第二十話:湯煙!パパの涙と男の背中!
お風呂回です!(遠い目
武人にとって、戦いの後の垢を落とす時間は格別なものだ。
かつての俺――剣聖アルスにとっても、血と泥にまみれた体を湯に沈める瞬間は、唯一心が休まるひとときだった。だが、今の俺にとって「入浴」は、別の意味での戦場と化している。
(……よせ、ゼフ。その、不格好なアヒルのおもちゃを俺の目の前で泳がせるのをやめろ。俺は二歳だが、中身は貴様と死線を越えた宿敵なんだぞ)
ハルトマン邸が誇る、大理石造りの大浴場。
もうもうと立ち込める湯気の中で、俺はパパことゼフ・ハルトマンの、岩のように強固な膝の上に鎮座していた。
「ほーら、リリア。アヒルさんが『こんにちは』してるよぉ〜。可愛いねぇ、ぷかぷか浮いてるねぇ」
(……死ぬほど恥ずかしい。誰か俺を斬ってくれ。……いや、今はその時期ではない。耐えるんだ、俺の魂よ)
ゼフは鼻歌を歌いながら、俺の小さな体を優しく、それはもう壊れ物を扱うかのような手つきで洗っていく。
王国最強の騎士団長。数多の魔物を屠り、敵国の将軍を絶望させてきたその剛腕が、今は俺の脇の下を「こちょこちょ」とくすぐり、泡だらけにしている。
「あ、あうー。……ぱぱ、……そこ、……くすぐ、……たい」
「おっと、ごめんよリリア! パパ、お前の肌がマシュマロみたいに柔らかいから、つい夢中になっちゃったよ。よし、次は背中を流そうね」
ゼフが俺を抱き上げ、大きな木桶に溜めた湯を掛けた。
俺はふぅ、と一息つき、ゼフの背後へと回り込む形になった。
そこで、俺の目は釘付けになった。
(…………これは)
湯気に濡れた、ゼフの広大な背中。
そこには、騎士としての誇り……いや、彼が潜り抜けてきた地獄の数々が、無数の傷跡となって刻まれていた。
巨大な爪痕、火傷の跡、そして無数の斬創。
その中でも、左の肩甲骨から腰にかけて斜めに走る、一際深く、鮮明な一本の傷跡が、俺の意識を強く引き寄せた。
(……間違いない。あの傷、……俺がつけたものだ)
前世。
『絶壁の守護』を誇ったゼフの防御を、俺が唯一、紙一重で食い破った際の一撃。
俺の第四型『雲耀』。音を置き去りにしたあの一閃が、ゼフの鎧を断ち、その肉を裂いた瞬間の手応えを、俺は今でも鮮明に覚えている。
「……どうしたんだい、リリア? そんなにパパの背中をじっと見て」
ゼフが少し寂しげに、だが温かい声で笑った。
彼は俺の手をそっと取り、その大きな傷跡に触れさせた。
「怖いかな? パパの背中は傷だらけだからね。……これはね、パパが昔、とっても強くて、格好いい男と戦った時にもらった『勲章』なんだよ」
(…………勲章、だと?)
「そいつはね、僕の人生で唯一のライバルだった。……剣聖、アルス。そいつの一撃は、僕がどれだけ盾を構えても、どれだけ体を鍛えても、防ぎきることができなかった。……あいつに斬られたこの傷は、僕が騎士として、一人の男として、必死に生きた証なんだ」
ゼフの声が、湯気の中に静かに響く。
戦場での覇気はなく、ただ過去を懐かしむような、穏やかなトーン。
「僕はね、あいつのことが……嫌いじゃなかったんだ。……あいつと剣を交えている時だけは、自分という人間が何者なのか、はっきりと分かった気がした。……皮肉なものだね。命を奪い合っていた相手が、世界で一番の理解者だったなんて」
(…………ゼフ。貴様、そんな風に思っていたのか)
俺は、ゼフの傷跡を小さな指でなぞった。
俺にとっても、あの日々は特別だった。孤独な頂点にいた俺に、唯一『全力』を出すことを強いた男。
もし俺たちが別の形で出会っていれば。あるいは――。
「……でもね、リリア。パパは今、そのライバルに感謝しているんだ」
「……え、……かん、……しゃ?」
「そうさ。あいつが僕の全力を引き出してくれたからこそ、僕は生き延びることができた。……そして、こうしてエリナと出会い、シオンとカイル、そしてお前という宝物を手に入れることができた。……あいつと戦った日々があったから、今の僕の幸せがある。……だから、この傷は僕の宝物なんだ」
ゼフがゆっくりと振り返った。
その目には、いつもの親バカな光ではなく、一人の父親としての、深く、熱い涙が溜まっていた。
「……ううっ、リリアぁ! パパ、お前と一緒にこうしてお風呂に入れるだけで、もう死んでもいいくらい幸せだよぉぉぉっ!!」
(……出た。結局、そこに行き着くのか、貴様は)
ゼフは俺を抱きしめ、またしても号泣し始めた。
湯気と、おじさんの涙と、石鹸の香りが混ざり合う、なんとも言えないカオスな空間。
「リリア! パパの背中、流してくれるのかい!? パパのこの薄汚れた魂を、お前の天使の力で浄化してくれるのかい!?」
「……ぱ、……ぱぱ。……な、……なきすぎ。……あ、……あつい」
「ひゃぁぁぁっ! リリアに怒られた! パパの涙が熱いって! あああ! なんて、なんて心の優しい子なんだ! パパの体温まで心配してくれるなんてぇぇぇっ!!」
(……違う、純粋に物理的な湯温と貴様の鼻息が熱いと言っているんだ)
俺は、感動の極致にいるゼフの頭に、手元にあったアヒルのおもちゃを「ぺちっ」と叩きつけた。
「あ、……あび。……ざ、……ざぶん」
「おおお! リリアがパパの頭をアヒルで清めてくれた! これはもう、ハルトマン家の家宝にするしかないね! 明日からこのアヒルは神棚に飾るよ!!」
(……やめろ、それでお前は明日から何で遊ぶつもりだ)
俺は呆れ果てながら、再びゼフの背中を見た。
無数の傷跡。その一つ一つが、この平和な日常を支えるための土台となっている。
俺がつけたあの傷は、確かにゼフを苦しめたかもしれない。だが、彼はそれを「宝物」と呼び、今、俺を慈しんでいる。
(……ゼフ。貴様の背中、……前よりも少しだけ、大きく見えるな)
俺は小さな掌で、ゼフの広い背中をペタペタと叩いた。
それは「洗い流す」というよりは、かつての戦友への「労い」だった。
「だぁー、ばぶ!(よし、ゼフ。……その勲章、汚さないように俺が守ってやるからな)」
「ははは! リリア、パパの背中を叩いて応援してくれてるんだね! パパ、明日からもお仕事頑張っちゃうぞぉ〜! リリアのために、世界で一番強くて優しいパパでいるからね!」
湯気の中に響く、幸せな親子の笑い声。
かつての宿敵は、今や一人の「親バカな父親」として、背中の傷跡と共に新たな人生を歩んでいる。
俺は温かい湯船に浸かりながら、ゼフの広くて、少しだけ不格好な「男の背中」を見つめ続けた。
元剣聖の魂も、この時ばかりは少しだけ、温かな湯気の中に溶けていくような気がしたのだった。
「……あ、……あひ、……ぷかぷか」
「うわあああ! リリアがアヒルさんとお喋りしてる! 動画! 動画撮らなきゃ! エリナ、カメラ持ってきてぇぇぇっ!!」
ハルトマン家のバスタイムは、最後まで騒がしく、そして呆れるほどに愛に満ちていた。
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次回お楽しみに。




