第十二話:困惑!淑女の朝は修行の時間!?
鳥の囀りさえまだ微睡みの中にある、黎明の刻。
王立アカデミーの寄宿舎『薔薇の宮』に、微かな衣擦れの音だけが響きました。
「……ふぅ。やはり、この時間こそが最も心が落ち着きますわね」
私は、まだ寝息を立てているセレスティア様とベアトリス様を起こさぬよう、音もなくベッドを抜け出しました。昨夜、兄様たちとアイリスが嵐のように去っていった後の部屋は、彼女たちの失神に近い深い眠りと、カイル兄様が持ち込んだ『テオの等身大魔法肖像画』から時折漏れる「あうー」という寝息のような音声魔法で満たされています。
私は鏡の前で、深紅の髪を一本の紐で無造作に束ねました。
元剣聖アルスとしての記憶が馴染んだこの体は、何もしなければただの「絶世の美少女」という言葉に収まってしまうのでしょう。しかし、皮膚のすぐ裏側を流れる魔力は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、休むことを知りません。
テオに授けた銀のブレスレット――私の魂の欠片とも言えるあの封印が、遠く離れたハルトマン邸で安定していることを魔力の波長で確認します。
あの子がいつか私の高みまで登ってきたとき、その背中を堂々と支えてやれる姉であるために。そして何より、この平和で退屈な学園生活の裏で、いつ「害虫」が這い出してきても即座に細切れにできるよう、牙を研いでおくのは淑女の嗜みというものですわ。
私はバルコニーから、音もなく中庭へと飛び降りました。
十二歳の少女の体格では、本来なら着地の衝撃で膝を痛めるはずですが、空気を「踏み台」にするように圧力を操作すれば、羽毛が落ちるよりも静かに着地できます。
「さて、始めましょうか」
中庭の噴水のそば、朝靄が立ち込める静寂の中で、私はただ「立つ」ことに集中しました。
剣を持つ必要はありません。かつての私が到達した極致において、剣とはただの鉄の塊に過ぎませんでした。真に空間を断つのは、肉体を通じて放射される意志と、それを具現化する圧倒的な圧力の奔流。
私は、右手の指先をそっと前方に突き出しました。
瞬間、周囲の空気が物理的な重さを伴って変質しました。
瑞々しく揺れていた芝生が、目に見えない巨大な「重し」を乗せられたかのように地面に伏し、噴水から上がっていた水飛沫が、まるで時間が止まったかのように空中で静止します。
(……一、二、三)
心拍に合わせて、私は体内の魔力を「点」へと収束させていきます。
かつて戦場で、お父様――ゼフ・ハルトマンと対峙した時のことを思い出します。あの男の防御は、理不尽なまでの『壁』でした。どれほど鋭い一撃を放とうとも、彼はその巨躯を微動だにさせず、正面から受け止めて笑っていた。今のあのみっともない親バカっぷりからは想像もつかない、戦鬼としての威圧感。
今の私が放つのは、あの『盾』を内側から爆散させるための『矛』。
私はゆっくりと、一歩前へ踏み出しました。
たったそれだけの動作。しかし、私の足が地面に触れた瞬間、朝靄が真っ二つに裂け、中庭を横切るような真空の道が出来上がりました。
――ズ、ゥン。
音にならない振動が寄宿舎を揺らします。
私はただ、腕を振るう予備動作さえ見せず、ただそこに在るだけの「圧力」を制御しているに過ぎません。ですが、私の周囲数メートルは、もはや生物が存在できる領域ではなくなっていました。大気が悲鳴を上げ、不可視の斬撃が幾重にも重なり合い、触れるものすべてを分子単位で磨り潰す――そんな、静かな地獄が完成しています。
「……あら、少しばかり『想い』が強すぎましたかしら」
ふと、視線を感じて私は圧力を霧散させました。
背後、寄宿舎の窓から、何人かの生徒たちがこちらを覗き込んでいるのが見えます。
その中には、我がルームメイトの二人も含まれていました。
彼女たちの目には、どう映っているのでしょう。
夜明け前の薄暗がりの中、深紅の髪の少女が一人、ただ静かに佇んでいるだけ。
ですが、彼女たちが立っている場所まで、私の「残り香」とも言える凄まじい重圧が届いているはずです。
セレスティア様とベアトリス様は、窓枠を掴んだまま、口をパクパクと金魚のように動かしていました。彼女たちの背後にある花瓶の花が、私の放った圧力の余波で、一瞬にして散り落ちるのが見えました。
「皆様、おはようございます。少々寝付きが悪かったものですから、朝の散歩を楽しんでおりましたの。……ご迷惑でしたかしら?」
私は、先程まで大気を切り裂いていた指先で、乱れた髪を優雅に整え、花が咲くような微笑みを向けました。
「ひ……、ひいぃ……っ!」
「空気が……、空気が重くて、息が……っ!」
……おかしな反応ですわね。
私はただの散歩だと言っているのに、彼女たちはまるで死神の鎌が喉元に突きつけられているかのように震え、そのまま窓を閉めて部屋の奥へと引っ込んでしまいました。
やはり、王都の貴族子女は繊細すぎますわね。
我が家のテオであれば、今の私の重圧の中でも「きゃっきゃ!」と笑って突っ込んできたことでしょう。あの子のあの規格外の頑丈さと、私の技を瞬時に見抜く才気。それを思えば、この学園の者たちはあまりにも……脆い。
「お嬢様! 何をなさっているのですか!」
そこへ、息を切らせたアイリスが駆けてきました。彼女は私の姿を見るなり、崩れ落ちるように膝をつき、感動に打ち震えた瞳で私を見上げました。
「この圧倒的な……、魂を直接削り取られるような神聖なるプレッシャー! まさか、早朝からこのような高次元の練武を拝見できるとは! ああ、リリア様! あなたというお方は、どれほど私を狂わせれば気が済むのですか!」
「おはよう、アイリス。少々、体が鈍っていたのでね。テオに忘れられてしまっては困るでしょう?」
「テオドール坊ちゃまも、今頃は領地でリリア様の魔力の余波を感じ取って喜んでおられるはずですわ! さあ、お嬢様。汗など一滴もかいておられませんが、お召し替えと朝食の準備が整っております。今日のメニューは、リリア様のお好きな、ハルトマン家特製の薬草茶をご用意させましたわ」
「ええ、ありがとう。……そういえば、アイリス。兄様たちは?」
「シオン様は『リリアが散歩に出るなら、周囲に不審な小石が落ちていないか確認せねば』と、今、中庭の反対側を物理的に整地しております。カイル様は『リリアの歩く道に悪い虫がつかないよう、防虫と防聴の魔法を学園全体に上書きする』と、図書室で術式を組んでおいでですわ」
……我が兄ながら、相変わらずの過剰労働ですわね。
ですが、そのおかげで私が自由に「散歩」できるのであれば、文句を言う筋合いはありませんわ。
私はアイリスに促され、寄宿舎へと戻りました。
廊下ですれ違う生徒たちが、私と目が合うたびに壁際に張り付き、彫像のように固まるのは……まあ、挨拶代わりの「礼儀」として受け取っておきましょう。
部屋に戻ると、セレスティア様とベアトリス様が、部屋の隅で毛布にくるまって震えていました。
「お二人とも、お目覚めでしたのね。おはようございます。……なぜそんなところで震えていらっしゃるの? もしかして、この部屋、少々寒かったかしら」
「い、いえっ! なんでもありませんわ、リリア様! 私たち、ただ、その……! 貴女様の高潔な朝のお姿に、畏怖を感じていただけですのっ!」
「左様でございますわ! ああ、なんて素晴らしい朝でしょう! 私、一生リリア様についていきますから、どうか、どうかその……さっきの『見えない刃』で私を刻むのだけは勘弁してくださいまし……っ!」
ベアトリス様に至っては、半ば錯乱しているようでした。
私は優雅に椅子に座り、アイリスが淹れてくれたお茶を一口。
ふむ。やはりハルトマン家の味ですわ。
学園での生活は、思ったよりも賑やかになりそうです。
ですが、まずは今日の入学式。
新入生総代として、全生徒の前に立つその場所で。
私は、ハルトマン家の長女として、そしてテオの自慢の姉として、この学園の「絶対序列」を明確に示してやらねばなりません。
「……ふふ。お父様があの席で見ていらっしゃるのですもの。不甲斐ない姿は見せられませんわね」
私の紫の瞳に、元剣聖としての冷徹な光が宿ります。
それを見たルームメイトたちが、再び失神して床に倒れる音がしましたが――私は気にせず、窓の外に広がる王都の空を、静かに見つめるのでした。
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次回お楽しみに。




