第二十七話:共鳴!離れたテオのイヤイヤ期!?
深夜の王立アカデミー。
女子寮『薔薇の宮』の302号室は、昨晩の「テオ様崇拝講義」によって魂を抜かれたルームメイト二人の、規則正しい――というよりは、生存を確認するのがやっとのような微かな寝息に包まれておりました。
私は、窓辺に置かれた文机に向かい、テオへの七通目の手紙を書き終えたところでした。
万年筆を置き、月光に照らされた自身の左手首に視線を落とします。そこには、愛しき弟・テオドールの左腕にあるものと対をなす、銀のブレスレットが鈍い光を放っておりました。
(……テオ。今日は良い子で眠りにつけましたか? お姉様は、あなたの寝顔を想うだけで、この退屈な学園生活のすべてを赦すことができますわ)
私が慈愛に満ちた溜息をつき、ブレスレットに指先で触れようとした、その瞬間でした。
――ッ!!
心臓を冷たい氷の棘で貫かれたような、鋭利な衝撃が全身を駆け抜けました。
左手首のブレスレットが、生き物のように脈打ち、赤黒い不吉な光を放ち始めます。それと同時に、私の脳内に直接、物理的な破壊を伴う「絶叫」が響き渡りました。
『――あ、あぁぁぁぁーーーーーーっ!! ねぇ、ねぇ! やだぁぁぁーーーっ!!』
(……な、なんですの!? この、天を裂き地を穿つような絶望的なまでの我儘は……!)
それは、魔力による共鳴。
ハルトマン邸に残したテオが、今、まさに「自我の爆発」――世に言う『イヤイヤ期』という名の神罰を執行している証でした。
一般の幼児であれば、ただ床に転がって泣き叫ぶ程度のことでしょう。しかし、私の魔力を注ぎ込まれ、ハルトマンの血を色濃く引き、一歳で音速を越えたあの怪童にとっての「イヤイヤ」は、周辺一帯の物理法則を書き換える災厄に他なりません。
ガタガタガタガタッ!!
寮の部屋全体が、地震のような激しい震動に見舞われました。
テオのブレスレットに封じ込めていた私の魔力が、あの子の溢れ出す「不機嫌」によって限界まで引き延ばされ、数百キロの距離を越えて私に「鎮圧」を求めているのです。
「ひ、ひぃっ!? また、またですかリリア様ぁぁ!!」
「今度は何!? 天変地異!? それともリリア様の逆鱗に触れる不届き者が現れたのですかっ!?」
震動でベッドから転げ落ちたセレスティア様とベアトリス様が、泡を吹いて叫んでおります。
「……静かになさい。これは私的な用件ですわ。……テオが、少々『ぐずって』いらっしゃるだけです」
「ぐずっている……!? 部屋の壁に亀裂が入っていますわよ!? 本棚が倒れそうですわよ!?」
私は彼女たちの悲鳴を無視し、床に結跏趺坐して目を閉じました。
意識を加速させ、ブレスレットを通じて、遥か彼方のハルトマン邸へと精神を飛ばします。
視界が切り替わります。
そこは、ハルトマン邸のテオの子供部屋。……いえ、かつて子供部屋だった場所でした。
天井は消失し、壁は放射状に砕け、中心では黄金の魔力オーラを全身から噴き上げた二歳の天使が、真っ赤な顔をして泣き叫んでおりました。
『ねえね! ねえねが、いないのぉぉーーー! やだぁぁぁーーーっ!!』
テオが地団太を踏むたびに、ハルトマン邸の堅牢な基礎がミシミシと悲鳴を上げ、庭の噴水が衝撃波で蒸発していきます。
周囲では、王国最強の『盾』であるお父様が、「テオ君! パパじゃダメか!? ほら、パパの首を好きなだけ絞めていいぞ!」と半泣きで抱きつこうとしては、テオの無意識の斥力で吹き飛ばされておりました。
お母様のエリナも、かつてないほどの真剣な表情で、邸宅が崩壊しないよう何重もの結界を張り続けておりますが、テオの純粋な「イヤイヤ」は、その禁忌の術式さえも紙屑のように引き裂いていました。
(……やれやれ。お父様もお母様も、甘すぎますわね。あの子のこれは、もはや物理現象ではなく『魂の訴え』。……私が直接、お仕置き……いえ、子守りをして差し上げなくては)
私は精神世界の中で、ゆっくりとテオの前に立ちました。
学園の寮で座っている私の本体からも、凄まじい「姉の慈愛(という名の重圧)」が放たれ、寮全体を沈黙させます。
「テオ。……お静かになさい」
私の言霊が、銀のブレスレットを通じてテオの意識に直接叩き込まれました。
泣き叫んでいたテオが、ピクリと動きを止め、虚空を見上げます。
『……ねえね? ねえね、なの?』
「ええ。あなたのお姉様ですよ。……テオ。夜中にこれほど騒いで、お父様とお母様を困らせるなんて、悪い子にはお姉様の『抱擁』を差し上げなくてはなりませんわね?」
私は精神の手を伸ばし、テオの黄金の魔力を、元剣聖としての圧倒的な「意志の力」で上から力技で押さえつけました。
テオから放たれていた破壊の奔流が、私の魔力に触れた瞬間、温かな光へと浄化されていきます。
『あぅ……。ねえね……。さみしいの。ねえねが、いいの……』
あの子が震える声でそう言った瞬間、私の冷静な「剣聖」としての心に、壊滅的なダメージ(愛しさ)が走りました。
いけませんわ、リリア。ここで甘やかしては、あの子の自制心が育ちません。
「わかっております。お姉様も、今すぐ学園を消し飛ばしてあなたの元へ飛んでいきたいくらいですわ。……でも、我慢なさい。良い子で待っていられたら、冬休みにはお姉様が、あなたの気が済むまで『ほっぺを吸わせて』あげますから」
『……ほんと? ぜったい?』
「ええ。ハルトマンの、そしてリリア・ハルトマンの名に懸けて」
私は精神世界の中で、テオの小さな頭を優しく、しかし抵抗を許さない絶対的な圧力で撫で下ろしました。
テオの魔力が、急速に収束していきます。あの子は満足げに「あうぅ……」と小さな声を漏らすと、そのまま床の瓦礫の上で(お父様が差し出した高級羽毛布団を無視して)すやすやと眠りにつきました。
――ふぅ。
私は意識を学園の自室へと戻しました。
左手首のブレスレットの輝きが消え、部屋の震動も収まりました。
「…………」
深い静寂。
目を開けると、そこには床に這いつくばったまま、泡を吹いて白目を剥いているセレスティア様とベアトリス様の姿がありました。
どうやら、今の「遠隔鎮圧」の際に漏れ出した私の魔力にあてられ、彼女たちの精神は臨界点を超えてしまったようです。
「……あら、お見苦しい。淑女たるもの、弟の寝かしつけ程度の魔力圧で気を失うものではありませんわよ?」
私は扇を取り出し、優雅にパタパタと仰ぎました。
しかし、私の指先はまだ微かに震えておりました。
テオのあの「さみしい」という言葉。それは、かつての私が戦場で感じたどんな孤独よりも、私の心を激しく揺さぶるものでした。
(……冬休みまで、あと数ヶ月。……長すぎますわね)
私は立ち上がり、再び文机に向かいました。
今書いたばかりの手紙を破り捨て、新たな便箋を取り出します。
(テオ。……お姉様は、決意しました。あなたがこれ以上寂しがらないよう、私がこの学園で行うべき『お掃除』を倍速で終わらせることにいたしますわ。……待っていてくださいね。お姉様が帰る頃には、この王国そのものをあなたの遊び場として整えておいて差し上げますから)
ペンを走らせる私の瞳には、テオへの底なしの愛と、それを妨げるすべての障害を粉砕せんとする、剣聖としての苛烈な光が宿っていました。
窓の外では、夜明けの気配が近づいておりました。
ハルトマンの絶対序列。
それは、数百キロ離れた場所からでも、たった一人の幼子の我儘を、世界最強の力を持ってして「慈愛」へと変えてしまう、理不尽なまでの姉の執念によって示されたのでした。
「……さて。まずは、明日の朝食にテオの好物のパンが出るよう、学食のメニューを『再構成』することから始めましょうか」
私は、まだ白目を剥いているルームメイトたちを一瞥もせず、夜明けの空を見つめて静かに微笑むのでした。




