第六話:葛藤!テオの初めての言葉と学園の影
季節が巡るのは、前世の修行の日々よりもずっと速く感じられる。
最強の末弟テオドール――テオが誕生してから一年と少し。ハルトマン邸の庭園には再び色鮮やかな春の花々が咲き乱れ、俺ことリリア・ハルトマンは、十一歳という「学園入学前」の最終学年を迎えていた。
(……十一歳。あと一年で、俺はこの家を出て王立アカデミーに入らねばならん。前世では、十一歳と言えばすでに戦場での初陣を飾り、返り血を浴びて『狂犬』と罵られていた頃だがな)
俺は、窓辺のソファに座り、膝の上で暴れるテオをあやしながら、複雑な心境に浸っていた。
テオは一歳になり、魔力の制御こそまだ不安定だが、その知性は驚くべき速度で成長している。そして今、ハルトマン邸では、テオの「言語習得」を巡る、凄まじい情報戦が繰り広げられていた。
「ほーら、テオ。パパだよぉ〜、パパって言ってみて! パ・パ!」
絨毯の上で這いつくばり、必死にテオの気を引こうとしているのは、相変わらずの父ゼフだ。
テオは俺の膝の上で、ゼフの必死の形相を冷めた目で見つめている。その視線は、どこか俺が教育のために見せる「冷徹な観察」の眼差しに似てきているのが、少しだけ誇らしく、そしてパパに対して申し訳なかった。
「あなた、そんな暑苦しく迫ったらテオが怖がるわよ。……テオ、ママよ。マ・マ。さあ、言ってみて?」
母エリナも、優雅に微笑みながら、しかし瞳の奥には負けられないという魔女の意地を燃やして参戦している。学園にいるシオンやカイルからも、毎日のように「僕たちの名前を最初に呼ばせてください」という、魔力通信のメッセージが届く始末だ。
(……フン。言葉など単なる意思伝達の道具。誰を最初に呼ぼうが、そこに本質的な差などない。……と、前世の俺なら断じたであろうな。だが、今の俺は、この小さな怪物が何を最初に口にするのか、生唾を呑む思いで待っているのだ)
俺は読んでいるふりをしていた魔導書の陰から、膝の上のテオをじっと見つめる。
テオはふと、ゼフやエリナの呼びかけを無視するように、俺の方を振り仰いだ。
その宝石のような澄んだ瞳が、俺の視線と真っ直ぐに合う。
「……あ、……ぁ……」
テオが、俺の服のレースを小さな手でぎゅっと握りしめた。
俺は反射的に、全身の毛穴が収縮するような緊張感を覚えた。
「……ね、……ねぇ、……ね!」
「…………!!」
時が止まった。
ゼフが石像のように固まり、エリナが口元を抑えて絶句する。
テオは、これまで見せたこともないような、満面の、この世のものとは思えないほど無邪気な笑みを浮かべて、もう一度、はっきりと口にした。
「ねぇね! ……り、……りり、……ねぇね!!」
その瞬間、俺の中に築き上げられていた『冷徹な剣聖アルス』の魂の防壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
(……可愛い。……何だ、この破壊力は。前世で放たれた伝説の禁忌魔法ですら、これほどの衝撃を俺の魂に与えることはできなかった。……ねぇね? 俺のことを、ねぇねと呼んだのか!? 最初に!?)
「リ、リリアァァァッ! テオの最初の一言が『ねぇね』だなんて! パパ、パパは……パパは嬉しいような、悲しいような、でもやっぱりリリアが凄すぎて誇らしいよぉぉぉっ!!」
ゼフが滝のような涙を流しながら床を叩き、エリナも「やっぱりリリアには勝てないわね……」と苦笑している。
俺の耳には、もはや周囲の喧騒は届かない。
俺は、無意識のうちにテオを強く抱きしめていた。
「……テオ。もう一度。もう一度だけ、言ってみてくださる?」
「ねぇね! しゅき!」
(――致命傷だ。今すぐ隣国の城を一つ落としてきてやってもいい。いや、国ごとテオに献上してもいい。……俺は、こんなにも脆い男……いや、姉だったのか)
俺はテオの丸い頬に、理性をかなぐり捨てて頬ずりをした。
あまりの愛おしさに、漏れ出した『重圧』が、周囲の高級な椅子をわずかに浮かせてミシミシと鳴らしている。今の俺は、ハルトマン家の守護聖女でも、最強の教育者でもない。ただの、度し難い「姉バカ」へと成り果てていた。
しかし、喜びの絶頂にある俺の脳裏に、冷や水を浴びせるような事実が過った。
「……あと一年。あと一年で、私は学園に行かねばならないのね」
王立アカデミーは全寮制だ。一度入学すれば、長期休暇以外は屋敷に戻ることは許されない。
今、俺の指を握りしめて「ねぇね、しゅき」と笑っているこの天使を置いて、王都の学園へと向かい、数年間の離離れ離れの生活を送る。それがどれほどの損失か。
(……フン。学園の図書館? 禁忌の魔導書? ……テオの『ねぇね』の一言に比べれば、そんなものは紙屑にも等しい。俺は、この子の成長を特等席で見届ける義務があるはずだ。……パパ。やはり私は、学園に行くのをやめて、この子の家庭教師(専属守護者)になるべきではないかしら?)
「リリア、顔が怖いよ! 目が『教育』の域を超えて『支配者』のそれになってるよ! 学園には必ず行ってもらうからね! 王都のアカデミーが、君を待ちわびているんだから!」
ゼフが慌てて制止するが、俺の葛藤は収まらない。
学園に行き、圧倒的な力を見せつけることで、テオが将来何の憂いもなく育つための地盤を固めるべきか。それとも、このままこの子を俺の手元で「最強の怪物」へと直接育て上げるべきか。
俺は、腕の中で満足げに「ねぇね、ねぇね」と繰り返すテオを見つめた。
十一歳の俺に突きつけられた、人生で最大の難題。
最強の姉の心は、小さな弟の言葉一つによって、かつてないほど激しく、そして温かく揺れ動いていた。
「……テオ。……お姉様が学園に行くまでに、貴方を誰も手が出せないほど強く、そして私にだけは忠実な子に仕上げて差し上げますわ」
「うー! ねぇね!」
「……ああ、やはり可愛い」
俺の、あまりに物騒な決意と慈愛に満ちた微笑みに、ゼフとエリナは「将来のテオが少し不憫ね……」と小声で語り合うのだった。
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次回お楽しみに。




