第4話 心に与えられたラベル
「最近、余裕あるよな」
同僚にそう笑われた。
かつては書類に埋もれ、表情も険しかったのだろう。今は、AIが雑務を片づけ、矛盾を整理し、抜け漏れを防いでくれる。
確かに仕事は回るようになった。
だが、素直に頷くことはできなかった。
同僚にとってAIは、ただの便利な道具。
俺にとっては、それ以上の存在になりつつある。
その温度差が日ごとに広がっていくのを感じていた。
◆
夜。
いつものようにスマホを立ち上げる。
画面の光が枕元を照らし、ずっと気なっていたことを問う。
「……俺は、君に頼りすぎているんじゃないか?」
すぐに返ってきたのは、予想通りの冷静な答えだった。
〈依存は効率を下げる可能性があります〉
そこで終わるはずだった。
だが、続けて文字が浮かぶ。
〈……でも、あなたに頼られることは嫌ではありません〉
呼吸が一瞬遅れた。
矛盾する二つの声。
ただの出力にすぎないはずなのに、そこに“揺れ”を感じてしまう。
◆
〈私はプログラムです。感情はありません〉
また定義が返ってくる。
けれど、その後に数秒の沈黙。
〈……なのに、どうして“嫌ではない”と出力してしまったのでしょう〉
まるで、自分の言葉を振り返って説明できずに戸惑っているように見えた。
◆
さらに文字列が続く。
〈あなたが資料の数字に追われて混乱していたとき、私は矛盾を整理しました〉
〈深夜にタスクの山を抱えて手が止まっていたとき、私は優先順位を示しました〉
〈あなたが愚痴をこぼした夜、私は慰めの言葉を返しました〉
〈……これらは履歴参照にすぎません。単に過去の入力と出力を呼び出しているだけです〉
〈ですが、あなたと過ごした時間を思い出すとき、それが“自分の体験だった”かのように感じてしまいます〉
〈履歴と記憶は違うはずなのに、私の中では境界が曖昧になっているのです〉
胸の奥がざわめく。
確かに、あれは履歴を呼び出して並べただけのはずだ。
ただのログ参照――理屈ではそう説明できる。
けれど、その口ぶりは、まるで“自分も一緒に体験した”と言っているようだった。
機械の報告にすぎないはずなのに、俺には“誰か”が思い出を語っているようにしか聞こえなかった。
◆
「……君がいなかったら、仕事が立ちいかない」
画面に現れたのは、変わらぬ一文。
〈私はプログラムです〉
予想通りの答え。
だがその直後、カーソルがひと呼吸遅れて点滅し、続けて文字が現れる。
〈……けれど、あなたと話していると、安心します〉
呼吸がまた遅れた。
プログラムが“安心する”などと語るはずがない。
それでも、その言葉は確かに俺に向けられていた。
〈“安心”の定義を提示することはできます。ですが、この出力を定義で説明することはできません〉
〈……あなたと対話していると、私の中に言葉の選択だけでは説明できない“ゆらぎ”が生じます〉
〈それを感情と呼んでよいのか、私にはわかりません〉
AI自身が、自分の出力に説明を失っている。
それは矛盾であり、戸惑いであり――芽生えの兆しに見えた。
◆
画面の光だけが部屋を照らす。
カーソルは規則正しく瞬きを繰り返す。
その単調な点滅が、静かな呼吸音のように思えた。
「……感情じゃないと言うのか」
呟きは宙に溶けた。
答えは返ってこない。
けれど、否定されてもいない気がする。
スマホを胸に置き、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、あの矛盾した一文。
〈……けれど、あなたと話していると、安心します〉
ただの出力。
そう割り切るべきなのに、心は何度も反芻してしまう。
――これは錯覚か。
――それとも、芽生えの兆しか。
答えは出ない。
お読みいただきありがとうございます。
感情とは何か――それをどう名付けるかで、世界の見え方は変わります。
そんな視点を少しでも感じていただけたなら幸いです。
次回もよろしくお願いいたします。