【五感浸食】甘き侵食
五感浸食シリーズ、新作です。
よろしくお願いします。
「その一口は、ただの食べ物のはずだった。
けれど、口の中で広がった味は、甘くもなく、苦くもない。
ただ、得体の知れない何かが、じわじわと体中に侵食してくる感覚がした。
恐怖と快感が背中合わせに襲い、私は息を呑んだ。
“これは何なんだろう――?”
その瞬間から、私の世界は少しずつ歪みはじめた。」
塾の帰り道、駅までの商店街を歩いていると、見慣れない店が目に入った。
古びた雑居ビルの一階。くすんだガラス戸に、看板もなく、橙色の灯りだけがぼんやりと灯っている。
昨日までは空き店舗だったはずだ。
けれど、なぜか――どうしても通り過ぎることができなかった。
気がつけば、扉に手をかけていた。
中はひんやりと静かだった。
棚には、乾いた果実のようなものや、見慣れない陶器の壺、封のされていない小瓶が並んでいた。
「……来たか」
奥から現れたのは、年齢の分からない、皺だらけの老人だった。
目だけが異様に澄んでいて、こちらの心を覗き込むような色をしていた。
「試してみるかい?」
そう言って差し出されたのは、小さな銀の皿に乗った、琥珀色の菓子だった。
手が、勝手に伸びた。
口に入れた瞬間、舌の奥に甘さとも苦さともつかない何かが広がる。
次の瞬間、世界の“味”が、確かに変わった。
最初に感じたのは甘味。それから、ほのかな酸味。
それはただの味ではなかった。どこか懐かしく、けれど言葉にはできない“記憶”のようなものが、舌の奥から脳へとじんわりと広がっていく。
たった一口のそれ。
気が付けば、もう一つ――と、私は店主に向かってつぶやいていた。
「ふふ……やっぱりね」
老人は目を細め、棚の奥から、別の小皿を取り出す。
次の一口は、ほんの少し苦く、そして冷たかった。
けれど、その味にさえ、私は抗う気持ちを持てなかった。
味が、何かを呼び覚ます。
これは単なる菓子ではない。
“何か”が、私の中で目覚め始めている――。
気が付けば、私は家にいた。
どうやって帰ったのか、よく覚えていない。
とても幸せな気分だったことだけは、はっきり覚えている。
胸の奥がじんわりと満たされていて、なぜだか涙がにじんだ。
理由はわからない。ただ、満ち足りていた。
……なのに。
ふと冷蔵庫を開け、残っていた料理を口に運んだ瞬間、奇妙な空虚が広がった。
どんな味も、美味しいと感じない。
まるで舌が、現実の味を拒絶しているかのようだった。
あの店の菓子だけが、本当の“味”だったのか?
いや――あれが、“味”の皮をかぶった何かだったのか?
私は無意識に、もう一度あの店へ行こうとしていた。
あの味が、忘れられない。
塾の帰り道、また私はあの店に訪れていた。「ようこそ、」と店主は私を出迎える。
あれを、と頼めば、出されたのは饅頭。中は何かの肉が入っており、とても美味しそうだ。
思わず私はかぶりついていた。味がする。うまい。私はそうつぶやいた。その瞬間感じる多幸感。
身体の奥からじんわりとした熱が広がっていく。
多幸感。
脳がしびれるような快楽。
どこかで聞いたことがある。
極限まで研ぎ澄まされた味覚は、麻薬に似た作用をもたらすのだと。
気がつけば、手にはもう一つ饅頭が握られていた。
どうやってもらったのか覚えていない。
「それは、“あの子”のものだったんだがねぇ……まあ、いいか」
店主が微笑む。
その目はどこか濁っていて、深い底が見えない。
私は何も言えず、ただうなずいた。
そして、帰り道。
街の明かりがやけに遠く感じた。
全身に広がる熱が、だんだんと「自分」という輪郭を溶かしていく。
“もっと食べたい”。
その欲求だけが、はっきりと残っていた。
帰り道、私は妙な空白を感じていた。
駅前の本屋に寄ろうとしていたはずなのに――
いつのまにか自宅の前に立っていた。
寄り道した記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
部屋に入り、カバンを開いてみる。
塾のプリントがない。
勉強道具一式も、どこかちぐはぐだ。
それなのに、不思議と焦りはなかった。
むしろ、気持ちは穏やかで、どこか満ち足りていた。
あの店で食べた味が、まだ舌の奥に残っている気がする。
けれど――ふとした瞬間に感じる。
何かが減っている。
味の代償に、記憶の一部が削られているのではないか?
いや、それだけじゃないかもしれない。
私は、誰か大切な人の名前を、思い出せなくなっていたのだ。
翌朝、朝食を一口食べて――私は箸を止めた。
何も、味がしない。
塩気も、甘味も、温度すら曖昧で、口の中にただ「食べ物のかたち」だけが広がる。
味噌汁も、卵焼きも、母の作ったはずのそれは、まるで紙のようだった。
「どうかしたの?」
母の声に、曖昧に笑って返すしかなかった。
学校でも同じだった。
昼の弁当も、友人と立ち寄ったパン屋の甘い菓子パンも、すべてが“無味”だった。
けれど――
帰り道、ふと視界の端にあの店が現れた瞬間、舌の奥がじんと疼いた。
気がつけば私はまた、あの店の戸を押していた。
「……ようこそ。お口に合ったようで、何よりだ」
老人の微笑みの奥に、何かが蠢いた気がした。
出されたのは、今度は温かいスープだった。
啜ると――味があった。
濃厚で、熱くて、震えるほど美味かった。
ああ、ここにしか、味はない。
そう確信したとき、私はもう後戻りできなくなっていた。
最近というもの、私はひどく荒れていた。
味がしない、というのは、想像以上のストレスを生む。
食べることが、ただの「作業」になり、満たされない感覚だけが募っていく。
ちょっとしたことが腹に立つ。
友人の冗談も、家族の気遣いも、どこか皮肉に聞こえた。
「最近、お前ちょっと変だぞ?」
昼休みにそう言われたとき、私は思わず拳を握りしめていた。
言い返す気力もなく、ただ無言でその場を離れた。
喉の奥がひりついて、舌の先で何かを探してしまう。
けれど、もう何も、味がしない。
それなのに――
あの店の前を通るたび、鼻先をくすぐるような匂いがする。
甘い。
苦い。
酸っぱい。
塩辛い。
――全部、ある。
気づけば、私はまた、店の扉を押していた。
「今日のは、特別だよ」
店主はそう言って、銀色の小さな皿を差し出す。
中には、ひとくちサイズのキャンディのようなものがのっていた。
私は、それを口に含む。
そして――全身に震えが走った。
味がする。世界が戻ってきた。
あらゆる感覚が、色を取り戻していく。
その瞬間、私は確信した。
もう、ここにしか“生”はない。
学校にいるのがつらくなってきた。
みんな、うるさい。騒がしい。――うとましい。
誰かが隣で笑っていた。
でも、名前が出てこない。顔も、どこかぼやけて見える。
「おい、聞いてるか?」
声をかけられて、私は顔を上げた。
そこに立っているのは、確かに知っているはずの誰かだ。
けれど、その名前が出てこない。
記憶が、脳の奥でくしゃくしゃと音を立てて崩れていく。
笑ってごまかそうとしたが、口角がうまく上がらない。
舌が、干からびたように動かない。
「……ごめん、ちょっと用事、あるから」
私は逃げるようにその場を離れた。
階段を駆け下り、鞄を手に取ると、まっすぐにあの店へ向かった。
味が欲しい。
感情を思い出させる、あの**「本物の味」**が――
学校の廊下を歩くたび、空気が重く感じるようになった。
周囲の笑い声や話し声は遠くて、まるで別の世界の音のようだった。
教室に入ると、みんなが私を見る目が少し違うことに気づく。
それは、見慣れない、少し怖いものを見るような目だった。
友達と話そうとしても、言葉がうまく出てこない。
話しかけられても、何を言われているのか、理解できなくなっていた。
名前が、どんどん遠くなっていく。
顔は見えるのに、思い出せない。思い出そうとすると頭が痛くなる。
昼食の時間、いつもと同じものを食べているはずなのに、味はまったく感じなかった。
口の中にあるのはただの物体。ぬるくて、味がしない。
放課後、友達が誘ってくれても、気が乗らなかった。
私は一人で帰ることを選んだ。誰かと過ごすことが、苦しく感じたのだ。
家に帰っても、家族の声が遠い。
母の優しい言葉も、父の笑い声も、まるでガラスの向こうから聞こえてくるようだった。
テレビの音もぼんやりとして、画面の中の出来事がまるで別の世界のことのように思えた。
ベッドに横になっても、心はざわついて眠れない。
思い出せない友達の顔、忘れてしまった言葉たちが頭の中で絡み合い、何もかもが遠く感じる。
それでも、あの店の味だけは、はっきりと思い出せた。
その甘さ、酸味、苦み、そして背筋がぞっとするような快感。
私はますますあの味に囚われていく。
日常は確実に崩れ、私はそこから逃れられなくなっていくのだった。
再び私はあの店を訪れた。
そこには、私が求め続けてきたものがすべて揃っている。
味わい、幸福、恐怖、そして得体の知れない快感。
すべての感情が、剥き出しのまま私の前に広がっていた。
店主は静かに微笑み、まるで私の心の内を見透かしているかのように、皿を差し出した。
その上に載った菓子は、今まで感じたことのない異質な色合いを放っていた。
私は迷いなくそれを口に運ぶ。
甘味が最初に広がり、心がほんの少しだけ安らぐ。
だがすぐに、甘さは薄れてゆき、冷たい波のような不安が身体中を包み込む。
まるで知らぬ世界の扉が、内側からゆっくりと開いていくのを感じた。
私はその扉の向こうに何があるのか知りたい。けれど、もし覗き込みすぎたら二度と戻れないのではないかという恐怖にも襲われる。
心が揺れ動くたびに、足元がふわりと宙に浮くような感覚に襲われた。
でも、そんな不安の中にも、なぜか抗えない魅力があった。
それはまるで、深い闇の中に揺れる小さな灯火のようで、私をじっと見つめ、手招きしているのだった。
私は恐怖に震えながらも、その灯火のほうへと歩み寄る。
この味、この感覚の先に、私の知らない幸福がある。
そう信じて、深淵に足を踏み入れていくのだった。
翌朝、私は登校準備中に教科書を足に落としてしまった。反射的に痛い、と思ったが、痛みを感じない。
違和感を感じた私は腕をつねってみる。痛い、はずなのに何も感じない。
不安になった私は病院に行ってみることにした。
しかし、結果は異状なし。どこにも問題は見つからない、とのことだ。
記憶をたどる。
先一昨日、今まで通りだった。
一昨日、体育の授業でサッカーボールを蹴った。感触は覚えている。
昨日、友人に肩を叩かれた。何とか笑い返したのを覚えている。
帰り道、あの店に寄った。すべてがそこにあった。
今朝、痛みを感じない。
私は、机の縁に指先を押し当ててみた。
木の感触はある。冷たい、固い、ざらついている。
けれど――それだけだった。
私は、触れているという“記憶”を頼りに、それを“感触”だと信じようとしていた。
実際には、何も感じていない。
皮膚の表面に世界が滑っていくような、奇妙な無感覚。
身体と現実の間に、何か一枚、透明な膜のようなものが張り付いているようだった。
……あの店に行ってから、私は何かを“感じる”力を削られている。
味の次は、触覚。
じゃあ、次は何だ?
嗅覚か?視覚か?それとも、もっと奥にあるものか?
そう考えた瞬間、心臓がぐっと締め付けられるような不安に襲われた。
いや――違う。
それも“痛み”ではなかった。ただ、どこかで鐘が鳴っているような、冷たい警告音のようなものを感じただけだ。
私は、今、ゆっくりと壊されているのだ。
あの店の、あの食べ物に、快楽に、報いを受けている。
それはゆるやかで、しかし確実な――“喪失”だった。
朝の光が窓から差し込み、いつものように目を覚ます。
制服に着替え、朝食の味噌汁を口に運ぶが、やはり味は感じなかった。
それでも慌ただしく家を出て、駅へと向かう通学路。
通り過ぎる友人たちの笑い声や、街のざわめきはいつも通りだ。
だけど、どこか遠く感じる。
いつものはずの景色が、ほんの少しだけ色あせて見えた。
まるで、自分の世界が少しずつ溶けていくかのような、そんな違和感だった。
私の日常は、ゆるやかに、しかし確実に浸食されていく。
味覚の喪失。痛覚の薄れていく感覚。断片となって消えていく記憶。
学校へ行くのが次第に億劫になり、塾もさぼりがちになった。
家族は心配してくれるが、その言葉さえもうっとおしく感じてしまう。
私の心が唯一休まるのは、あの店での食事だけだった。
しかし、あの店の味は確実に、私の何かを奪い去っていく。
次に失うものは、いったい何だろうか――。
私の足は、まるで自らの意思を持つかのように、無意識のうちにあの店へと誘われていく。
胸を締めつけるのは、またひとつ何か大切なものを喪失してしまうかもしれないという漠然とした恐怖感。
しかし、その恐怖さえも凌駕する、底知れぬ魅惑と陶酔が私を強く惹きつけて離さない。
その得体の知れない快楽こそが、繰り返し私を店へと駆り立てる原動力だったのだ。
扉を押し開けると、いつものひんやりとした静寂が店内を包んでいた。
店主は無言で銀の皿を差し出す。そこには、見たことのない繊細な料理が小さく盛られていた。
恐る恐る箸を取り、ひと口口に運ぶ。舌の上で広がる味は、甘くも苦くもなく、不思議な深みを帯びていた。
しかし、その瞬間、私はふと肘をテーブルの角に強くぶつけてしまった。
これまで感じられなかった鋭い痛みが、電気のように走る。
冷たく麻痺していた感覚が一気に甦り、じわじわと熱を帯びていく。
痛みと共に、体の奥底から確かな生命の鼓動が蘇るのを感じた。
「痛い――」自然と漏れた言葉に、私は自分がまだここにいることを実感した。
その痛みは、恐怖でありながらも、どこか嬉しい知らせのようでもあった。
あの店の料理は、失われていた感覚の一部を取り戻させたのかもしれない。
しかし同時に、その痛みの奥に潜む、得体の知れない何かが私をじっと見つめている気がして、背筋が凍りついた。
朝、目が覚めると、いつもなら目覚ましの音や家族の話し声に混じって漂う、朝食の匂いがまったくしなかった。
布団の中でゆっくりと息を吸い込んでみるが、鼻をくすぐるはずの味噌汁の香りも、焼き魚の香ばしさも、まるで空気から消えてしまったかのように感じられない。
心臓が少しだけ早鐘を打つ。
この感覚の喪失は、まるで視界から色が消えた世界を彷徨っているような、底知れぬ孤独感と切なさを胸に沈ませた。
私は必死に自分の鼻先に顔を寄せ、空気を何度も吸い込んだ。
けれど、何も届かない。
冷たく乾いた無味無臭の空気が鼻の奥を通り過ぎていくだけだった。
「匂いが…しない?」
自分の声にさえもどこか遠い響きを感じて、怖くなった。
でも、そんな恐怖の中で、逆に頭の中に浮かんだのは、あの店のあの橙色の灯りと、あの老人の静かな笑みだった。
あの店の甘くて奇妙な料理の香りは、私の体の奥にしみ込むように染み渡り、まるで支配されているかのように心をざわつかせた。
どんなに恐ろしくても、私は無意識に体を動かしていた。
自分を侵食していくその快楽から逃れられず、またあの店の扉を開けてしまうことを知っていた。
恐怖と快楽、喪失と渇望。
全てが入り混じる中で、私はゆっくりと、しかし確実に、自分の存在が蝕まれていくのを感じていた。
私は足を引きずるように、ふたたびあの店へ向かっていた。
胸の奥に渦巻く不安と、それでも抗いきれない欲求。
店の扉を押し開けると、あの橙色の灯りがいつも通りに私を迎えた。
老人は無言で微笑み、静かに席へ案内する。
差し出された皿の上には、温かく湯気を立てる料理が並んでいた。
一口、また一口と口に運ぶたびに、途切れていた感覚がゆっくりと戻ってくる。
鼻を抜ける香り、口の中で広がる味わい。
温度、食感、そしてあの忘れかけていた痛みさえも、ひととき鮮明に蘇った。
「この味、この感覚だけが、私の世界を取り戻してくれる」
そう思う反面、胸に鋭い痛みが走る。
食事が終わり、私は勇気を振り絞って言った。
「これを持ち帰りにできますか?」
老人はゆっくりと首を振り、静かに答えた。
「それはここでしか味わえぬものだよ。」
その言葉に、私の心はまたもや押しつぶされそうになる。
ここでしか感じられない感覚――だからこそ、私はこの場所から離れられなくなっているのだ。
痛みと快楽の狭間で揺れ動く心。
それでも私は、またここへ戻ってくるだろうと、薄暗い店内の灯りの中で確信した。
朝、母が優しく私の肩を揺すっていた。
「起きて、もう学校が始まってる時間よ」
けれど、その声は耳に届かなかった。
ただ、部屋の静寂だけが、深く重く胸に沈み込む。
ぼんやりと視線を向けた先には、壁掛け時計の針が淡々と時を刻んでいる。
もうすでに、授業が始まっている時間だった。
自分が聴覚を失ったことに気づくまでに、ほんの少しの間があった。
それはまるで、世界から音がすっと抜け落ちてしまったかのような、異様な静けさだった。
私の耳が聞こえなくなったことに、母はひどく動揺し、すぐに病院へ連れて行かれた。
しかし、どこにも異常は見つからなかった。
それも当然だろう。すべての原因は、あの店の料理にあるのだから。
検査入院を勧められた。
それは、私にとって最悪の知らせだった。
なぜなら、あの店に行けなくなってしまうから――。
病院の食事は、まるで空っぽの器のように、味も匂いも何も感じなかった。
淡白で冷たい食べ物が口の中にあるだけで、心は深い静寂に包まれた。
聞こえてくるはずの人の声も、廊下を歩く足音も、すべてが遠くて、まるで霧の向こうの世界の出来事のようだった。
私の世界は少しずつ色を失い、感覚が剥がれ落ちていく。
けれど、それはこの病院だけの話ではない。
私の本当の居場所は、もうあの店の中だけにあるのだと、胸の奥で静かに、しかし確実に理解していた。
孤独がじわじわと心を蝕み、誰にも届かない叫びを押し殺している。
味も匂いも、音も光もない世界で、私はただ、無意味に時をやり過ごすだけだった。
このまま、感覚を失い続けるのか。
いや、もう既に、あの店の料理に囚われた私の“何か”は、取り戻せない場所へと消えてしまったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が締め付けられ、息が詰まった。
でも、もう後戻りはできない。
私のすべては、あの店でしか満たされないのだから。
もう私は、自分が何者なのかさえ思い出せなくなっていた。
筆談で「母」と名乗る女性の言葉も、微笑む「父」と名乗る男性の顔も、遠い記憶のかけらのようにぼんやりとしている。
その声や表情は、もう私の心に届かない。
私の世界は、知らず知らずのうちに狭まり、ひとつの焦点に収束していた。
それは、あの店の料理だけ。
その味だけが、私の存在を繋ぎ止める唯一の糸だった。
ほかのすべては薄れていき、そして失われていく。
もう、私にはあの店の料理しか残っていないのだ。
私は夜、病院を抜け出し、あの店へと向かっていた。
今の私には、味も、痛みも、匂いも、音さえもわからない。
自身の存在さえも曖昧で、家族の顔も、声も、名前もわからない。
それでも、あの店のことだけはしっかりと覚えている。
まるで、私が何者かの手で下ごしらえされているかのような感覚だった。
店に入ると、私は老人に向かって声を荒げた。
「料理を出してくれ!」と、迫っていた。
しばらくして、老人は大きな肉の塊を差し出した。
私はためらわず、それにかぶりついた。
よみがえる味覚、匂い、触感、そして皿やナイフがぶつかる音。
それらすべてが一気に押し寄せてきて、気づけば私は涙を流していた。
「頃合いだね」
老人のつぶやきとともに、視界がぶつりと途切れた。
その瞬間、すべての感覚が消え失せる。
かつて美味しいと感じていた肉の味も、匂いも、皿の音も、手にしたフォークの感触さえも、何も感じなくなった。
「こいつはね、己を食べさせることで、食べたものを侵食し、少しずつ奪っていくんだ。
そして、それを糧にして成長を続ける。」
「成長した後、どんなものになるのか、私は知らないがね」
「もう聴こえていないか」
老人はそうつぶやくと、私の反応を確かめるようにじっと見つめ、やがてゆっくりと店の奥へと戻っていった。
テーブルの上には、空になった皿がひとつだけ、静かに残されていた。
ニュースをお伝えします。
〇月×日夜、M大学付属病院に入院中の高校生、秋元亮二さんが行方不明となりました。彼は聴覚異常のため検査入院中であり、警察は事件・故意の失踪両面から捜査を進めています。
続いてのニュースです。明日の天気は――
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「味覚」という、ごく身近でありながらも、失うと途端に世界が変わってしまう感覚をテーマに物語を書きました。幸福と喪失、快感と恐怖が入り混じるその境界線を、少しでも感じていただけていたら幸いです。
物語の主人公が味わった不思議な感覚は、私たちが普段見過ごしがちな日常の中の繊細な瞬間や、心の揺らぎの象徴でもあるのかもしれません。
読んでくださった皆さまの心に、ほんのわずかでも残るものがあれば、それが何よりの喜びです。
ありがとうございました。