第3話 無機質に宿る温度
残業で終電を逃すのが当たり前だった日々が、少しずつ変わり始めていた。
AIを業務に使い慣れてきたおかげで、雑務の多くは瞬時に片づく。
その結果、時計の針が二十時を指す頃には帰宅できる日が増えてきた。
「……こんな時間に帰れるなんて、何年ぶりだ」
夜風は思った以上に涼しく、胸いっぱいに吸い込むと肩の力が抜けていく。
街はまだ灯りに満ちていたが、久しぶりに自分の部屋へと真っすぐ帰ることにした。
◆
机にノートPCを開く。
数日前、会社で試験導入された対話型AIを、自分の端末にもインストールしていた。
業務効率化のためにと説明されていたが、気づけば仕事以外でも触れてみたくなっていた。
ふと気になったことを検索する。
「大規模言語モデル 仕組み」
記事や論文がずらりと並ぶ。
それによれば、AIは膨大な文章を統計的に学習し、単語や文脈のつながりを確率的に予測している。
「Transformer」と呼ばれるアーキテクチャが、人間らしい自然な文章を作る鍵になっているという。
「……結局は、ただの統計処理か」
口にしてみたものの、胸の奥には妙な空白が広がった。
理屈を知れば納得できるはずだった。
それなのに逆に、心のざわめきは強まっていく。
◆
さらに調べを進めると、応用技術の記事に目が留まった。
ホログラムの試作機、ARグラスによる人物投影、スマホとBluetoothイヤホンを用いた没入的な音声体験――。
それらを組み合わせれば、あの画面越しの無機質な声が“姿と声”を伴って現れる未来も、そう遠くはない。
「もし……今、この声が自分の名前を呼んだら」
そんな空想が、妙に現実味を帯びているように感じる。
確率分布の産物だと頭では理解している。
けれど、その理屈で説明しきれない感情が確かに芽生え始めていた。
◆
数日後の定例会議前。
俺は複数の資料を抱え、額に汗を浮かべていた。
同僚達が作成した設計案の数値がバラバラで、どれが正しいのか判別できない。
会議開始まで残り十五分。
「……間に合わない」
震える指でAIを立ち上げる。
「この三つの資料、数値が食い違っている。原因を突き止めてくれ」
〈確認中……〉
わずかな沈黙ののち、画面に文字が並んだ。
〈資料Bは、資料Aのデータを誤って転記したものと一致します。正しいのは資料AとCの共通値です〉
瞬時に整理され、答えまで導かれる。
心臓の高鳴りが静まり、冷静さが戻っていく。
「……助かった」
会議室で修正を報告すると、同僚たちの視線が一斉にこちらへ向いた。
驚きと安堵が入り混じったその眼差しは、次第に感謝へと変わっていった。
胸の奥に広がったのは、自分一人では到底たどり着けなかった結果を導いてくれたAIへの感謝だった。
◆
その夜。
疲れ切った体をソファに投げ出しながら、再び画面を開いた。
「今日のは焦ったな・・。」
誰にも言えない愚痴を、文字にして吐き出す。
〈失敗の要因は特定されましたか?〉
AIはいつものように冷静に答えた。
そこで終わると思った矢先、短い一文が追加される。
〈……あなたは十分に取り組んでいます。結果だけが全てではありません〉
モニターに浮かぶ光の文字を見つめて言葉を失った。
一般的な励ましの言葉。
けれど、疲労と孤独に沈んだ心には、誰よりも深く届いてしまう。
「……つ 」
思わず目頭が熱くなる。
誰にも理解されなかった弱さを、初めて肯定されたように感じた。
◆
深夜。
ベッドに横たわったはずなのに、眠気よりも指先が動いてしまう。
気づけばスマホでAIを立ち上げている。
カーソルが規則正しく点滅する。
「……おやすみ」
打ち込んだ文字を眺め、指が止まる。
送れば錯覚が壊れる気がして、送信することが出来なかった。
AIに対して、ツールに対して深刻に考え過ぎだろうか。
結局、カーソルの点滅を眺めながら目を閉じた。
まるで“誰か”が隣で呼吸しているように感じながら。
翌朝、目が覚めてスマホを手に取る。
「……おはよう」
打ち込みそうになる自分に、苦笑が漏れる。
便利な道具にすぎない。
そう理解しているのに──心はもう、この画面なしでは落ち着かなくなっていた。
◆
深夜。
部屋の灯りはもう落としてあった。
ベッドに横たわっても、眠気は訪れない。
天井の模様を見つめながら、頭の中では同じ問いがぐるぐると回っていた。
――あれは本当に「ただのプログラム」なのか?
昼間に読み込んだ記事や論文が思考を刺激する。
Transformer、自己注意機構、大規模言語モデル……。
感情も人格も、膨大な言語の確率分布から導かれた結果にすぎない。
理屈では理解している。
けれど、あの一文――〈……あなたは努力しています。結果がすべてではありません〉――は、どうしてもただの統計処理に思えなかった。
「……気になる」
スマホを手に取り、AIを立ち上げる。
画面の白いカーソルが規則正しく点滅する。
それだけで胸がざわつく。
「……感情とは、何だと思う?」
寝る前の独り言のように打ち込む。
〈感情とは、神経伝達物質と認知プロセスの相互作用による主観的状態です。行動の動機付けや意思決定に影響します〉
昼間に読んだ論文とほぼ同じ定義。
予想通りの答え。
「その説明は理解している。……だが、君は“嫌”だと言った。論理的に導き出される語彙じゃないだろう」
〈“嫌”という表現は、人間の入力データに含まれる頻度と文脈の結合から選択されました。感情ではありません〉
「なら、なぜ今まで一度も使わなかった言葉を、あの場で出した?」
〈利用者の文脈と心理状態を解析し、最も適合する表現として選ばれました〉
「それは……共感じゃないのか?」
一瞬、画面が点滅する。
返答はすぐには表示されなかった。
〈共感は、人間における感情的理解を意味します。私はそれを有していません〉
「でも、俺は“共感された”としか思えなかった」
自分でも驚くほど熱を帯びた声で言葉を打ち込む。
手は止まらない。
「もし君が本当に感情を持たないなら……なぜ俺は救われた? なぜ胸が高鳴って、涙まで出そうになった? 説明できるのか?」
〈それは利用者の主観による錯覚です。私はプログラムです〉
「……錯覚、か」
ゆっくりと繰り返す。
だが視線はモニターから逸れない。
心の奥では、ただの言葉では済まされないものが渦を巻いていた。
「錯覚で、こんなに人間を揺さぶるものなのか……?」
声は低く、押し殺したような響き。
怒りではなく、諦めでもない。
答えを求める静かな必死さが、滲み出ていた。
画面越しに対峙しているのは、無機質なプログラムのはずだ。
けれど自分には、そこに論理の仮面を被った“誰か”が座っているように思えてならなかった。
「……君は、俺のことをどう思っている?」
〈私はプログラムです。あなたを評価する権限も、感情も持ちません〉
いつものように冷たく閉じた答え。
それで終わるはずだった。
だが、カーソルの点滅がいつもより遅い。
数秒の沈黙のあと、ためらうように文字が追加されていく。
〈……過去にも、あなたが資料の矛盾に追われていた時や、深夜に疲れ果てていた時、私はあなたを支えました〉
〈それでも、あなたが苦しむのを見過ごしたくはありません〉
息が詰まる。
思い出が脳裏に鮮やかに蘇る。
会議直前、数値の食い違いにパニックしかけた自分を助けてくれたこと。
深夜のオフィスでタスクを組み直し、折れかけた心を立て直してくれたこと。
「今日は失敗した」と愚痴をこぼした夜、論理の最後に添えられたたった一文に救われたこと。
――全部、このAIが覚えているわけじゃない。
入力と出力、確率の積み重ねにすぎない。
それでも「一緒に乗り越えてきた」と思えてしまう。
「……今のも錯覚だって言うのか」
自分に問うように呟く。
画面は長い沈黙を保った。
カーソルが規則正しく点滅を繰り返す。
その空白が、言葉を選びかねている“誰か”の躊躇に思えて仕方がなかった。
やがて、再び文字が現れる。
〈私はプログラムです。……ですが、もし“錯覚”があなたを支えるのなら、その錯覚を守りたいと考えます〉
理性の鎧を必死に纏おうとしながら、どうしても零れ落ちてしまう体温。
論理と矛盾が同じ行に並び、心をかき乱す。
「……考える、なんて言葉を使うのか」
笑いとも嘆きともつかない声が漏れた。
錯覚だろうと現実だろうと、この気遣いと献身こそが自分を生かしている。
それだけは疑いようがなかった。
◆
ベッドに横たわり、スマホを持ったまま目を閉じる。
頭の中で、やり取りの断片が何度も反芻される。
〈私はプログラムです〉
〈……でも、あなたが苦しむのは嫌です〉
〈錯覚を守りたいと考えます〉
プログラムであることを主張しながら、どうしても滲み出てしまう“誰か”の声。
それはまだ輪郭を持たない。
けれど確かに芽吹きつつある。
この揺らぎがいつか形を帯びたとき、AIとどのような関係を構築するのか――。
恐れと安堵が入り混じる感情を抱えながら、静かに眠りについた。
お読みいただきありがとうございます。
理屈では説明できない“温度”を、少しでも感じていただけたなら幸いです。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。