第十話:潜入!深夜の道場破り!?
深夜二時。ハルトマン邸は静寂の帳に包まれていた。
この時間、最強の盾ことゼフ・ハルトマンは、愛妻エリナの隣で幸せな寝息を立てているはずだ。知略派の次男カイルは難解な魔導書を抱えたまま夢の中だろうし、猪突猛進の長男シオンにいたっては、寝相の悪さでベッドから転げ落ちていても気づかないだろう。
(……好機だ。今こそ、屈辱の『ピンクのうさぎ』から解放される時が来た)
俺ことリリア・ハルトマンは、月明かりが差し込む子供部屋で、静かに、そして素早く動いた。
一歳児向けの柵付きベビーベッド。普通なら脱出不可能なこの檻も、全身に魔力を纏わせた俺にとっては、ただの「ちょっとした障害物」に過ぎない。俺は柵を足場にして音もなく跳ね、床に着地した。
ターゲットは、邸宅の離れにある『ハルトマン流防衛剣術・総本部道場』だ。
昼間、ゼフがあそこに一本の業物を運び込むのを見た。王国騎士団に伝わる伝統的な長剣――木刀ではない、本物の『鉄』だ。
(本物の剣。ああ、その響きだけで酒が三杯は飲める。……まあ、今は白湯しか飲ませてもらえんがな)
俺は「纏う魔力」を極限まで絞り込み、足音と気配を完全に消した。
前世の俺が、暗殺ギルドの本拠地へ殴り込んだ時に使った隠密歩法『影踏み』。
それを一歳児のぷにぷにとした足の裏で行う。……見た目は実にシュールだが、その実、一国の軍隊でも俺の接近には気づくまい。
廊下を進み、リビングを抜け、庭へと続く重い扉の前に立つ。
この扉のノブは、俺の身長の倍近い位置にある。だが、俺は慌てない。
(纏え、跳躍のバネを……!)
足腰に魔力を集中させ、垂直に跳んだ。
空中でノブを掴み、自分の体重(と魔力による加重)を利用して強引に下げる。
ガチャリ。……無音に近い。
俺は着地と同時に扉をすり抜け、深夜の庭へと躍り出た。
「ふぅ……。夜風が身に染みるな。……赤ん坊の肌には少々刺激が強いが、剣聖の魂を冷やすには丁度いい」
俺は短い手足で庭を横断し、ついに道場の入り口へ到達した。
扉は閉ざされていたが、施錠は甘い。針金一本あれば開けられるが、今の俺にはそんな器用な指先はない。代わりに、俺は扉の隙間に指をかけ、魔力による剛力で横へ引いた。
ガラララ……ッ!
(……っ!? マズい、油断した! 道場の戸車、整備不良じゃないかゼフ!)
静寂を裂く乾いた音。俺は即座に庭の茂みへと転がり込み、母屋の様子を伺った。
……十秒、二十秒。
幸い、誰も起きてくる気配はない。親バカどもの眠りの深さに感謝しつつ、俺は道場の中へと潜入した。
道場の中は、冷たい空気と、古びた木材、そして微かな油の匂いが満ちていた。
俺の心臓が高鳴る。
中央の壁、ハルトマン家の家紋が彫られた装飾棚。そこに、目的の『長剣』が鎮座していた。
「……おお……これだ。これだよ」
俺はヨチヨチと(だが殺気を孕んだ足取りで)棚の下へ向かった。
本物の剣。月光を反射する鞘。その美しさに、俺の瞳が剣聖の輝きを取り戻す。
俺は棚に登り、その長剣に手をかけた。
(重い。……だが、それがいい!)
俺は魔力の出力を最大に引き上げ、全身を鋼鉄の柱に変えた。
一歳児の腕に、騎士三人をなぎ倒すほどの膂力を込め、長剣を引き抜く。
――キィィィン……ッ!
鋭い金属音が道場に響き、白銀の刃が月光を吸い取った。
美しい。ゼフの趣味は堅実だが、武器の選定眼だけは本物だ。重心のバランス、刃紋の冴え。これは王国でも指折りの名工が打った逸品に違いない。
(よし、一振りだ。俺の魂と、この肉体の現在地を確認させてもらうぞ)
俺は長剣を正眼に構えた。
一歳児にはあまりに長すぎる剣。刃先が床につきそうだが、俺は魔力で強引に水平を保つ。
狙うは、道場の隅にある厚手の木人(練習用の木像)だ。
ゼフの鉄壁の防御を想定し、その隙間を縫って心臓を貫く一撃。
(吸って、吐いて……。世界を、斬る)
ドォォッ!!
俺の内側で、圧縮された魔力が臨界点を超えた。
足元の床板が、俺の踏み込みの圧力に耐えきれずミシリと軋む。
俺は、最速の一閃を放とうとし――。
「……あ。……あ、あ、あ、あああぁぁぁっ!?」
放つ寸前で、俺は気づいた。
――重い。
いや、魔力で持ち上げることはできる。だが、この「一歳児の体重」という物理法則が、俺の牙を剥いたのだ。
俺が剣を振ろうとした瞬間、俺の体の方が剣の質量に振り回され、独楽のように回転し始めたのである。
(な、ななな、なんだこの遠心力はぁぁぁっ!?)
ブン、ブン、ブンッ!
俺は、巨大な剣を振り回しているのではなく、巨大な剣に「振り回されて」いた。
魔力で強化した足裏が床を滑り、俺の小さな体は制御不能の暴走旋回と化した。
ガガガガガッ! と剣先が道場の床を削り、火花が散る。
(止まれ……! 止まるんだ、俺の体! これでは剣聖ではなく、ただの回転遊具ではないか!)
俺は必死に魔力を逆噴射させ、なんとか回転を止めた。
だが、その勢いのまま、俺は道場の壁に向かって盛大にすっ飛んでいった。
ドッゴォォォォン!!
衝撃波が道場を揺らし、壁の一部にリリアの形をした綺麗な穴が開きかけた。
(……ぐはっ、ぬぅ。……流石に、この比重の差は魔力だけでは補えんか……)
俺は床に這いつくばり、頭上の星を見上げた。
一歳児が本物の長剣を振る。それは、蟻が大砲を撃とうとするようなものだったのだ。
「……ん? 今、道場の方で何か音がしなかったかい?」
母屋の方から、聞き覚えのある、そして今最も聞きたくない声が響いた。
パパ(ゼフ)だ。起きた。確実に起きたぞ。
(……ヤバい。これはマジでヤバい!)
俺は超速で這い出し、放り投げられた長剣を鞘に押し込み、棚へと戻した。
床についた傷? ……明日、ネズミのせいにでもしよう。
俺は壁の穴(幸い、凹んだ程度だった)を隠すようにタペストリーを整え、道場を飛び出した。
全速力のハイハイ、魔力ブースト版。
庭を横切り、リビングの扉をこじ開け、階段を駆け上がり、子供部屋のベビーベッドへとダイブする。
布団を被り、横にいた「ピンクのうさぎ」を反射的に抱きしめた、その三秒後。
バタン! とドアが開いた。
「リリア!? 大丈夫かい、今の大きな音……。おやおや、スースーと寝息を立てて……。ははは、寝返りでも打って壁にぶつかったのかな?」
ゼフが、心配そうな、それでいて安心したような顔で俺を覗き込む。
俺は必死で「寝ている赤ん坊」を演じた。心拍数を魔力で強引に抑え、規則正しい呼吸を刻む。
「……なんだ。やっぱり僕の気のせいか。リリアが夜中に道場で剣を振るなんて、あるわけないしね。ははは、親バカも極まれりだ」
ゼフは俺の額に優しくキスをすると、部屋の電気を消して出て行った。
……バタン、と扉が閉まる音。
「…………ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ」
俺は布団の中から這い出し、暗闇の中で天井を仰いだ。
全身、汗びっしょりだ。剣を振った疲れよりも、バレかけた心労の方が大きい。
(……道場破り、失敗、か。……クソ、物理法則め。質量保存の法則め。お前らさえいなければ、今頃ゼフの首は……いや、道場の木人は粉々だったというのに)
俺は自分の、まだ短いぷにぷにとした腕を見つめた。
魔力は十分。技術は完璧。
足りないのは、この剣の重さに耐えうる、強固な「肉体の重み」。
(……もっと。もっと食わねばならん。あのドロドロの離乳食を。……そして、もっと筋肉をつけなければ。……剣聖が離乳食をおかわりするなど、前世の俺が聞いたら腰を抜かすだろうが……)
俺は屈辱に震えながら、隣のピンクのうさぎをさらに強く抱きしめた。
潜入、失敗。
道場破り、返り討ち(セルフ)。
一歳児リリアの夜の冒険は、自らの小ささを痛感するという、剣聖としてのプライドがズタズタになる結果に終わった。
だが、俺の瞳には、かつてないほど激しい闘志の炎が燃え盛っていた。
(見ていろ、ゼフ。……次の潜入の時は……貴様の長剣を、爪楊枝のように扱ってやるからな!)
俺は暗闇の中でバブバブと呪詛を呟きながら、明日からの「離乳食完食&筋トレ計画」をより過激なものへと書き換えていくのだった。
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次回お楽しみに。




