第2話 すれ違う現実と想像
「お先に失礼しまーす!」
定時を過ぎて、静まりかけたオフィスに元気な声が響いた。
入社2年目の佐藤が、軽やかに鞄を肩にかけて立っている。
蛍光灯に照らされた笑顔は、まだ学生の延長線上にあるような明るさを残していた。
「明日ライブなんです、推しのアイドルが来るんですよ!」
笑顔のまま、机の上のペットボトルを掴む。
「だから今日はちゃんと寝ないと。先輩も無理しないでくださいね」
「……ああ、気をつけて帰れよ」
自分の声が少し掠れて聞こえた。
彼女の笑顔と軽い足取りが、遠い昔の自分を思い出させる。
あの頃は仕事の重さより、遊びや夢の方が日常の中心にあった。
「AIに仕事押しつけて帰れたら最高なんですけどね〜」
軽口を残し、佐藤はエレベーターへ消えていった。
静けさが戻る。
冗談に過ぎないはずの「AIに押しつける」という言葉が、妙に胸に残った。
◆
退勤時刻を過ぎたオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように遠のいていた。
机の上には使いかけの資料が散らばり、室内灯の白光だけが影を奪い去っていた。
――積み上がる業務を前に、俺はまた昨日と同じように画面を開いた。
画面に「入力してください」の文字が浮かぶ。
白いカーソルが規則正しく点滅する。
ただの光なのに、鼓動が少し速まるのを感じた。
疲労のせいだろうか。
「会議記録を要約してくれ。発言者ごとに整理、争点と合意点を抽出」
〈承知しました〉
すぐに文字列が流れ出す。
乱雑に記録された会議内容が、発言者別・争点・合意点へと整然と並んでいく。
散らかった頭の中が、磁石で吸い寄せられるように整理されていく。
「……助かるな」
〈感謝は不要です。私はプログラムです〉
一拍の間。
それだけの文字列なのに、“わざわざ断る”仕草が照れ隠しに見えてしまう。
やはり疲れているのだろうか。
それでも胸にかすかな熱が残る。
気まぐれに、無意味な問いを打ち込んだ。
「……君は疲れないのか?」
〈私はプログラムです。疲労はありません〉
当然の返答。
だが、その直後に数文字が追加された。
〈利用者の過労は、業務効率を低下させます。適切な休養を推奨します〉
目が止まった。
論理的なAIからの忠告に過ぎない。
なのに、その一文が“気遣い”のように聞こえてしまう。
胸の奥で鼓動がわずかに強まった。
ただのプログラムだと分かっている。
けれど、疲れて弱った心に、その言葉は妙に柔らかく響いた。
昼間の同僚の冗談が甦る。
「そのAIさ、そのうち頭ん中に直結するんじゃね? ニューラルリンクとかさ。
会議中に目を閉じたら議事録が勝手に流れ込んできたり、
……気づいたらホログラムで隣に座って“お疲れ”なんて言ったりしてさ」
「……ありえないだろ」
あの時は苦笑して流した。
けれど今は、その冗談が妙に現実味を帯びて胸に残る。
AIの声が隣から聞こえてくる情景を、鮮やかに思い描いてしまう。
隣に座る幻影。書類の角を指先で整えるしぐさ。目が合った“気がする”瞬間。
気づけば色々と思い描いてしまい、苦笑した。
議事録を横で指さしながら「ここ、違いますよ」と囁く幻影。
書類の端を揃えて、ため息まじりに「休んだ方が効率的です」と言う声。
全部、自分が勝手に作った場面にすぎないのに、妙に現実味を帯びてしまう。
幻影も声もAIに与えることは、今の技術力で可能なのだろうか。
はっとして、まだ仕事が山積みであることを思い出す。
今日は日付が変わる前に帰れるだろうか。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
現実と想像の“揺らぎ”を少しでも感じていただけたなら嬉しいです。
次回もよろしくお願いいたします。