第十話:出発!ハルトマン邸、溢れる光の離別式
ついに、この日がやってきた。
ハルトマン邸の正門前には、王室御用達の紋章が刻まれた豪奢な馬車が止まり、俺の荷物を積み終えた使用人たちが、寂しさと誇らしさが入り混じった顔で整列している。
空はどこまでも青く、門出を祝うには最高の天気だ。だが、俺の目の前に広がる光景は、お世辞にも「爽やかな出発」とは言い難い、混沌としたものだった。
「リ、リリアァァァッ! 頼む、行かないでくれ! パパが悪かった、何が悪かったのか自分でも全く分からないけれどとにかく全部謝るから! 学園なんて退学だ、いや入学すらしていないけれど今すぐ辞退の手紙を書いてくるぅぅぅっ!!」
俺のドレスの裾を掴んで、地面に這いつくばって号泣しているのは、我が父ゼフ・ハルトマンである。王国最強の盾としての威厳はどこへ行ったのか。鼻水を垂らしながら娘の足にしがみつくその姿は、通りかかった近隣の住人が見れば、間違いなく騎士団本部に通報されるレベルの醜態だった。
「パパ。……汚れますわ。離してくださいな」
「離さない! 離したら君は王都という名の魔窟へ消えてしまう! 悪い虫がいっぱいいるんだぞ! 悪い先輩、悪い同級生、悪い王子! あああ、想像しただけでパパの心臓が物理的な重みに押し潰されそうだぁぁっ!!」
ゼフの叫びに呼応するように、もう一人の「絶望」が俺の反対側の足に縋り付いた。
「ねぇね! ねぇねぇぇっ!! テオもいく! テオも、ばっしゃ、のるぅぅぅっ!!」
二歳の末弟テオである。
彼は顔を真っ赤にして、一生分の涙を流しているのではないかというほど激しく泣きじゃくっている。テオの腕の霊銀ブレスレットは、彼の激情に反応して不気味な紫色の光を放ち、金属が軋むような音を立てていた。
屋敷は揺れない。地面も割れない。だが、ブレスレットに抑え込まれたテオの膨大な魔力が、逃げ場を失って周囲の空気を歪ませ、まるでそこに「見えない巨大な鉄の塊」が置かれているかのような、重苦しい空気が門前に立ち込めていた。
(……やれやれ。……パパはともかく、テオのこの精神的な質量は本物だな。……封印がなければ、今頃この門は粉々に粉砕されていただろう)
俺は困り果てて溜息をつくが、それを救ってくれたのは、すでに馬車に乗り込んでいた二人の兄だった。
「ははは! パパ、往生際が悪いぞ! リリアは僕たちが学園でしっかりガードするって言ってるじゃないか! 悪い虫? 僕が全員、模擬戦の藻屑にしてやるさ!」
十五歳の長男シオンが、馬車の窓から身を乗り出して快活に笑う。騎士科の高等部一年生となった彼は、以前よりもさらに体躯ががっしりとし、若き獅子のような覇気を纏っていた。彼にとって、最愛の妹が同じ学園に来ることは、純粋な喜びでしかない。
「シオン兄上、あまり身を乗り出さないでください。行儀が悪いですよ。……リリア、学園には僕が研究室から特別に取り寄せた、最高級の筆記具を用意してある。……君が退屈しないよう、図書館の隠し通路も教えてあげるからね」
十四歳の次男カイルが、冷静に、だが隠しきれない期待に瞳を輝かせて眼鏡を押し上げる。彼もまた、妹と同じ学び舎で過ごせる日々を心待ちにしているのが丸出しだった。
そんな男たちの狂騒の中、母エリナが俺の肩を抱き、少し離れた場所へと連れ出した。
「……リリア。少し、お話ししましょうか」
エリナは、泣き叫ぶ夫と息子を一瞥し、「後でじっくり再教育が必要ね」という冷徹な光を瞳に宿らせた後、俺に向き直って優しく微笑んだ。
「学園には、いろんな人がいるわ。貴女ほどの子なら、きっと放っておいても注目を集めてしまうでしょうね。……でも、覚えておいて。男の人という生き物はね、パパみたいに単純なようでいて、時としてとても面倒なプライドを持っているの」
「……面倒な、プライド?」
「ええ。貴女のような強くて美しい子を、自分の手の中に収めたいと勘違いする愚か者が必ず現れるわ。……そういう時はね、リリア。……容赦しなくていいのよ。徹底的に『格の差』を見せつけて、戦う意欲さえ削ぐの。……もし、しつこく言い寄ってくる王子様や公爵令息がいたら、微笑みながらこう言いなさい。『私と立ち合って、三分持ったらお名前を覚えて差し上げますわ』って。……あとの始末は、シオンとカイルに丸投げすればいいわ」
(……ママ、それはもはや外交問題になりませんか。……まあ、俺の気質には合っているがな)
「それから……パパみたいな暑酷しい男には気をつけるのよ。……適度な『距離感』が、彼らとの健全な関係を保つコツよ。分かったわね?」
「……はい、ママ。肝に銘じますわ」
俺は、エリナのあまりに実践的なアドバイスを受け、深く頷いた。
いよいよ、出発の刻限だ。執事たちが強引にゼフを俺の足から引き剥がし、エリナが泣きじゃくるテオを抱き上げた。俺は馬車に乗る前に、一度だけ、テオの前へと歩み寄った。
「テオ。……おいでなさい」
俺が膝をついて手を差し伸べると、テオはエリナの腕の中で身を乗り出し、俺の首にしがみついてきた。小さな体は、悲しみと魔力の高ぶりで熱を帯び、小刻みに震えている。
俺は、テオの小さな背中を包み込むように抱きしめた。
そして、前世の古い記憶の底にある、守護と祝福を司る言葉を、静かな詠唱のように紡ぎ始めた。
「……此れは契約の証。此れは永久の加護。汝の内に眠る荒ぶる力を、我が愛の名において平伏させん。……星の巡り、時の果てまで、汝の魂は我が掌の中に在り」
俺がテオの額にそっと口づけをした瞬間、周囲の空気が一変した。
テオの腕にある霊銀のブレスレットが、太陽のような純白の輝きを放ち始めた。その光はテオの全身を優しく包み込み、溢れ出そうとしていた荒々しい魔力を、まるで見えない繭のように優しく、そして強固に編み込んでいく。
幻想的な光の粒子が二人の周囲を舞い踊り、テオの泣き声が吸い込まれるように止まった。
ブレスレットは、以前よりも深みのある銀の輝きを増し、テオの腕により一層しっくりと馴染む。それは単なる封印ではなく、俺とテオの魂を繋ぐ、強固な鎖へと進化したかのようだった。
「……ぁ、……ねぇ、……ね……」
光の中に包まれたテオは、恍惚とした表情で俺を見つめた。
俺の放った膨大な、だが驚くほど穏やかで温かい魔力が、彼の高ぶった神経を完全に鎮めていた。テオは、俺の胸の中で満足げにため息をつき、そのまま深い眠りへと落ちていった。
「……よし。……良い子ですわね、テオ」
俺は、眠ったテオをエリナに預けた。
ゼフもまた、今の幻想的な光景に圧倒されたのか、あるいは俺の「格の違い」を見せつけられたからか、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。
「……リリア、行ってらっしゃい。……貴女の伝説が、王都でどう上書きされるのか、楽しみにしているわ」
エリナの言葉に送り出され、俺は馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、御者が馬に合図を送る。
ゴトゴトと、車輪が石畳を叩く音が響き始め、窓の外の景色がゆっくりと動き出した。
正門を抜け、見慣れたハルトマン邸の全景が遠ざかっていく。
門前では、まだゼフが砂埃の中に立ち尽くし、エリナが眠るテオを抱いて手を振っているのが見えた。
馬車の中には、シオンとカイルが「さあ、学園の案内をするよ!」と賑やかに喋り続けている。
俺は、その騒がしい声をBGMに、窓の外を流れる景色をじっと見つめていた。
(……ふむ。……ようやく、一人の時間が持てるというわけか。……あんなに騒がしい連中と離れるのは、せいぜい清々するというものだ)
前世の俺なら、そう断じただろう。
孤独を愛し、剣のみを友として生きた剣聖アルス。
他人の涙など、戦場を湿らせる雨程度にしか思っていなかった男。
だが。
――ポタッ。
膝の上に置いた俺の手の上に、温かい雫が落ちた。
(……? 雨か? ……いや、馬車の屋根は塞がっているはずだが……)
俺は不思議に思い、自分の頬に手を当てた。
指先に触れたのは、これまでの十二年間の人生で一度も流したことのなかった、熱い感情の結晶。
(……ああ。……そうか。……これが、『寂しい』という感情か)
俺は自分自身に驚愕していた。
屋敷の北半分を吹き飛ばした時も、刺客の首を跳ねた時も、俺の心は氷のように静止していた。それなのに、たかが家族と数年間離れるだけで、この強固なはずの魂が揺れ動いている。
(……ハルトマンの血は、……どうやら俺が思うよりもずっと、……熱すぎたらしいな)
俺は、兄たちに気づかれないよう、素早く指先で目元を拭った。
一度流れた涙は、不思議と俺の心を軽くしてくれた。
ハルトマン邸が見えなくなるまで、俺は窓の外を見つめ続けた。
十二歳。
元剣聖リリア・ハルトマン、初の長期遠征。
目指すは王立アカデミー。
そこにはどんな出会いがあり、どんな退屈が待っているのか。
そして俺は、いつの日か胸を張って、あの重すぎる愛に満ちた場所へ帰ることができるのか。
(……待っていなさい、パパ。ママ。テオ。……お前たちの自慢の娘として、……学園の常識を、私の歩みで徹底的に塗り替えてきて差し上げますわ)
俺は、瞳に宿る剣聖の鋭さを取り戻し、馬車の揺れに身を任せた。
物語の舞台は、ハルトマン邸の暖かな日常から、王国の中心、王立アカデミーという名の波乱に満ちた場所へと移り変わる。
十二歳の聖女(物理)の、本当の伝説は、ここから加速していくのであった。
「リリア、どうしたんだい? 急にニヤリと笑って……」
「……いいえ、カイルお兄様。……少し、楽しみになってきただけですわ」
俺の不敵な微笑みに、カイルとシオンは「あ、これ誰かが犠牲になる時の顔だ」と、戦慄と共に確信するのであった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次のお話から学園編が始まります!
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次回お楽しみに。




