第四十一話:初陣!戦闘メイドは圧倒的!?
ハルトマン邸の午後は、本来であればこの世のいかなる場所よりも平和で、そして神聖な時間となるはずでした。なぜなら、私のかわいい天使、愛しき弟であるテオが、私の膝の上で健やかな午睡の時を迎えていたからです。
窓から差し込む柔らかな冬の陽射しが、テオのサラサラとした金糸のような髪を撫でています。
規則正しく上下する小さな胸、微かに開いた桜色の唇から漏れる、天使の羽ばたきよりも清らかな寝息。私はそのあまりの尊さに、自分自身の呼吸すらも騒音になるのではないかと恐れ、極限まで魔力を練り上げて自身の生体活動を一時的に仮死状態に近いレベルまで低下させておりました。
私の周囲では、お父様とシオン兄様、そしてカイル兄様が、壁際に並んで直立不動の姿勢を保っていました。
彼らもまた、テオの寝顔という名の奇跡を前にして、瞬き一つすることすら罪悪感を覚えているのか、目を血走らせながらひたすらにその光景を目に焼き付けています。
アイリスに至っては、テオが発する二酸化炭素を専用の魔導具で採取し、後で家宝として保存するための準備を無音で進めておりました。
これこそが、ハルトマン家の日常。
テオという絶対的な中心点に向かって、家族全員が狂気的なまでの愛情と過保護を注ぎ込む、完璧に調和された聖域の姿です。
私は膝の上の柔らかな温もりを感じながら、この平穏が永遠に続けばいいと、心から願っておりました。
しかし、その至福の静寂は、屋敷の外から響き渡った無作法な鉄靴の足音と、拡声魔法による下俗な怒声によって、無惨にも引き裂かれることとなったのです。
「――逆賊ハルトマン家一同に告ぐ! 我らは王宮直属、第一聖騎士団なり! ジュリアン殿下を害し、王家の威信を泥で汚した大罪人リリア・ハルトマン、およびその家族を拘束しに参った! 速やかに武装を解除し、門を開けよ!」
鼓膜を劈くような金属的な声が、ハルトマン邸の敷地内に響き渡りました。
その声が空気を震わせた瞬間、私の腕の中で、それまで気持ちよさそうに眠っていたテオが、不快そうに小さく眉を寄せ、「……んぅ」と寝返りを打ったのです。
やれやれ。彼らは、自分の命というものが、一体何本の細い糸で繋がっているのかをまったく理解していないようですわね。
屋敷全体の温度が、比喩ではなく物理的に氷点下まで下がったのを肌で感じました。
それは私の怒りだけが原因ではありません。階下や周囲で待機していたお父様たちの殺意が、強力な冷却材となって屋敷中を駆け巡った結果です。
「……あのゴミ共。テオ君の、テオ君の安らかな眠りを……。俺の全存在を賭けて、あの鉄屑共を分子レベルまで分解してやる……!」
お父様がギリギリと奥歯を鳴らし、その巨大な拳から闘気の炎を噴き上げています。
シオン兄様は既に愛剣を引き抜き、瞳孔を開いた状態で「斬る、斬る、斬る、すべて斬り刻む……」と呪詛のように呟き始めていました。
「リリア。あの連中の配置と装備、それに拡声魔法の残滓から計算したよ。僕の演算によると、彼らはあと五秒後には屋敷の門を魔法で破壊するつもりだ。……もう、広範囲殲滅魔法でお掃除していいかな? 灰すら残さないから、環境には優しいはずだよ」
背後の影から、無機質な殺気を纏ったカイル兄様が現れました。
彼の眼鏡は、既に複数の爆破魔法の照準を外敵に合わせて、青白く光っております。このままでは、ハルトマン邸の前庭がクレーターになってしまいますわね。
「皆様、お待ちになって。……ちょうどいいですわ。あの子の初陣、ここで済ませてしまいましょう」
私は立ち上がろうとする家族たちを極寒の視線で制止し、手早く、しかし極上の優しさをもって、テオを寝室の特製防音結界の中へと移しました。
これで外で爆発が起きようと、お城が崩れようと、テオの耳には心地よい子守唄しか届きません。
テオの安全を完全に確保した私は、廊下で所在なげに木の枝を弄んでいる新米メイドのカレンを呼び寄せました。
彼女は、昼食の時間が遅れていること、そして外の騒音のせいで自分がくつろげないことに、隠しきれない不機嫌さを漂わせています。
「カレン。外に、テオの眠りを妨げる不潔な羽虫たちが集まっていますの。彼らはどうやら、この屋敷の平穏を土足で踏みにじるつもりのようですわ。貴女、ハルトマン家のメイドとして、最初のお仕事、玄関掃除をしてきなさい」
「……あいつら、倒せばいいのか? 倒したら、報酬は?」
カレンは面倒くさそうに首を掻きながら、私の顔を見上げました。その瞳には、忠誠心など微塵もなく、ただ野生の生存本能と食欲だけが宿っています。
「今日の晩御飯を、お肉三倍にして差し上げますわ。最高級の霜降り肉を、貴女の胃袋が破裂するまで焼かせてあげます。ただし、条件があります。私のドレスや屋敷の壁を汚さないよう、屋敷の敷地の外で、速やかに、塵一つ残さず終わらせること。よろしいかしら?」
「……肉、三倍。しかも最高級。……やる。全部ぶっ飛ばす」
カレンの瞳に、獲物を前にした飢えた野獣の光が宿りました。彼女はアイリスに着せられたばかりのメイド服の裾を無造作にたくし上げると、窓枠に足をかけ、迷いなく二階から飛び降りました。
彼女が着地したのは、門の前で威張り散らしている聖騎士たちの真っ只中でした。
突然空から降ってきた小柄なメイドの姿に、第一聖騎士団の面々は一瞬呆気を取られたようです。
「なんだ、貴様は! ハルトマン家のメイドか? 子供がしゃしゃり出てくるとは、リリア・ハルトマンもついに狂ったか! どけ、小娘! 我らの剣のサビになりたくなければな!」
リーダー格の男が、巨大な剣を抜き放ちながらカレンに向かって怒鳴りつけました。しかし、カレンはその脅しに一切動じることなく、ただ手に持った一本の枯れた木の枝を無造作に構えました。
「……うるさい。お前ら、肉の邪魔だ」
その言葉が終わるよりも早く、カレンの姿がその場からかき消えました。
「なっ……!?」
鈍い衝撃音が連続して響き渡りました。
次の瞬間、聖騎士たちが誇る最高級の鋼鉄の鎧が、ただの木の枝の突きによって紙細工のように凹み、衝撃波で数人の屈強な騎士たちが後方へと吹き飛んでいきました。彼らは何が起きたのかすら理解できないまま、白目を剥いて地面に転がっていきます。
私はテラスへと移動し、扇を片手にその一方的な蹂躙劇を優雅に見下ろしました。隣では、お父様が「おお……! あの野生児、俺のシゴキに耐えただけあって、動きがより凶悪になっているぞ! だが、テオ君への愛では絶対に負けんがな!」と、少しだけ誇らしげに戦慄しております。
「カレン、その角度では返り血を浴びますわ。もっと左斜め四十五度から入り、重心をさらに低く落としなさい。無駄な力は不要です、獲物の骨の継ぎ目、力の流れの理を断ちなさい」
私のアドバイスが上空から戦場に響き渡ると、カレンは「わかった!」と短く応え、その動きをさらに洗練させていきました。
もはやそれは、聖騎士団対ハルトマン家という戦いではありません。飢えた猛獣が、無力な草食動物の群れを一方的に捕食するだけの、残酷で効率的なお掃除の時間へと成り下がりました。
「ば、化け物だ! なんだこのメイドは! 剣が、魔法が、まったく当たらないぞ!」
「ひぃぃっ! 来るな、来ないでくれぇ!」
先程までの威勢の良さはどこへやら、誇り高き第一聖騎士団の面々は、泣き叫びながら逃げ惑うただの烏合の衆と化していました。
私は彼らを氷のような一瞥で見下ろしながら、ゆっくりとテラスの手すりに手をかけました。
私の紫の瞳には、カレンの期待以上の奮闘への満足感と、それすらも遥かに凌駕する、底なしの怒りが渦巻いておりました。
テオの神聖な午睡を不快な音で妨げた王家への、決して消えることのないお掃除欲求です。
王宮、そして国王陛下。貴方たちは、決して触れてはならない逆鱗に触れてしまったのです。
私の大切な弟の眠りを脅かす存在は、この世界にいかなる形であれ残しておくわけにはいきません。
私は逃げ惑い、次々とカレンの木の枝の餌食となっていく聖騎士たちから興味を失い、静かに空を見上げました。
私の心は既に、この不愉快な事態の元凶である王宮を、徹底的に、そして物理的に再構築するための計画立案へと向かっているのでした。
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次回お楽しみに。




