第七話:爆走!最速のハイハイ!?
立つ。それは人間が万物の霊長として、地を支配するための第一歩だ。
だが、前回の「仁王立ち事件」を経て、俺は一つの重大な事実に直面していた。
(……足が、もつれる。一歩が、出ない……!)
立つだけなら魔力で骨格を固定すれば可能だ。だが、そこから『歩く』となると話は別である。複雑な重心移動、筋力の連動、そして何よりこの未熟な三半規管。今の俺が無理に歩こうとすれば、魔力の負荷に耐えきれず、自分の重さで自分の骨をへし折りかねない。
剣聖の魂を持ってしても、生物学的な限界という壁は厚かった。
俺はリビングの絨毯の上に転がされながら、じっと自分の手のひらを見つめた。
今の俺に必要なのは、優雅な二足歩行ではない。まずはこの低い視界を、圧倒的な速度で移動するための『機動力』だ。
(歩くのが無理なら、這えばいい。……四肢があるのだ。これを駆動輪として、魔力で加速させれば……!)
俺はニヤリと(ヨダレを垂らしながら)笑った。
魔力による身体強化。それを一点に集中させるのではなく、四肢に分散させ、なおかつ「循環」させる。
前世の俺が、重厚な鎧を纏った騎士の間をすり抜ける際に使っていた『縮地』の歩法。それをこの赤ん坊のハイハイに転用するのだ。
(練れ……。右手のひらから右足の裏へ。左足の裏から左手のひらへ。魔力の渦を作り、摩擦を極限まで殺せ……!)
俺はうつ伏せになり、四つん這いの姿勢をとった。
狙うは、リビングの反対側にある、ゼフが脱ぎ捨てた皮の手袋。あの中には、微かにだが「戦場の鉄と血の匂い」が染み込んでいる。修行のモチベーションを高めるには格好の標的だ。
(加速……開始!)
ドォッ! と、俺の内側で魔力が爆発した。
もちろん、放出はできない。その全エネルギーは、俺の小さな手足の細胞へと叩き込まれる。
シュバババババババッ!!
絨毯の上を、一筋の銀光(実際には白いおむつを履いた赤ん坊)が駆け抜けた。
(は、速い……! 視界が流れる! これだ、この感覚だ!)
かつての戦場で、風を切って走ったあの感覚。
魔力によって強化された俺の手足は、もはや乳児のそれではない。ピストンの如き正確さと速度で床を叩き、俺の体を前方へと弾き飛ばす。
俺はリビングの端から端までを、わずか一秒足らずで移動した。
(クハハハ! 見ろ! これこそが剣聖のハイハイだ! 誰も俺の尻を捕らえることはできん……!)
俺は調子に乗って、リビング内を複雑な軌道で走り回り始めた。
ソファの下を滑り込み、テーブルの脚を支点にして急旋回。
魔力を纏った俺の手足は、摩擦を無視し、重力すら欺く。
その時。
「……あ、あれ? 今、何か白いものが通り過ぎなかったかい?」
リビングの入り口で、ゼフが首を傾げた。
彼は午後の訓練を終えたばかりで、手に汗を拭くためのタオルを持っていた。
(おっと、親バカ一号の帰還か。……見せてやろう。貴様の娘が、ただの赤ん坊ではないということをな!)
俺はわざとゼフの足元を狙って加速した。
彼が反応する前に、その股下を潜り抜けてやる。これぞ、最強の盾に対する最高の示威行為。
シュパッ!!
俺は風になった。
ゼフの視界には、おそらく「残像」すら残らなかったはずだ。
俺は完璧な軌道でゼフの足元を通り抜け、背後の壁際でピタリと停止した。
(……どうだ、ゼフ。今の動き、貴様の動態視力でも追えまい?)
俺はドヤ顔で振り返った。
しかし、そこにいたのは、驚愕で固まる戦士の姿ではなかった。
「…………リ、リリア……?」
ゼフは、カタカタと震えていた。
その目には、見る見るうちに熱いものが込み上げ、ダムが崩壊するように溢れ出した。
「リリアが……! リリアが風になったあああああああっ!! なんてことだ! なんて速さだ! 僕には見えたぞ、愛の力で時空を超えようとする僕の天使の姿が!!」
(……は? 愛の力? 時空?)
ゼフはそのまま床にダイブし、俺を捕獲しようと必死に腕を伸ばしてきた。
「おいで、リリア! パパのところへおいで! その光の速さで、パパの胸に飛び込んでくるんだぁぁ!!」
(ゲェッ、捕まる!? これだけの機動力を持って、親バカの抱擁から逃げられんとは……!)
俺は再び魔力を練り、全速力で逃走を開始した。
ゼフもまた、王国最強の騎士としての意地か、あるいは純粋な親バカの本能か、四つん這いになって俺を追いかけてくる。
「ははは! 待て待てぇ〜、リリア〜!」
「だぁー! ばぶぅー!(来るな! この暑苦しい盾野郎!)」
リビングを縦横無尽に駆け抜ける、最強の騎士と最強の赤ん坊。
俺はテーブルの上を跳ね、壁を蹴って天井近くまで飛び上がった。だが、ゼフもまた、驚異的な反射神経で俺の着地点を先読みしてくる。
「逃げ足も速いねぇ! 流石は僕の娘だ! 将来は隠密騎士団の団長かな? それとも、風の聖女かな!?」
(どっちも違う! 俺は剣聖だ!)
シュバババババッ!
ズサァァァァッ!
俺たちの爆走によって、リビングのラグは捲れ上がり、クッションは宙を舞い、高級そうな花瓶がガタガタと揺れた。
「あらあら、あなた。何をしているの?」
冷ややかな、だが絶対的な魔力の圧を伴った声。
部屋の入り口に、エリナが立っていた。
彼女の手には、焼きたてのクッキーが乗った皿がある。
「え、エリナ……! 見てくれ! リリアが……リリアのハイハイが、音速を超えたんだ!」
「……そう。それでお部屋をこんなに散らかしたのね?」
エリナの目が、スッと細くなった。
瞬間、リビングの空気が氷点下まで下がった(ような気がした)。
ゼフは瞬時に「最強の騎士」から「叱られた大型犬」へと姿を変え、その場に正座した。
「……申し訳ありませんでした」
(……チッ。ママには勝てないか、この男)
俺もまた、これ以上動くのは得策ではないと判断し、ゼフの脱ぎ捨てた皮手袋の上にちょこんと座り込んだ。
エリナは溜息をつきながら俺の方へ歩み寄ると、俺をひょいと抱き上げた。
「リリアちゃん、すごいわね。パパをあんなに翻弄するなんて。……でも、あんまり無理をしちゃダメよ? あなたの体は、まだとても繊細なんだから」
エリナは俺の額に優しくキスをした。
その瞬間、彼女の唇から温かな魔力が流れ込み、俺の酷使した筋肉を優しく癒していく。
流石は元宮廷魔術師。俺が魔力による身体強化を行ったことを、彼女は確実に見抜いている。だが、それを咎めるのではなく、ケアしてくれる。
(……この女、やはり底が知れん)
俺はエリナの腕の中で、大人しく喉を鳴らした。
「リリア……。パパは、お前の成長が嬉しくて、つい……」
正座したまま、しょんぼりと肩を落とすゼフ。
だが、彼はすぐに顔を上げ、目に新たな決意の光を宿した。
「よし! これからはリリアの特訓メニューを考えよう! この速度、この旋回性能……。これはもう、ハルトマン流防衛剣術の新たな境地、『動く要塞』として育てるしかない!」
(……変な名前をつけるな。俺は俺のやり方で強くなる)
ゼフは立ち上がり、俺に向かって拳を握りしめた。
「リリア! 明日からは、庭でパパと一緒に走り込みだ! パパがお前を追いかけるから、全力で逃げるんだぞ! いい訓練になるはずだ!」
(……結局、追いかけっこがしたいだけじゃないか)
俺はパパの熱苦しい視線を受け流しながら、エリナの焼いたクッキーの甘い香りに鼻をひくつかせた。
爆走ハイハイ。
その圧倒的な速度は、家族に大きな衝撃と(パパの変な)期待を与えた。
俺の脚力は、この日を境にさらなる進化を遂げていく。
いずれこの速度に、前世の「一撃」が乗ったとき。
世界は、ハイハイする赤ん坊の前に跪くことになるだろう。
(……まあ、まずはこのクッキーをどうにかして一口掠め取るのが、今の俺の『最速』の使い道だがな)
俺はエリナの指先を甘噛みしながら、次の『爆走』の機会を虎視眈々と狙うのだった。
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次回お楽しみに。




