第十七話:読書!次男の悩みは深すぎて!?
ハルトマン邸の図書室は、俺にとって第二の修練場だ。
二歳になった俺、リリア・ハルトマンは、今日も今日とて「よちよち」と、だが最短の歩法を刻みながら、膨大な書物が並ぶ棚の間を徘徊していた。
(……ふむ、次男坊の姿が見えん。いつもなら、あの角の椅子で小難しい顔をして本に齧り付いているはずだが)
次男のカイル。四歳にして王国の魔導理論や兵法を読み漁る、ハルトマン家の知略担当だ。
普段は冷静沈着で、俺の「正体」を一番鋭く疑ってくる油断ならない若造だが、ここ数日、あいつの周囲に漂う魔力が妙に湿っている。
剣聖の勘が告げている。あいつ、壁にぶち当たっていやがるな。
棚の影に、小さな背中を見つけた。
カイルは椅子にも座らず、床に膝を抱えて座り込んでいた。手元には一冊の戦術書が開かれているが、その瞳は文字を追っていない。
(……暗い。戦場なら、背後から一突きにされるほどの『迷い』のオーラだ)
俺は音もなくカイルの横まで歩み寄り、じっとその横顔を覗き込んだ。
カイルは俺の気配に気づくと、慌てて眼鏡を拭い、無理に口角を上げた。
「……リリアか。ごめんね、お兄ちゃん、ちょっと考え事をしてたんだ。……君にはまだ、早すぎる悩みだよ」
(……五十歳のおじさんに、早い悩みなどこの世にあるか。言ってみろ、小僧)
俺は無言で、カイルの隣に「どすん」と腰を下ろした。
カイルは俺の小さな手を見つめ、溜息を吐きながら独り言のように漏らし始めた。
「……シオン兄上は、リリアの『導き』で、あんなに凄い突きを身につけた。父上も、君を『女神の生まれ変わり』だと信じている。……でも、僕はダメだ。剣を握っても腕は震えるし、魔法の才能だって母上には遠く及ばない。……僕は、君を守れるような『強いハルトマン』にはなれないんだ」
(……ほう。そんなことで悩んでいたのか)
カイルの悩みは、この武門の家系において「知」を選んだ者が避けて通れない劣等感だった。
王国最強の騎士である父。猪突猛進だが圧倒的な才能を見せ始めた長男。
そして、なぜか神格化されつつある、末娘のリリア。
その間に挟まれた四歳の知略派は、自分の「非力な言葉と知識」が、いかに無力なものかと思い詰めているらしい。
「リリア。君のあの澄んだ目を見ていると、僕の打算や臆病さが見透かされているようで、少し怖いんだ。……僕は、君にふさわしい兄じゃないのかもしれない」
カイルの肩が震える。
……チッ。どいつもこいつも、俺を勝手に神聖視しやがって。
俺が剣聖アルスとして生きていた頃、戦場を動かしていたのは、一振りの剣だけではなかった。
一万の軍勢を盤上で弄び、剣を持たずして敵を自滅させる――そんな『軍師』たちの恐ろしさを、俺は嫌というほど知っている。
(……いいか、カイル。剣はただの棒だ。それをどこに、いつ、どう振り下ろすかを決めるのは、肉体ではなく『頭脳』だ)
俺は立ち上がり、カイルの膝の上に置いてあった分厚い戦術書を「バシッ」と叩いた。
そして、棚の中段から、別の本を指差した。
『古今東西、寡兵を以て大軍を破りし奇策集』。
「あ、あうー。……あー、こー、おむー」
俺はカイルの目を見て、精一杯の「剣聖のアドバイス」を込めて告げた。
――剣が振れないなら、世界を振れ。
――腕力が足りないなら、理で敵を絡め取れ。
――お前の武器は、その震える腕ではなく、その冷静な頭脳の中に眠っている。
カイルは、俺が指差した本と、俺の瞳を交互に見た。
「……この本? これは、英雄王が知略だけで敵の包囲網を脱出した記録……。リリア、君は、僕に……『力』以外の戦い方があると言いたいのかい?」
(……察しが良くて助かる。そうだ。お前は俺やゼフのような脳筋になろうとするな。お前はお前だけの戦場を支配しろ)
俺はカイルの鼻を、小さな指で「つん」と突いた。
そこに、微かな魔力を通す。
それは攻撃でも強化でもない。ただ、カイルの脳内の曇りを晴らす、静かな『共鳴』の振動だ。
カイルの瞳に、一筋の光が戻った。
彼は吸い込まれるように、俺が指差した本を手に取り、夢中でページをめくり始めた。
「……そうか。そうだよ。僕はシオン兄上になる必要はないんだ。僕は、父上や兄上が戦いやすい『道』を作る。……それが、僕がリリアを守るための、僕だけの剣なんだ……!」
カイルの周囲に漂っていた湿った魔力が、一瞬で鋭利な知性の波動へと変わった。
彼は本を抱きしめ、俺の前に跪いた。……またかよ。
「リリア。君は、僕が自分の闇に溺れそうになるのを、その一言で救ってくれたんだね。……君は、ただの妹じゃない。……僕の魂の、北極星だ」
(……北極星って。おじさんをそんなキラキラしたものに例えるな。恥ずかしいだろ)
カイルの眼鏡の奥で、知的な狂気(情熱)が再燃した。
「分かったよ、リリア! 僕は決めた。僕は世界中の知識を飲み込み、君に傷一つ負わせない完璧な『盤面』を作ってみせる! そのためには、今の勉強量じゃ足りない……! 父上に、王立図書館への特別入館許可を頼んでくるよ!」
カイルは弾かれたように立ち上がり、俺の頬に軽くキスをすると(俺は反射的に裏拳を入れそうになったが耐えた)、風のように図書室を飛び出していった。
「パパ! エリナ様! 僕は勉強します! リリアのために、僕は知の頂点を目指します!!」
廊下から、カイルの異様な叫び声が聞こえてくる。
……ふぅ。立ち直るのはいいが、あいつもあいつで極端だな。
図書室に、再び静寂が戻る。
俺は独り、カイルが座っていた場所に腰を下ろし、溜息を吐いた。
「…………やれやれ。これでおじさんの知の聖域も、より過激な場所になりそうだな」
俺はカイルが広げたままにしていた本をパタンと閉じ、自分もまた、一冊の地理書を手に取った。
次男カイル。
彼が「知の怪物」として覚醒するきっかけが、二歳の妹の「あうー」という一言だったことは、後に王国史に記されることになるかもしれない。……まあ、俺にとっては単なる部下の教育の一つに過ぎないがな。
(……さて、俺も負けてられん。あいつが完璧な盤面を作るなら、俺はそれを一撃でぶち壊す『最強の駒』であり続けなければな)
俺は独り、暗い図書室でニヤリと笑った。
元剣聖の再起計画は、知略担当の覚醒という予期せぬブーストを受け、さらなる加速を始めるのだった。
「だぁー、ばぶ!(よし、次男坊。せいぜい精進しろ。おじさんが後ろから見張っててやるからな!)」
ハルトマン邸の午後は、知性の炎を燃やす少年の足音と共に、騒がしくも希望に満ちた時を刻んでいくのだった。
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次回お楽しみに。




