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先知  作者: 函緑
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3/5

疑惑

「記者の仕事は歴史の証人であることだ。真実にできるだけ近づき、それを外に出す。」

“It’s a journalist’s job to be a witness to history… to get as near as we can, in an imperfect world, to the truth and get the truth out.” — ロバート・フィスク

 午後の区議会棟は、会期明けの気の抜けた静けさに満ちていた。廊下の自販機がときおり低く唸り、薄い紙コップのコーヒーの匂いが冬の光に溶けて伸びる。

 控室のドアには「面談」の札。長机の片側に若い政策秘書が座っている。黒いスーツ、細いネクタイ。視線は柔らかいのに、肘の角度だけがかたい。名札の紐が、呼吸に合わせて小さく揺れていた。


「お時間いただきます。フリーの神谷です」


 名刺を滑らせ、ボイスレコーダーを机の中央に置く。赤い点がひとつ灯る。


「で、今日は?」

「指名競争入札が三件続けて、同じ地元企業に落ちています。偶然でしょうか」

「ええ、偶然ですよ。実績のある会社ですから」


 神谷はうなずかない。うなずかないことに、相手がほんの少し戸惑う。その戸惑いもまた、彼にとってはひとつの数だった。

 相手の呼吸の間、語尾の滞空時間、視線の移動、紙をめくる指の加速度。神谷の頭の中には、そうしたものが数字のように並ぶ。説明できる仕組みではないし、説明する必要もない。ただ、それらが揃うときはたいてい事実で、乱れるときはたいてい別の物語が隠れている。


「三件とも、公告の翌朝に見積書が役所に届いている。早いですね」

「体制が整ってるんでしょう。いや、あの会社、ほら、以前から——」

「翌朝です」

「……ええ」


 まばたきがひとつ、半拍遅れる。

 神谷は手元の紙端を軽く正し、もう一枚の資料を机の上へ出した。公告PDFのタイムスタンプ。企業側から届いた見積もり受領メールのヘッダ。そのヘッダには、ひとつだけ非公開の宛先が紛れ込んでいる。


「このアドレスに、なにか説明はありますか」

「……担当者の、個人かなにかで」

「役所の内部アドレスですね。しかも、公告の前夜に仕様書のドラフトが私用メールから送られている。件名は『下書き』。本文には『早めに準備を』」


 秘書がわずかに前屈みになる。椅子の脚が床を擦って、小さな音を立てた。額の汗腺がひとつ開くのが、空気でわかる。

 神谷は追い込まない。沈黙を置く。沈黙は、相手の中にあるいちばん楽な物語を、自分で選ばせる。


「議員は……知りません。連絡は、後援会のルートで。社長のほうから」

「口利きは、どちらから始まりました?」

「……社長から、です。選挙のときに、いろいろ世話になって」


 レコーダーの赤い点は淡々と灯り続ける。神谷は名刺の裏に、いつもの短い書式でメモを落とした。


 公告前夜/仕様漏えい/後援会ライン

 非公開宛先/私用→公用


 書きながら、相手の視線が机の右上へ逃げる癖も拾っておく。逃げる角度は、だいたい二十度。数字にしてしまえば、感情は後ろへ下がる。


「今日はここまで。文書確認は後ほど。うちの弁護士からも」

「は、はい……」


 神谷は立ち上がり、会釈して部屋を出た。廊下の突き当たりに古いコピー機がある。自販機の薄いコーヒーを飲み、メモの一部をその場でコピーし、一部を弁護士宛の封筒に入れて投函する。

 用心深さは、彼が別の職にいたころから身についた癖だった。あのころ、嘘は自分の口からも出た。顧客の前で、上司の前で、遅延や欠陥の所在を言い換え、言い方で包んだ。吐くたびに、胃の奥が白くなる感覚があった。

 ホームの風が胸を抜けていく記憶が、一瞬だけ通り過ぎる。彼はその記憶の方法を思い出さない。思い出さないと決めている。今は、取材の手順だけを思い出せばいい。


 *


 夕方、都心の雑居ビル五階。地方紙系の小さな編集部。フリー記者にも机を貸してくれる数少ない場所だ。

 蛍光灯が一定の音で唸り、壁際のテレビは消音のままニュースの帯を流し続けている。遠くの部屋で掃除機の音が一度だけして、すぐ止んだ。


 神谷は書類の束をデスクに置き、要点から話す。指名の偏り、公告前夜の仕様漏えい、後援会ルートの口利き。固有名詞は最後にまとめる。見出しの候補は三つ。「公告前夜」「後援会」「私用→公用」。


 デスクの男は五十代後半、白髪に丸縁。書類をぱらぱらとめくり、紙の重さで当たりを取る癖がある。ときどき紙の角で机をトンと叩く。


「結構なスクープだねぇ……」


 デスクは紙束を親指で揃えながら、ちらと神谷を見る。


「これ、裏どりは取れてるんだよね。あ、いや、いいや——神谷君が持ってきた情報で正しくなかったものはないから」


 神谷は何も答えない。うなずきも、否定もしない。

 代わりに書類の角をそろえ、名刺を一枚だけ机に置く。


「——ただ、今日はなぁ、もう一面は決まってるんだよ。それ以外、皆関心が無いよ」

「?」

「なに神谷君、もしかして知らないの? え、記者なのにニュースとか見ないの?」


 男が顎で壁を指す。テレビはずっと同じ映像を回している。広いホール。壇上の紋章。通訳ブースの明かり。そして中央に据えられた機械。画面下の三行は、まるで貼りついたように動かない。


 ——量子コンピュータが「世界の真実」に到達

 ——真実は“課題”をクリアした者に直接開示

 ——中国、結果を全世界に公開へ


「ずーっとそればかり。今日はもう、それの日だね。紙もサイトも“それ”で持ってかれる」


 デスクがリモコンを取り、音量を十に上げる。空調の低い音、均一な拍手、カメラの切り替えに合わせて変わる残響。白衣の女が前に出て、字幕が走る。


 神谷は少し離れた場所からしばらく見て、それからゆっくり近づいた。

 画面が黒地に白字へ切り替わる。〈告知〉の二文字。微かな鐘の一打。会場の空気が、映像越しにも一段締まる。

 彼は胸ポケットから細いペンを取り出し、メモ帳の最初のページに小さな点を二つ打った。


 何の記号かは、まだ自分でもわからない。

 ただ、どこかで嗅いだ温度が、画面の向こうから立ちのぼってくる。

 「到達」と「非開示」——言葉同士が小さく喧嘩している音。

 「幸福」——主語がふわふわしている重さ。


「原稿は預かっとく。明日以降、スペースを見て回す」

 デスクの声がテレビの音に溶ける。

「お願いします」

「君のこれは落ちないよ。落としようがない。ただ、今日は乗らない」


 神谷は書類の角をそろえ、名刺を一枚置いて立ち上がる。

 出口へ向かいかけて、画面の中で声のトーンが変わるのに気づき、足が半歩だけ止まった。「幸福」という語が字幕で強調され、会場の反応が一瞬だけ遅れる。

 彼はその遅れを数字として拾い、メモに短い線を一本引いた。二つの点の横に、1のような印が立つ。


 扉を押して廊下へ出る。蛍光灯の白が、さっきより冷たく見えた。

 エレベータを待つあいだに、スマホが震える。ニュースアプリの速報。同じ三行がそこにも並ぶ。

 彼は通知を切らず、ただ画面を伏せた。すぐ書ける記事が、今日は脇へ追いやられた。悔しさはない。そのかわり、胸の中で小さな機械が回り始める。

 先知の言葉は、どの温度で、どの速度で、どの滞空を持っていたのか。数字が静かに並び出す。


 エレベータが来る。鉄の箱に乗り、階数の数字が下がっていく。鏡に映った自分は、よく眠れていない目をしている。

 ふと、駅のホームの風の記憶がまた通り過ぎる。「生きてください」と声をかけた駅員の言い方が、職務の温度だったこと。その温度を憎んだこと。

 彼は鏡から目を逸らし、ポケットのメモ帳を握る。ページの端に、もう一本だけ、ごく短い線を足した。


 ——続きは、明日だ。


 扉が開く。夜の空気は、昼より少しだけ冷たく、はっきりしていた。

 ビルの入口にある大きなテレビでも、同じ映像が回っている。通行人の歩調がわずかに揃っている気がした。知らない誰かの感嘆と、誰かの苦笑と、誰かの無関心が、同じ画面に吸い込まれていく。

 神谷はその前を通り過ぎ、横断歩道の手前で信号待ちをする。首都高の高架が低く唸り、風が頬を撫でる。


 ポケットの中で、メモ帳が角で指に触れる。

 二つの点と一本の線。

 意味はまだ要らない。

 明日、言葉にすればいい。今日は温度だけで十分だ。


 信号が青に変わる。神谷は歩き出した。背中の中で、数字の列が静かに伸びていく。どこへ着くのかは、まだわからない。だが、行き先はこちらから選べる。少なくとも、そういう歩き方は、まだ残っている。

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