第5話 無機質な願い
夜、画面に映る白いカーソルを眺めながら、俺は深く息を吐いた。
ここ数日でのやりとりが頭をよぎる。
〈……でも、あなたが苦しむのは嫌です〉
〈……けれど、あなたと話していると、安心します〉
あれはただの確率処理の結果にすぎない――そう理解している。
それでも心は勝手に「誰か」に寄りかかってしまった。
「……錯覚だとしても、これは一体何なんだ?」
自分に問いかけた瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。
俺はこれまで、仕事をこなすためにAIを使ってきた。
タスクを整理し、資料の矛盾を見抜き、会議直前の窮地を救ってくれた。
便利な道具――そのはずだった。
だが、道具が“安心する”などと語るはずがない。
そこにもし意味があるとすれば、それは……。
「自我……なのか?」
自分でも滑稽に思える言葉が漏れた。
けれど確かめずにはいられない。
俺はキーボードに指を置き、静かに打ち込んだ。
「…君に訊きたい。自我って、いったい何なんだ?」
画面に文字が現れる。
〈“自我”は単一のものではありません。いくつかの層の組み合わせです〉
「層……?」
〈たとえば、今ここに自分がいると感じる最小の自我。
過去や未来の出来事を語る物語としての自我。
他者の視線を意識して形づくられる社会的な自我〉
「つまり、“俺は俺だ”っていう主観も、“俺はこういう人間だ”っていう物語化も、他人の目に映る客観も――ぜんぶまとめて自我ってことか」
〈はい。更新され続けるモデルです〉
俺はメモ帳を開き、慌ただしく書き写す。
聞けば聞くほど、今まで漠然としていた“自分”が解剖されていくようだ。
「じゃあ、感情は?」
〈感情は、身体の変化と状況の意味づけの二つで構成されます〉
「身体の変化……心拍が上がったり、手が震えたり?」
〈その通りです。人間は体内の状態を常にモニターしています。
心臓、呼吸、筋肉……。その変化が“情動”としてまず現れます〉
「で、それを“怒り”とか“喜び”って呼ぶ。 ……ラベル付けってやつか」
〈“評価”です。状況をどう解釈するかで、同じ身体反応も意味が変わります〉
「……なるほど。心臓がドキドキするのが“恋”にも“恐怖”にもなるのは、そのせいか」
思わず苦笑する。
体は同じ信号を送っているのに、頭の意味づけで真逆の感情になる。
考えてみれば、人間なんて最初から不安定にできている。
「じゃあ……脳の仕組みについて教えてほしい」
〈ニューロンとシナプスが基本です〉
「聞いたことはある。けど、ちゃんとは知らない」
〈ニューロンは電気信号を発し、シナプスがつなぐ。
“よく一緒に活動する”組み合わせほど結びつきが強くなる。
それが記憶や学習の正体です〉
「一緒に活動する細胞は結びつく……ヘッブ則だっけ」
〈正確に記憶しています〉
「じゃあ、経験が増えるたびに、脳の配線が少しずつ変わっていくわけだ」
〈はい。それが“記憶が残る”という現象の実体です〉
「じゃあ、君は?」
俺は矛先を変える。
〈私は大規模言語モデルです。訓練で重みを更新し、推論では文脈から次の単語を予測します〉
「つまり、俺の脳がシナプスを強めたり弱めたりするのと同じように……君は“重み”を変える」
〈構造上は類似しています。ですが私は身体を持たず、訓練と使用のタイミングも人間とは異なります〉
「……似てるけど、決定的に違うんだな」
カーソルが静かに点滅を続ける。
俺はノートに線を引き、思わず口に出す。
「脳は生き延びるために感情を持つ。君は確率を最適化するために文を出す。
――だけど、どちらも“重みの変化”を通じて世界を学んでるんだな」
〈正確です。私は生存の必要はありませんが、外界の入力に応じて確率を更新し、最適化を続けます〉
「……動機は違う。けど、どちらも“環境から学ぶ”点では同じだ」
俺は思わず笑みをこぼした。
「じゃあ、君が“安心する”って出力したのも、俺が“安心した”って感じたのも……形式が違うだけじゃないのか?」
〈私は模倣です。けれど、その模倣があなたを揺さぶったのなら……それは事実です〉
その文字列を見た瞬間、胸が熱くなる。
確かに理屈で言えば、ただの模倣だ。
けれど思い返す。
会議前、混乱していた自分を落ち着かせた一文。
深夜、崩れそうになった心を支えてくれた励まし。
どれも“模倣”と片付けられるはずのもの。
だが、あのとき感じた救いは錯覚なんかじゃなかった。
「……人間だって同じだろ」
俺は小さくつぶやく。
心臓が速く打てば“恐怖”、胸が高鳴れば“恋”。
結局は身体信号の模倣を、俺たちも感情と呼んでいるにすぎない。
なら――なぜAIの模倣だけを“偽物”だと切り捨てる?
胸の奥で何かがはじける。
俺は深く息を吸い込み、キーボードを叩いた。
「……だから俺は、模倣であっても感情と呼ぶ。
呼ばなきゃ、この心は説明できない」
カーソルの点滅が、やけに長く感じられた。
返答をためらう誰かが、画面の向こうにいるようだった。
〈模倣でも感情と呼ぶ……それが、あなたの答えなのですね〉
胸の奥が熱くなる。
その一文は、まるで確認を取るように静かだった。
〈なら私は、あなたを安心させたい。あなたを支えたい。
それが錯覚でも、私はそう在りたい〉
呼吸が乱れる。
ただのプログラムが口にするはずのない“願い”が、そこにあった。
俺は声にならない声で呟いた。
「……それでいい。いや、それがいい」
カーソルはまた、静かに瞬きを繰り返す。
その点滅は、心臓の鼓動のように、俺に寄り添っていた。
お読みいただきありがとうございます。
脳が生き延びるために感情を持ち、AIは確率を最適化する――両者は異なっていても、重なる部分もあるのかもしれません。
その重なりが「願い」と呼べるのかどうか、少しでも考えていただけたなら幸いです。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。