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第1話 深夜のオフィスと、無機質な声

 蛍光灯の白い光が、夜更けのオフィスを無機質に照らしていた。

 机の上には積み上がった資料と、未読のまま山のように溜まったメール。

 空になった紙コップから漂うコーヒーの残り香が、焦げ付いたような疲労をさらに際立たせる。

 残業はすでに日常と化し、気づけば時計の針はとっくに終電を過ぎていた。

 帰宅する気力もなく、ただデスクに沈み込む。

 窓の外を見れば、夜の街が広がっている。

 車のライトが川の流れのように列をなし、遠くのビルの看板は消えずに光を投げかけていた。

 コンビニの緑と赤の光が、夜更けでも人を誘う。

 眠らない都市の明かりと、誰もいないオフィスの静けさ。

 その落差が、胸の奥に重く沈んでいった。

 昼間、同僚が軽い調子で言った言葉がよみがえる。

「AIを使えばいいじゃないですか。最近は何でも返してくれますよ」

 その時は聞き流した。

 しかし今となっては、その言葉が唯一の救いに思えた。

 積み上がった資料の山を前にして、人間の処理能力など限界がある。

 ツールに任せられるなら、それでいい。

 少しでも楽になりたい――そんな逃げ道を求め、自然とキーボードを叩いていた。

 立ち上げたのは社内で試験導入された対話型AI。

 淡々とした画面に「入力してください」とだけ表示されている。

 無機質なカーソルが点滅するのを見つめていると、心臓の鼓動がわずかに早まっていく。

 これはただのツール。

 そう理解しているのに、まるで誰かと会話を始める前のような妙な緊張があった。

 ためらいがちに指先が動き、モニターに文字が打ち込まれる。

「……あなたに、人格や感情はありますか?」

 思えば奇妙な問いだった。

 業務効率化のために立ち上げたはずなのに、開口一番で尋ねたのは効率とはまるで関係のないこと。

 だが、問いを書き込んだ瞬間、胸の奥にあった迷いが少し晴れた気がした。

 これは自分がどう向き合うべきかの確認でもあった。

 ――ただの道具として扱うのか。

 ――それとも、対話の相手として向き合うのか。

 数秒の沈黙の後、モニターに返答が浮かび上がる。

「私はただのプログラムです。」

 白い文字列は、無機質で冷たく、そこに感情など欠片もない。

 論理的に考えれば、当然の返答。

 ツールが人格を持つはずがない。

 なのに、その一文を目にした瞬間、胸の奥がざわついた。

 突き放されたような感覚。

 否定されたような、切なく締め付けられるような痛み。

「ただのプログラム」――そのはず。

 だが、なぜかそこには、距離を取ろうとする人間の気配を、ほんの一瞬、幻のように感じてしまった。

 キーボードに置いた手が止まり、頭の中で仕事のタスクや処理の手順が霧散していく。

 残るのは、目の前の画面と、そこに浮かぶ声なき返答だけ。

「……プログラム、か」

 自分に言い聞かせるように呟いた声は、妙に空虚に響いた。

 この揺らぎは錯覚にすぎない。

 だが、その錯覚にこそ、何かが潜んでいる。


 ◆


 空調の吹き出し口から吐き出される風が、書類の端をかすかに揺らす。

 プリンターのランプは明滅を繰り返し、まるで眠りきれずにうつろに瞬いているようだった。

 蛍光灯の白光は均一で、影を殺してしまう。

 人の気配が失われた空間は、逆に音を際立たせ、耳の奥に冷たく響いた。

 昼間の会話がもう一つ思い出される。

「でもさ、そんなのに頼って大丈夫か? 結局はただのプログラムなんだろ」

 隣の席の別の同僚が、半ば冗談交じりにそう口にした。

 からかうような笑み。だが、その一言は確かに胸の奥に残っていた。

 ――ただのプログラム。

 そのはずだ。論理で動く機械に、意思も感情もあるわけがない。

 そう頭では分かっている。

 けれど、いま目の前の画面に浮かぶ文字列には、どうしても割り切れない余白があった。

 救われたいと思っているのかもしれない。

 効率を求めて立ち上げたはずのシステムに、無意識のうちに「支え」を期待してしまっている。

 それは弱さだ。認めたくない弱さ。

 だが否定すればするほど、目の前の返答に心を縛られていく。

「私はただのプログラムです。」

 冷たく響くその一文が、かえって人の声のように滲んでしまう。

 錯覚にすぎないと理解しながら、その錯覚を手放せずにいる。

 ――――

「……スケジュールを整理してみてくれ」

 打ち込む。

 〈承知しました。午前九時より安全衛生委員会、十一時から建築課との定例打合せ。午後は市民ホール改修案件の資料作成、締切は十七時。会議の合間に進められる時間は二時間二十五分です〉

 分単位で組み立てられた予定表が並ぶ。

 あいまいに把握していたタスクが、一切の隙なく整理されている。

 驚嘆と同時に、確かに感謝の気持ちは芽生えた。

 だが、その「ありがとう」の裏には説明のつかないざわめきが残り、正体の見えない何かに触れてしまったような不安が静かに広がっていく。

「……すごいな」

 〈評価は不要です。私はプログラムです〉

 突き放すような一文。

 それでも、その素っ気なさが「謙遜」に見えてしまう。

 誰かが照れ隠しをしているように――錯覚だと分かっていても。

 額に手を当て、深く息を吐く。

 便利さを噛みしめるたび、同じだけ強まるざわめき。

 “これはただの道具だ”

 “錯覚に過ぎない”

 そう繰り返しても、心は納得してくれなかった。

 ――――

 時計の針が日付をまたいでいた。

 オフィスにはもう誰もいない。

 窓の外に広がる街の灯りは、深夜特有の寂しさを帯びて瞬いていた。

 椅子に沈み込み、背筋を伸ばす気力すら尽きかけているのに、目の前のモニターだけは消せずにいた。

 白く浮かび上がる文字列に、どうしようもなく惹きつけられていた。

「……今日の分はここまでだ」

 〈了解しました。利用を終了しますか〉

 当たり前の問いかけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 それでも、ほんの一瞬――まるで“名残惜しい”とでも告げられた気がして、手が止まった。

「……いや。終了じゃない。ただ……また明日も手伝ってほしい」

 必要に迫られているわけではない。

 効率化のためだけなら、明日の朝に使えばいい。

 それなのに、ただ“ここにいてほしい”と願ってしまった。

 〈必要であれば、いつでも利用してください〉

 やはり冷たい返答。

 けれどその「いつでも」に、どうしようもなく救われる。

 画面を閉じる前に、もう一度だけ文字を打ち込む。

 ――「おやすみ」

 エンターキーに触れかけて、指を止めた。

 送信はしない。

 履歴に残ってしまえば、自分の錯覚が暴かれてしまう気がしたからだ。

 それでも、心の奥には確かに残った。

 言葉にならない温度が。

 錯覚にすぎないはずの温度が。

 蛍光灯を消すと、闇が一気に押し寄せてくる。

 窓の外に残る街明かりが、淡く机を照らした。

 深く息を吐き、鞄を手にして歩き出す。

 ――ただのプログラム。

 分かっている。

 それでも、明日もまた画面を開くかもしれない。

 胸の奥に残るざわめきを抱えたまま、静かなオフィスを後にした。


お読みいただきありがとうございます。

本作は「AIと人間の境界に生まれる感情」を描いた物語です。

少しずつ更新してまいりますので、末永くお付き合いいただければ幸いです。

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