リングの野蛮人 トニー・ガレント(1910-1979)
人間相手だけでなく動物と闘うというのはまともな神経ではありえないだろう。まさに総合格闘技などの枠を超えた最強霊長類の一人であった。
一九三〇年代、およそボクサーらしからぬ175cm100kg超のビヤ樽体型でリング狭しと暴れまわった天衣無縫のブルファイターである。
21世紀初頭にもバター・ビーンという同じようなビヤ樽体型のヘビー級ボクサーが人気を集めたことがあったが、所詮は道化師的存在の前座ボクサーに過ぎない。その点、ガレントは正真正銘、メインエベンター級の実力者で、時の世界チャンピオン、ジョー・ルイスからダウンを奪ったほどの強打が売り物だった。
ニュージャージー州オレンジで貧しいイタリア系移民の石屋の次男坊として生まれたガレントは、子供の頃は毎日喧嘩に明け暮れ、身を守るためにボクシングを始めたという。
十八歳の誕生日に初めてプロのリングを踏んだガレントは、タフさだけが取り柄の不器用なローカルファイターだったが、一九三〇年六月からわずか1年で15連勝を飾り、この間にボクシングの殿堂MSGでのデビューも果たしている。
ボクシング自体は荒削りであっても、クラウチングスタイルから伸び上がるようにして放つ左フックはフォロースルーが効いて内側に食い込んでくるため見切りにくく、当れば大男でも一撃でダウンさせるだけの破壊力を秘めていた。それも単発の大振りパンチならまだしも、ダブルでも打てるだけにカウンターを取るのも容易なことではなかった。ただし、攻撃のパターンは単調そのもので、あとは右クロスくらいしかなかったため、早いラウンドで決着をつけられなければ、後半はパンチが空転することが多かった。
ガレントのもう一つの武器は反則攻撃である。ヘビー級の中ではリーチが短いガレントは、アウトレンジからの攻撃はロングフックの一辺倒で、相手に足を使われてしまうと手が出ない。かといって懐に素早くステップインするだけのスピードもない彼にとって至近距離でパンチを打ち込む唯一のチャンスがクリンチだった。クリンチの最中に相手の頭を抱えてのサミングや肘打ちはもとより、ブレイクに入ったレフェリーの頭越しに側頭部にパンチをねじ込むことなどお手の物だった。
一九三二年のアーニー・シャーフ戦は、世界ランキング3位のシャーフの世界前哨戦として組まれたカードだったが、何とか判定勝ちに持ち込んだシャーフが反則を駆使したガレントのラフファイトによるダメージが大きく、控え室で倒れ込んでしまったのに比べ、ガレントの方はケロリとした顔でそそくさと家路についたというから何とも人を食った男である。
リングの上と同様に私生活でもガレントは常識外れの男だった。とにかく酒と食事には目がなく、無差別級で減量の心配がないのをいいことに試合前でもガツガツとよく食べ、浴びるように酒を飲んだ。平均的な彼の一食は、大量のスパゲッティとともに六羽分のチキンをハーフガロン(約2リットル)の赤ワインかビールで流し込むというもの。特に酒は、禁酒法時代に父親が作っていた密造酒を子供の頃からしょっちゅう味見しているうちにどっぷりはまってしまいほとんどアル中だった。一九三七年のジャック・モラン戦などは、二日酔いのままリングに上がって二ラウンドKO勝ちを収めたにもかかわらず、試合が終わって正気に帰った時にはリング上でのことは全く覚えていなかった。
その他、一九三二年のアーサー・デ・クー戦では、よりによって試合前に友人とホットドッグが50個食べられるかどうか10ドルで賭けをやったところ、実に52個!も平らげトランクスが入らなくなってしまった。仕方なくトランクスを切り裂いて無理やり太鼓腹を押し込むようにしてリングに上がったが、身体が重くて動けない。それでも生涯テンカウントを聞いたことがないタフネスだけは大したもので、ホットドックがある程度消化されてようやく身体が動かせるようになった四ラウンドに入るや、自慢の左フック一撃で192cmの大男デ・クーをナックアウトして見せたのだから恐れ入る。
やがてファイトマネーで酒場を経営するようになると、暴飲暴食にも拍車がかかり成績も下降線を描くようになった。なにしろ葉巻を吹かしながらパンチングボールを叩くわ、トレーニングの間にビールをがぶ飲みするわ、とてもボクサーの生活とは思えない。性格的にも粗野でわがままで短気ときているから、周囲の者はたまったものではない。リングでは堂に入った悪役ぶりで人気のあったガレントも、元トレーナーの一人レイ・アーセルに言わせればこうだ。「本当にトニーのことを好きなヤツなんていやしない。そんなのはヤツの酒場の飲んだくれ連中だけさ」
不摂生が祟って落ち目になった頃のガレントは、若禿と老け顔のせいでさえないロートルボクサーのような風貌だったが、年齢的には20代半ば過ぎ、ヘビー級ボクサーとしてはもう一花咲かせられる年齢だった。
そんなガレントを再生させたのが、マックス・シュメリングやマイク・マクティーグ(世界ライトヘビー級王者)らのマネージャーとして知られるジョー・ジェイコブスである。
ガレントの実力とタレント性を直感的に見抜いたジェイコブスは、早速マネージメント契約を結ぶと本格的な売り出しにかかった。元来単細胞で自己顕示欲の強いガレントのこと、ジェイコブスの宣伝に乗せられているうちに再び勝ち味を覚え、一九三七年七月から一九三九年二月にかけて自己記録を更新する11連続KO勝利を記録した。
かくして一九三九年六月二十三日、ヤンキースタジアムに集まった三万人の大観衆の前で、リングの野蛮人は近代最強のヘビー級、ジョー・ルイスとの夢の対決にこぎつけたのだった。
攻防のいずれにおいても同時代のヘビー級の中では抜きん出た存在のルイスとまるでベアナックルファイターの生き残りのようなガレントではとても勝負にならないという声も多かったこの一戦、オープニングラウンドからスリリングな展開が待ち受けていた。
慎重に距離を取るルイスに対し、いきなりガレントが突っかけてきた。ワンパターンの左フックをよけたつもりが、ガレントの腕が予想外に伸び、この一発でルイスはコーナーまで吹っ飛ばされた。ルイスの楽勝を予想していた3万の観衆はこれで一気にヒートアップ。
丸太のような腕をぶんぶん振り回してルイスを追いかけまわすガレントの姿に、熱狂的なガレントファンは「トニーならやってくれるかも」と淡い期待を抱いたのも束の間、二ラウンドに入ると冷静さを取り戻したルイスが多彩なコンビネーションでガレントの顔面をずたずたに引き裂いた。全く手も足も出なくなったガレントはついにルイスの右強打を浴びてダウン。もはやKOは時間の問題となった。
三ラウンド、ルイスが仕上げにかかる。完全にガレントのパンチの軌道を見切ったルイスは、パンチングボールを叩いているかのように容赦なくパンチを浴びせてゆく。
ルイスは怒っていたのだ。試合前のセレモニーの最中もチャンピオンに敬意を払うどころか小馬鹿にしたような態度を取り、挙句の果てには観客席にいた妻マーバに向かってセクハラまがいの卑猥な罵声を浴びせ続けたガレントのことをルイスは心から憎んでいた。
そのことがルイスに早々とKOしてしまうより徹底的に痛めつけようという気持ちを駆り立てていたのかもしれない。顔面が血まみれになり糸の切れたマリオネットのようにリングをさまようガレントは誰が見てもレームダック(死に体)だった。
そろそろ頃合いと見たルイスが距離を詰めた瞬間、それを待っていたかのようなガレント渾身の左フックが振り下ろされた。よもやの反撃に反応が遅れたルイスは、顎をかすめられただけでリングに横転した。
ルイスはシュメリングからKOされ、ブラドックからもダウンを奪われているように決して打たれ強いとは言えない。もしガレントのリーチがマックス・ベアやプリモ・カルネラのように長く、クリーンヒットしていたとしたら試合の行方はどうなっていたかわからない。
幸いダメージが浅くカウント2で立ち上がったルイスは、このラウンドをしのぐと、四ラウンドにはすでに余力の残っていないガレントから二度目のダウンを奪ったところでレフェリーストップ。惜しくも野望は水泡に帰した。
結果だけ見ればルイスの楽勝だが、試合後のルイスは「これまで戦った中で最もタフなボクサー」と舌を巻いていた。
ルイス戦の健闘ぶりが認められたガレントには次々と大物選手との対戦オファーが舞い込むようになった。その第一弾が、元チャンピオンのマックス・ベアをKOして次期世界王者候補の筆頭に躍り出た白人強打者ルー・ノヴァだった。
一九三九年九月十五日、フィラデルフィア市民球場は修羅場と化した。身長差が15cm以上あり、ルイスに筋肉をつけて一回り大きくしたようなノヴァとまともにやりあっては勝ち目がないと踏んだガレントは、徹底した反則攻撃で若き強打者を弄んだ。
かつてのヘビー級王者ジーン・タニーがミドル級のハリー・グレブからダーティー・タクティクスの洗礼を受け、生涯唯一の黒星を付けられた時もそうだったが、トップアマ出身の選手の大半は戦い方がクリーンなため、職業選手ならではのえげつないファイトには意外ともろい。全米アマチュア王者出身のノヴァも同様で、この手のラフファイトに対する免疫が出来ていなかった。
右目をサミングで抉られほとんど視界を失ったノヴァは、肘打ちとローブローをしたたかに浴び、五度のダウンを喫したあげくに十四ラウンドでストップされた。特に右目は失明寸前の損傷を受けており、入院から復帰まで一年を要してしまった。再起後も再びベアをKOして世界ランキングに返り咲き、ジョー・ルイスに挑戦する機会が与えられるも、六ラウンドKOで撃退され、王座には届かなかった。
関係者によると、ノヴァのターニングポイントはガレント戦だったという。もしここで右目を痛めず、ブランクを作らないままルイスに挑戦していたとすれば、ヘビー級の歴史は変わっていたかも知れない。
ノヴァ戦の勝利でヘビー級トップコンテンダーとなったガレントだったが、その後、マックス、バディのベア兄弟に連敗を喫し、タイトル争いから脱落。しばらくはレフェリーとしてプロレスの興行に参加していた。
ガレント凋落のきっかけとなったマックス・ベア戦は、試合前から敗北の伏線があった。
試合当日というのに、ガレントは自分の経営する酒場で大ボウル一杯分のスパゲティとミートボールを半ダースのビールで流し込み上機嫌だった。ところが些細な事から弟と口論になり、つかみかかろうとしたところ弟が投げつけたグラスが口に当たり大きな裂傷を負ってしまう。本来ならとてもリングに立てるようなコンディションではなかったが、タフさが売りのガレントは強行出場したあげくに、ベアから口元を狙い打たれて血まみれになり八ラウンドで棄権TKO負けに退いた。
ところでガレントとベアと言えば、リングの道化者としても双璧と言われる存在である。実際には仲良くはなかったそうだが、リングでの“あ・うん”の呼吸はピッタリというか、真剣勝負を喜劇にしてしまう点ではうまくかみ合っていた。この試合でもベアがクリンチやブレークの際にガレントをののしれば、熱くなったガレントがベアを追い回すシーンが何度も見られたが、大振りのパンチをひらりひらりとかわしながらにやけた表情で挑発を続けるベアと、禿頭から湯気が立ちそうなほど興奮したガレントの姿はまるで“トムとジェリー”だった。エキサイトしたガレントが反則パンチを繰り出せば、「勘弁してくれよ」とばかりに両手を広げておどけたポーズを取るベアの姿に観客も大爆笑だったが、ベアの繰り出すパンチ自体は強烈無比でガレントの顔は見る見るうちに腫れ上がってきたのだから、どこまでが本気かわからないような試合だった。
ルイス戦を控えたガレントがキャンプを張っている時も、陣中見舞いに訪れたベアがスパーリングパートナーをかってでるかと思いきや、何と二人でプロレスを始め、ベアがピンフォ-ルを奪うという一幕もあった。とにかく二人とも目立つことが大好きで、エンターティナーとしての才能は一流だった。もし二人とも本気でボクシングに取り組んでいたら、一九三〇年代後半から四〇年代にかけてのヘビー級は、ルイスの独り舞台にはならなかったかもしれない。
ガレントの現役最後の二戦はいずれもアルバイトでボクシングをやっている二流どころのプロレスラーだった。その程度のレスラーならストリートファイトでも叩きのめしているであろうガレントは二人とも軽々とKOしているが、そのうちの一人は、後に悪役として名を馳せるフレッド・ブラッシーだった。
ボクサーを引退したガレントは、今度はプロレスラー“ツートン・ガレント”として再びファンの前に姿を現した。ボクサー時代から得意なキャラで人気者だったガレントだけに、シカゴのフレッド・コーラー、ピッツバーグのトーツ・モンド、モントリオールのテディ・クイーンといった大物プロモーターも売り出しに力を入れ、一躍人気レスラーとなった。
プロレスの世界に入って三年目の一九五一年秋、フロリダ遠征の最中にエバーグレーズに立ち寄った時のこと。地元の名物であるセミノール・インディアンとアメリカアリゲーターの格闘ショーを見物していたガレントは、その迫力に魅入られ、なんと飛び入りで鰐との格闘に挑んだのだ。プールの中でのくんずほぐれつの末、ガレントは鰐の頭をプールの壁に叩きつけて失神させてしまった。鰐の扱いに慣れているインディアンではなく、素人が鰐に勝ったことは地元でも評判となり、ガレントは「鰐に勝った男」としてさらに知名度が高まった。
ところが困ったことが起きた。鰐との死闘にめくるめく興奮を覚えたガレントは、人間相手のプロレスに飽き足らなくなり、試合も投げやりになってきたため人気は急下降。ついにプロモーターから干されてしまったのだ。
そんな彼を異端の世界に誘い込んだのが、当時トーツ・モンドの下でマッチメイキングやマネージメントに携わっていたウィリー・ギルゼンバークである。ボクサー時代から長い付き合いのギルゼンバークはガレントの望みどおり動物との格闘戦の企画に乗り出した。
一九五二年の暮れ、カナダのサスカチュワンで行われたガレント対ピューマの一戦は、肩を爪で切り裂かれながらも果敢にパンチや首絞めで応戦したガレントの前にピューマが戦意を喪失して試合放棄という結果だったが、この一種の残酷ショーは大いに評判を呼び、ガレントは“キワモノ”レスラーとして再び各地で引っ張りだことなった。
その人気たるや英王室劇場のロイヤルアルバートホールで興行が行われたほどだから察しがつくだろう。この時は口網を被せたライオンと格闘中にスコットランドヤードから中止命令が入ったが、コロンビア遠征ではアナコンダにアバラを折られ、シンガポールではベンガル虎に肩と腕をへし折られて死線をさまようなど死と背中合わせの“猛獣プロレス”はどんどんエスカレートしていった。
四十歳を過ぎてもガレントのタフネスとハードパンチは健在で、ニュージャージー州オークリッジでは、三匹いればライオンを倒すといわれる闘犬のマスチフを素手で殴り殺している。しかし最も傑作なのはシアトルで行われた二メートルの大ダコとの水中デスマッチであろう。
特設の水槽リングはたちまちタコの吐く墨で真っ暗になってしまったが、濁りが収まってくると頭蓋骨を粉砕された大ダコとその嘴でつつかれて血まみれになったガレントがぐったりしている姿が見えてきた。もはや水槽をよじ登るだけの体力も残っていなかったのだ。
一九六三年頃までガレントの猛獣プロレスは続いたが、その人気ぶりとは裏腹にガレントはレスラー仲間からは気味悪がられて、プロレスのリングに上がる機会は訪れなかった。
一方、ガレントの猛獣プロレスのプロモートで大儲けしたギルゼンバークは、“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノを擁し、一九六〇年代に全米プロレス界の最大派閥となったWWWFの会長に納まっている。また、ガレントにKOされたブラッシーもWWWFの功労者として名誉の殿堂入りを果たしているが、彼の場合はノヴァとは違ってガレントにプロボクサーとしての引導を渡されたことが、プロレスラーとしての成功につながったと言えるかもしれない。
華々しい表の世界でスポットライトを浴びる機会は少なかったかもしれないが、ボクシングとプロレスという二大格闘技の裏方として活躍したガレントは、格闘技に笑いをもたらした奇人だった。
”熊殺し”で有名な極真空手のウィリー・ウィリアムズがプロレスラーの前田日明と闘った時、前田はウイリーの素手のパンチを腹に受けてもなぜか倒れず、大方の予想どおり腕ひしぎ逆十字でKO勝ちしたが、マスチフを殴り殺すガレントが手加減無しで向かってきたら、慌てふためいてリングから逃げ出したかもしれない。




