第三十二話:鏡視!己の矮小さを知るがいい!?
不敬な第一王子がアイリスの手によって「清掃」されてから数時間。寄宿舎のサロンには、再び私が編み物を進める微かな音だけが響いておりました。
「……ふぅ。少々、不純物が混じってしまいましたわね。テオに贈るマフラーに、あのような下俗な男の記憶が紛れ込むなど、あってはならないことですわ」
私は、編みかけのマフラーに指を這わせ、込めていた魔力を一度だけ「純化」させました。一瞬、マフラーが紫の光を放ち、周囲の空気が清浄なものへと書き換えられます。
すると、再びサロンの扉が、今度は騒がしく、そして騎士たちの金属鎧が擦れ合う音を伴って開かれました。
「――いたぞ! あの無礼な女を捕らえろ! 王子への暴挙、万死に値する!」
現れたのは、顔を真っ赤に腫らし、先程までの恐怖を怒りに塗りつぶしたジュリアン殿下。そして、彼が連れてきたのは、学園の警備担当ではなく、彼個人の近衛騎士たちでした。
私はペンを……いえ、編み針を休めることなく、冷ややかな視線を一瞥だけ向けました。
(……やれやれ。一度命を拾ったというのに、自ら奈落へ飛び込んでくるとは。この国の教育はどうなっているのでしょう。お父様の厳格さを爪の垢ほどでも分けていただきたいものですわね)
「殿下。……まだ、お掃除が足りませんでしたかしら?」
「黙れ! 貴様が何らかの卑劣な魔道具を使ったことは分かっているのだ! さあ、膝をつけ! 謝罪し、僕の所有物となることを誓えば、命だけは助けてやる!」
近衛騎士たちが、私を包囲するように剣を抜きました。
彼らの放つ殺気は、一般の生徒に比べれば鋭いのでしょうけれど――かつて宿敵ゼフ・ハルトマンと三日三晩打ち合った私からすれば、夏の日の羽虫の羽音よりも頼りないものです。
「……鏡、はございますかしら?」
私は唐突に、優雅な声で尋ねました。
「な……鏡だと? 何の話だ!」
「殿下。貴方は今、ご自分がどのような『顔』をされているか、ご存知なくて? 己の器も知らず、ただ血筋という名の飾りを背負い、届かぬ星に手を伸ばす……。その浅ましき姿、一度客観的にご覧になった方がよろしいかと思いまして」
私は、右手を静かに宙へ掲げました。
魔力による攻撃ではありません。それは、元剣聖アルスが到達した、空間そのものに「真実」を映し出す術理。
――ッ!!
ジュリアンの目の前の空間が、水面のように揺らぎ、一枚の巨大な「鏡」を形成しました。
しかし、そこに映し出されたのは彼の姿ではありません。
「……な、なんだ、これは……っ!? 景色が……世界が、壊れて……っ!」
鏡の中に映し出されたのは、燃え盛る戦場。
天を裂く巨大な斬撃、山を穿つ一撃、そして――その中心で、ただ一振りの剣を杖代わりに立ち尽くす、伝説の剣聖の「残影」。
私が前世で見てきた、この世の真理、圧倒的なまでの「個」の武。
そして、その傍らで無邪気に笑う、黄金の魔力を纏ったテオドールという名の「絶対的な才能」。
鏡から放たれる圧倒的な「存在の格」の違い。
それは物理的な重圧を超え、ジュリアンの魂を直接、冷酷に、そして丁寧に磨り潰していきました。
「殿下。これが、私の生きる世界。そして、私が守るべき光ですわ。……貴方のその『王家の誇り』とやらは、この光景の前で、塵一つほどの重みがあるとでもお考え?」
「ひ……、あ、あぁぁぁ…………っ!!」
ジュリアンは、鏡に映る「世界の深淵」に当てられ、膝から崩れ落ちました。
近衛騎士たちもまた、剣を握ることさえ忘れ、その場に平伏して激しく嘔吐しています。彼らにとって、私の見せた「真実」は、人の正気を保てる許容量を遥かに超えていたのです。
私は指を鳴らし、鏡を消し去りました。
「……己の矮小さを知る。それは、人として成長するための第一歩ですわ。殿下、貴方には少々、劇薬すぎたかしら?」
私は再び椅子に座り、何事もなかったかのように編み物を再開しました。
床には、もはや動くこともできない「敗残兵」たちが転がっています。
「アイリス。……二度目ですわよ。次は、この方々の存在そのものを、王宮の戸籍から『お掃除』する必要があるかもしれませんわね」
「御意にございます、リリア様……!! ああ、なんて慈悲深い……! 相手に己の無力さを自覚させ、その魂を救済されるとは! これこそがハルトマン家の真の教育方針ですわね!」
影から現れたアイリスが、もはや物言わぬ肉塊となった王子たちを、どこかへ「搬送」していくのを見届け、私は満足げに頷きました。
(テオ。……見ていましたか? お姉様、また一つ、この学園を綺麗にしましたよ。……あのような、自分の顔さえ鏡で見られないような弱い男になってはいけませんわ。あなたはただ、私の愛をそのまま鏡として、世界で一番美しく笑っていれば良いのですから)
窓の外には、静かな夜の闇が広がっていました。
ハルトマンの絶対序列。
それは、権威という名の虚飾を剥ぎ取り、魂の深淵を突きつけるという、最も残酷で最も美しい「鏡視」によって、誰にも越えられぬ壁を学園に築いたのでした。
「……さて。明日の朝食は、セレスティア様たちにテオの『寝返りの際の空気抵抗』について、三時間ほど再講義して差し上げましょうか。彼女たちも、もっと深くテオを理解したいはずですものね」
私は、テオへの底なしの愛を編み針に乗せ、静寂の中で一針一針、世界の理を書き換えるように編み進めるのでした。
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次回お楽しみに。




