中心にそびえ立つハルトマン邸の正門が、私たちの帰還を歓迎するように重々しい音を立てて開かれました。
馬車が玄関前のロータリーで急停止し、摩擦によって発生した煙が晴れるよりも早く、私は馬車の扉を蹴り開けました。
冬の冷たい空気が頬を撫でますが、私の感覚は既に研ぎ澄まされ、屋敷の奥から微かに漏れ出してくる、あの懐かしくも愛おしいミルクとベビーパウダーの至福の香りだけを捉えておりました。
「リリアたぁぁぁん! よくぞ、よくぞ王宮のゴミ共を綺麗にお掃除して帰ってきた! さあ、パパのこの鍛え上げられた大胸筋に飛び込んでおいで! そして今すぐ、テオ君にその雄姿を見せてやるんだ!」
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、お父様が感極まって号泣しながら、両腕を大きく広げて突進してまいりました。その背後では、シオン兄様が「リリア、よくやった。俺も山を一つ滑り台にし終わったところだ」と剣を掲げて出迎え、お母様も優雅に微笑んでおります。
しかし、私はそのお父様の暑苦しい抱擁を、かつての戦場で培った音速の歩法『縮地』を用いて、風のように無音で回避いたしました。
「……お父様、邪魔ですわ。私の視界を物理的に遮らないでくださる?」
お父様が勢い余って玄関の石柱に激突し、屋敷全体がドスンと揺れましたが、私は気にすることなく広間の中央へと一直線に視線を向けました。
そこに、彼がいたのです。
私が学園へ発つ前は、まだハイハイからつかまり立ちへの移行期で、ふらふらと頼りない様子だった私の小さな天使。しかし今、私の目の前にいるテオは、私が夜な夜な編み上げた極軟シルクの特製ベビー服に身を包み、自らの短い足で、しっかりと大理石の床を踏み締めて立っておりました。
テオは、玄関に現れた私の姿をその碧眼に映し出すと、太陽の光を集めたような眩しい笑顔を浮かべました。そして、短い両手を精一杯に広げ、トコトコと、しかし確かな足取りで、私に向かって真っ直ぐに駆け寄ってきたのです。
「ねえね! おかえり、なしゃい! ねえね、おしょい!」
その瞬間、私の全身に、かつて経験したことのないほどの特大の雷が落ちました。
学園に行く前も、単語を繋ぎ合わせることはできていました。しかし、今の言葉は違います。ただの音の羅列ではありません。テオ自身の明確な意志で、私が帰ってくるのを待ちわびていたという感情を、はっきりとした文章に乗せて私へと放ったのです。
私のいない数ヶ月という短い間に、テオはこれほどまでに立派に、そして愛らしく成長していたのですわ。
私は日傘を放り投げ、床に膝をついて、駆け込んできた小さな体を両腕でしっかりと、しかし壊さないように優しく抱きしめました。鼻腔を満たす、甘く香ばしい極上の匂い。腕の中に収まる、柔らかく温かい命の鼓動。
「……テオ。ただいま戻りましたわ。お姉様は、ずっと、ずっとあなたに会いたかったですわ……」
私がそのふっくらとした頬に頬ずりをすると、テオは私の首に小さな腕を回し、私の耳元で、この世界のあらゆる神託をも凌駕する、とびきりの追撃を囁いたのです。
「ねえね。テオ、ねえねに、じゅっと会いたかったの。せかいで、いちばん……だいしゅき!」
――リリア・ハルトマン、二度目の人生における最大の幸福の致死量を更新。
私の頭の中で、何かが心地よい音を立てて弾け飛び、理性のタガが完全に消滅しました。
瞬間、私の全身から溢れ出した聖なる魔力が、物理的な光の奔流となってハルトマン邸の全域を包み込みました。それは破壊の力ではなく、純粋な慈愛と多幸感のみで構成された、奇跡の具現化です。
あまりの魔力の密度に、屋敷の窓の外で降り積もっていた冬の雪が一瞬にして蒸発し、枯れていた庭園の木々が芽吹き、季節外れの純白の百合の花が一斉に狂い咲き始めました。ハルトマン領の中心だけが、永遠の春のような暖かな光で満たされたのです。
「あああああっ! テオ君が! 天使たるテオ君が、比較概念という高度な知性を獲得した上で、このパパを差し置いてリリアたんを『世界で一番』に選んだぁぁぁっ! ぐふっ……!」
背後で、現実を受け止めきれなかったお父様が、血の涙と本物の血反吐を同時に吐き出して床に崩れ落ちました。
「リリア……アンタ、ズルいわ。お母様、まだその言葉をセットで言われていませんのに……っ! 後でテオちゃんを洗脳、いえ、優しく教育し直さなければ……!」
「テオがリリアを一番に……っ! くそっ、俺の切り崩した山では足りなかったというのか! 次は星を、星を一つ砕いてプレゼントするしかない……!」
お母様が悔しさにハンカチを噛みちぎり、シオン兄様が嫉妬のあまり自らの腕を斬り落としかねない勢いで剣を振り回しております。
「……すげえ。この家、冬なのにあっついな。それよりリリア、約束の肉三倍、どこにあるんだ? 腹減って死にそうなんだけど」
そんな家族の狂騒など一切意に介さず、新人メイドのカレンだけが、マイペースにお腹を鳴らして私のスカートの裾を引っ張ってきました。
しかし、今の私には、血を吐くお父様も、騒がしい兄たちも、空腹の野生児も、一切関係ありません。
私はテオを抱き上げたまま、あまりの多幸感に自分自身の体重を制御できなくなり、二人でふわりと床から数センチ浮き上がって、空中でクルクルと回りました。
「あははっ! ねえね、しゅごーい! おそら、とんでるー!」
あの子の無邪気な笑い声が、ハルトマン邸の高い天井に、天界の音楽のように響き渡ります。
学園での下らない権力争い、王家との退屈な駆け引き、そしてかつて私が剣聖として生きた血塗られた過去。そんなものはすべて、この小さな唇から紡がれた「だいしゅき」という一言に比べれば、宇宙の塵以下の無価値に等しいのです。
ハルトマンの絶対序列。その頂点に立つのは間違いなく私、リリア・ハルトマンです。そして、その私をたった一言で完全に支配し、喜んで跪かせることができるのは、世界で唯一、この腕の中にいる愛しき弟、テオドールだけなのです。
(見ていなさい、テオ。お姉様、たった今、固く決意いたしましたわ)
あなたがこれほどまでに私を愛し、満面の笑みを向けてくれるのなら。私はこの国を、この世界を、あなたがいかなる不自由も感じず、いかなる悲しみも知らずに生きていけるための、完璧な楽園に作り替えて差し上げますわ。
雪が花に変わった窓の外、王都の混乱を余所に、ハルトマン邸は理不尽なまでの愛と、テオの成長への喜びに満ち溢れておりました。
最強の元剣聖、リリア・ハルトマン。彼女の常軌を逸したお掃除と、規格外の過保護の物語は、テオが発する言葉の数だけ、より一層、苛烈に、そして美しく続いていくのでした。
【第二部:王立アカデミー編 ―完―】
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3部は少しお時間いただきますので一旦完結とさせていただきます。
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