第四話:爆走!テオの初ハイハイは音速超え!?
ハルトマン邸の静寂は、今や「絶滅危惧種」と言っても過言ではない。
二人の兄、シオンとカイルが王立アカデミーへと戻り、屋敷に再び静かな日常が戻るかと思われたが、現実はその真逆を突き進んでいた。
(……ふむ。嵐が去って、さらなる大嵐がやってきたというわけか。……いや、これはもはや天災に近いな)
俺ことリリア・ハルトマンは、十一歳相応の優雅な身のこなしで、午後の読書を楽しむために図書室へと向かっていた。
背後から聞こえてくる「ゴゴゴゴ……」という、地響きのような音さえなければ、実に見事な貴族の昼下がりであっただろう。
音の正体は、一歳になった末弟、テオドール――テオである。
数日前までクッションの上で「あうー」と愛嬌を振りまいていたはずの赤ん坊は、今、ハルトマン家の歴史を塗り替える、物理的な意味での「第一歩」……いや、「第一這い」を踏み出そうとしていた。
「テオ! ほーら、パパのところにおいで! こっちだよぉ〜!」
廊下の先で、ゼフが両手を広げて満面の笑みで構えている。
対してテオは、廊下の中央で四つん這いの姿勢になり、じっと俺の背中を見つめていた。彼の澄んだ瞳には、パパの必死の呼びかけなど一ミリも映っていない。そこにあるのは、自分を魔力的に「調教」し続ける最愛の姉に対する、純粋で強烈な執着心だけだ。
「……あ、……あう!!」
テオが、短く吠えた。
次の瞬間、俺の背後で空気が爆発した。
ズドォォォォォォォォォォン!!
「なっ、……うわぁぁぁぁぁっ!?」
ゼフの悲鳴。
テオが、その小さな手で床を叩いた瞬間、大理石の床板が衝撃に耐えきれず粉砕され、破片が弾け飛んだ。
赤ん坊のハイハイ。それは本来、微笑ましく、たどたどしいものであるはずだ。だが、ハルトマン家の第三の爆弾が放ったそれは、もはや「突進」や「噴射」と呼ぶべき代物だった。
(……ほう。無意識に足の裏と手のひらから魔力を放出し、その反動で加速しているのか。……教育が良すぎたな)
俺は歩みを止めず、背後で起きている惨劇を「感知」だけで把握していた。
テオの速度は、一歩ごとに倍加していく。
バキッ、バキッ、バキッ、と規則正しく床が抜ける音が、凄まじい速度で俺の背中に迫ってくる。
一秒で数メートル。二秒で十メートル。
赤ん坊のハイハイでありながら、その速度はすでに全力で走る並の騎士を凌駕し、空気との摩擦で「ヒュルルル……!」という、矢が飛ぶような風切り音さえ立て始めていた。
「待て! 待てテオ! 速すぎる! 廊下が壊れる! 家が壊れるぅぅぅっ!!」
ゼフが慌てて追いかけるが、加速したテオに追いつけない。
テオは、もはや制御不能な魔力の弾丸と化していた。彼が通った後の廊下には、めくれ上がった絨毯と、同心円状に砕け散った大理石の轍が、一本の太い線となって刻まれている。
(……このままでは、俺に衝突した瞬間に、テオの首が衝撃で折れるな。……あるいは、俺の背後の壁を突き破って庭まで飛び出すか)
俺は、図書室の扉の前で、静かに足を止めた。
背後数メートルの距離まで、土煙を上げた「音速の赤ん坊」が迫っている。
テオの顔は、あまりの速度に皮膚が風圧で波打っているが、その瞳は爛々と輝き、俺のドレスの裾を掴もうと必死に手を伸ばしていた。
俺は、ゆっくりと振り返った。
そして、少女が出し得る、最も澄んだ、そして最も容赦のない声を響かせた。
「――待ちなさい(待て)、テオ」
俺が放ったのは、単なる言葉ではない。
言霊に、俺の十年の鍛錬の結晶である『重圧』を、指向性を持たせて乗せた、絶対的な命令。
ドンッ!!
瞬間、テオの周囲の重力が、通常の一〇〇倍へと跳ね上がった。
音速で滑走していたテオの体が、物理法則を強制的に書き換えられ、その場に「停止」させられる。
いや、「停止」だけでは済まなかった。
バキィィィィィィィィィン!!
テオが停止した場所の床が、あまりの圧力に耐えきれず、巨大なクレーター状に陥没した。
「……ふぎゅっ!?」
テオは、その小さな体を床の穴の中に「みしり」と埋め込まれ、身動きが取れなくなっていた。
俺の『重圧』は、テオの肉体を壊さないよう完璧に保護しながら、その運動エネルギーだけを大地へと逃がしたのだ。結果として、テオは床の穴にすっぽりとハマり、カブトムシの標本のように固定された状態になった。
舞い上がる砂埃。
静寂が訪れた廊下に、遅れてゼフが到着した。
「テ、テオ……!? リリア、今、何をしたんだ!? テオが床に、床に埋まっているぞ!?」
ゼフが驚愕のあまり腰を抜かし、穴にハマってジタバタしているテオを見つめる。
テオは、顔を床に押し付けられたまま、「うー、うー!」と、不満そうに、だがどこか楽しそうに声を上げていた。
「あら、パパ。テオが急ぎすぎて危なかったものですから。……少しだけ、落ち着かせただけですわ」
俺は、何事もなかったかのように微笑み、テオの側へ歩み寄った。
穴の中に手を差し伸べると、俺の魔力に触れたテオが、パァァと表情を明るくする。
「……テオ。ハイハイは、もっと優雅に行うものです。……魔力を推進力に使うのは、まだあなたには早すぎますわ」
俺は、テオの襟首をひょいと掴み、大根を引き抜くような動作で床の穴から救出した。
テオは俺に抱き上げられると、先ほどまでの爆走が嘘のように、満足げに「あうー」と鼻を鳴らして俺の肩に顔を埋めた。
「……リリア。君の『少しだけ』は、パパの『全力』よりも重い気がするよ……」
ゼフが、粉砕された廊下と、直径一メートルほどのクレーターを見て、遠い目をしながら呟いた。
「そんなことはございませんわ。……それよりパパ。廊下の修繕をお願いしてもよろしいかしら? テオの次の『ハイハイ』が始まる前に、もっと頑丈な素材に変えておかないと、次こそ屋敷の土台が保ちませんわよ」
「……あ、ああ。そうだね。……今度は、王宮の防衛壁に使われる『金剛石混じりの石材』を発注することにするよ……」
ゼフが力なく立ち上がり、執事たちに修繕の指示を出しに行く。
その背中を見送りながら、俺は腕の中の小さな怪物を見つめた。
(……フン。たかがハイハイでこれか。……歩き出し、走り出す頃には、この王国自体を平らにしてしまいそうだな)
テオの溢れんばかりの才能。
それは、正しく導かなければ世界を壊す凶器となる。
だが、この俺がいる限り、そのようなことはさせない。
(……テオ。お前がどんなに速く動こうとも。……俺の『重み』からは、一生逃げられんからな)
俺は、俺の指をぎゅっと握りしめるテオの力を感じながら、姉としての自覚……という名の、最強の教育者としての悦びを、静かに噛み締めるのだった。
ハルトマン邸の廊下に、再び大工たちの槌音が響き始める。
伝説のハイハイ事件は、こうして「テオの健康な成長の証」として、ハルトマン家の家譜に(修繕費の請求書と共に)刻まれることとなった。
「ふふ。……テオ。明日は、その重圧の中でも動けるように特訓しましょうか」
俺の、あまりに物騒な微笑みに、眠りかけたテオがビクッと体を震わせたが、それはまた別の日の物語である。
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次回お楽しみに。




