第二話:悶絶!離乳食は酒の味がしない!?
転生という現象を、俺は甘く見ていた。
意識がはっきりしており、前世の記憶も技術も残っている。ならば、後はこの体が成長するのを待つだけだ。そう楽観視していた時期が、俺にもあった。
(……地獄だ。ここが地獄か)
生後数ヶ月。俺、リリア・ハルトマンは今、人生最大……いや、二度目の人生最大の危機に直面していた。
視界はようやく鮮明になり、首も少しずつ座り始めてきた。だが、肉体の不自由さ以上に俺を苦しめていたのは、食生活の断絶である。
「さあ、リリア。美味しい美味しいですよー。あーんして」
目の前に差し出されたスプーン。そこに乗っているのは、何らかの野菜をドロドロに煮潰した、色の薄いペースト状の物体だ。いわゆる離乳食というやつである。
母エリナが、慈愛に満ちた笑みを浮かべて俺を急かす。
(……断る。俺の魂が、これを食うことを拒絶している)
前世の俺、剣聖アルスの食事といえば、戦場での干し肉か、酒場で出される豪快な骨付き肉、そして何より、喉を焼くような安酒だった。
強靭な歯で肉を食らい、毒にも等しい酒を煽る。それが戦士の血肉となり、一撃必殺の力を生んできたのだ。
それがどうだ。今の俺の口に運ばれるのは、噛む必要すらない、味の薄いドロドロ。
「あら、どうしたの? 今日はご機嫌斜めかしら。昨日までは大人しく食べてくれたのに」
(昨日までは、意識が朦朧としていたんだ! だが今は違う! 俺の味覚が、本能が、本物の『食』を求めているんだ!)
俺は固く口を結び、エリナのスプーンを拒む。
だが、悲しいかな。赤ん坊の空腹感というのは、精神の強靭さなど軽々と踏み越えてくる。腹の虫が情けなく鳴り、胃袋が猛烈に栄養を要求する。
「ほら、一口だけ。頑張って食べましょうね」
エリナが魔法を指先に灯し、スプーンの上の離乳食をほんの少し温めた。その微細な魔力操作に、俺の意識が引き寄せられる。
……くっ。この女、魔力の使い方が上手すぎる。温められたことで、野菜の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「あ、あう……(……背に腹は代えられん)」
俺は屈辱に震えながら、小さな口を開けた。
ヌルリとした食感が舌の上に広がる。……甘い。いや、薄甘い。
前世の俺なら見向きもしなかったであろう、あまりにも優しい味。だが、今の未熟な味覚には、それが驚くほど染み渡ってしまう。
(……美味い。……いや、違う! 美味くない! 俺は認めんぞ! こんな泥のようなものを美味いと感じる自分を!)
バタバタと手足を動かして抗議するが、エリナはそれを喜んでいると勘違いしたらしい。
「ふふ、やっぱり美味しいのね。はい、もう一口」
次々と運ばれる離乳食。俺の誇りはズタズタになりながらも、胃袋は満たされていく。
食後に白湯を飲まされ、口の中がさっぱりしたところで、俺は決定的な絶望に襲われた。
――酒だ。
――酒が飲みたい。
食事の後は、当然酒だろう。
戦の後の高揚感を鎮める、あの琥珀色の液体。あるいは、雪山での行軍中に命を繋いでくれた、あの燃えるような蒸留酒。
思い出すだけで、脳が震える。だが、今の俺に与えられるのは、温い白湯か、エリナから与えられる母乳だけだ。
(ゼフ……あの野郎、今頃は……)
俺の思考が、夕刻の食卓へと飛ぶ。
ハルトマン家の主、ゼフ・ハルトマン。彼は騎士団長としての激務を終え、この時間になれば晩酌を始めるはずだ。
俺は全神経を耳に集中させた。階下から、微かに聞こえてくる音がある。
――トクトクトク。
あ。あの音だ。
瓶からグラスへ、液体が注がれる音。
続いて、重厚な椅子が引かれる音。
「ふぅ……やはり、一日の終わりはこれに限るな」
ゼフの野太い声が聞こえてくる。
俺はいても立ってもいられなくなり、寝かされていたベビーベッドの中で身をよじった。
なんとかして、あの香りを嗅ぎたい。あいつが何を飲んでいるのか、確かめなければ気が済まない。
(動け……動け、俺の肉体よ! 一撃必殺の神速を誇った、あの日のように!)
俺は意識を内側に向けた。
このあいだ気づいた、放出できない魔力。俺はそれを、全身の筋肉に無理やり流し込んだ。
魔法として外に出せないのなら、内側で爆発させる。
肉体強化の初歩。いや、赤ん坊の筋肉でやるには、あまりにも無謀な極致。
(纏え……俺の魂を、魔力の鎧で!)
ジリジリと、肌の内側が熱くなる。
行き場を失った魔力が、未発達な筋肉を強引に駆動させる。
バキリ、とベッドの柵が鳴った。
「あ、あぶぅ……!(……せえええのっ!)」
俺は渾身の力で、体を横へと投げ出した。
通常、生後数ヶ月の赤ん坊ができるはずのない動き。いわゆる『寝返り』の超進化版だ。
ゴロン、と視界が回転し、俺はうつ伏せの状態になった。
(やった……! 視界が変わったぞ!)
うつ伏せになったことで、部屋の入り口が見えるようになった。
さらに、俺は顔を上げた。首の筋肉に魔力を集中させ、強引に持ち上げる。
プルプルと震える視界の先、開いたドアの隙間から、階下の食堂の様子が僅かに見えた。
いた。ゼフだ。
あいつは暖炉の火に照らされながら、大きな木樽から注いだばかりの酒を、美味そうに煽っている。
漂ってくる、芳醇な大麦の香り。そして、微かなピートの燻製香。
……エールだ。それも、相当に上質な、北方の黒エールに違いない。
(……貴様ぁ……! 俺がこんなドロドロの野菜を食わされている間に、そんな美味そうなものを……!)
怒りと羨望が爆発し、俺はさらに魔力を練った。
そのまま這い出して、あいつのグラスを奪ってやりたい。一口、せめて一口だけでいい。その味を思い出せれば、この屈辱的な離乳食生活も耐えられる。
「……ん? リリア、起きているのか?」
ゼフが、俺の気配に気づいた。
流石は王国最強の盾。赤ん坊が放った微かな魔力の揺らぎを、見逃さなかったらしい。
ゼフはグラスを置くと、足早に階段を上がってきた。
(しまっ……! 魔力を切れ!)
俺は慌てて魔力の供給を断った。
途端に、強引に動かしていた筋肉が悲鳴を上げる。
俺は脱力し、うつ伏せのままベッドに突っ伏した。
「リリア! どうしたんだ、そんな格好で……。おや、寝返りを打ったのかい!?」
部屋に入ってきたゼフが、俺を抱き上げる。
その体からは、先ほどまで飲んでいた酒の香りがプンプンと漂ってきた。
ああ、神よ。これは拷問か。
「エリナ! シオン! カイル! 来てくれ! リリアが……僕たちの天使が、もう寝返りを打ったぞ! なんて素晴らしい才能なんだ!」
ゼフが大声で家族を呼ぶ。
すぐにエリナたちが駆け込んできて、俺を囲んで歓声が上がった。
「まあ! まだ四ヶ月なのに。やっぱりこの子、ハルトマンの血を色濃く継いでいるわね」
「リリア、すごいよ! 僕が初めて寝返りできたのは半年過ぎてからだってパパが言ってたのに!」
「……ふむ。身体能力の異常な発達。あるいは、無意識のうちに魔力による肉体補強を行っている可能性があるね」
次男のカイルだけが、眼鏡を光らせて鋭い指摘をする。
ドキリとしたが、ゼフの親バカパワーがそれをかき消した。
「ははは! カイル、考えすぎだよ。リリアはただ、パパに会いたくて頑張ったんだ。そうだよね、リリア?」
ゼフが、酒臭い息を吐きながら俺の顔に頬ずりをしてくる。
……臭い。だが、その臭いですら、今の俺には愛おしい。
俺はゼフの髭面に手を伸ばし、その口元をペチペチと叩いた。
(酒を……その酒を、俺にも一滴、垂らしてみろ……。そうすれば、貴様のこれまでの無礼を全て許してやってもいい……!)
「おお、リリアが僕の口を触っている! パパとお喋りしたいのかな? よしよし、リリア。パパはここにいるよ」
通じない。全く通じない。
この男、戦場での鋭さはどこへ行ったんだ。
結局、俺は酒を一口も掠め取ることができないまま、再びエリナの胸に抱かれ、寝かしつけられることになった。
(……覚えていろよ、ゼフ・ハルトマン)
俺は暗闇の中で、静かに誓った。
今はまだ、胃袋も肝臓も赤ん坊だ。酒を飲めば、文字通り死んでしまうかもしれない。
だが、この肉体が成長し、俺がこの家の主導権を握った暁には――。
(この屋敷の地下にある酒蔵、その全てを俺の領土にしてやる。それまでは……あのドロドロの野菜で、牙を研いでやる)
不本意な離乳食。酒への渇望。
かつての剣聖は、屈辱と食欲の間でもがきながら、着実にその『力』を蓄えていく。
離乳食が酒の味に変わる日は遠いが、俺の魔力は、その渇きを糧にしてさらに密度を増していくのだった。
「ふあぁ……(……明日の朝は、もっと美味い野菜を出せよ、エリナ……)」
俺は酒の香りの残滓を夢に見ながら、二度目の人生、数え切れないほどの敗北感を抱いて眠りについた。
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次回お楽しみに。




