第八話「水を纏う」
宇宙と言う空間に、青い水を纏った月が浮かんでいる。白い波のようなものが見える。あれは雲だろうか、それとも、打ち寄せる波が大気に映った像だろうか。
青い月は美しかった。こんな物が、何時も天空を泳いでいたら、きっと誰しもが憧れただろう。
フェイボックの家に帰ってきたアニタは、倉庫で、キャンバスに向かって熱心に筆を振るっていた。
気候は夏である。空気に熱されて、アニタは全身に汗をかいた。時折、筆を持っているほうの肘を上げて、袖で額をぬぐう。
それでも、記憶している「海」が消えないうちに、その姿を絵の中に留めようとするように、休むのも忘れて筆を振るった。
アリスがその様子を見て、声をかける。
「アニタ。食事を摂りなさい。昨日から、パンしか食べてないって言うじゃないか」
「チーズも食べてる」と、アニタは言い、アリスのほうを振り返りもしない。
「そう言う事じゃないんだよ」と、アリスは困ったように返した。「体調を整えるのは、健康の秘訣だ。長生きするためには、食事はしっかり食べる事」
「私は、まだ五十歳じゃない」と、アニタは背中で言い、筆を振るう手を止める。「人間は、それより早く死ぬ事があるの?」
アリスは、何とかアニタに食事を摂らせるために、柔らかい表現で伝えた。
「無いとは言い切れない」
「それなら、なおさら急ぎたい」と、何時もより多弁なアニタは、ざっくりとイメージだけを描き留めたキャンバスに、加筆を続ける。
アリスは、アニタのいる方向とは、反対側から脚立を上った。片手に、缶のような物を持っている。
「アニタ」と呼びかけ、画家がそっちを、ちらりと見た途端、その口に味付きカカオの塊を押し込んだ。
アニタは暫く呆然としていたが、口の中で甘いカカオの味を察して、塊を噛み、飲み込んだ。
「宇宙プラント産の、高級カカオボールだよ」と告げて、アリスはアニタの服のポケットに、味付きカカオボールの缶を突っ込んだ。「しばらくはそれを食べて居なさい。喉が乾いたら、ちゃんと水分を摂る事。アガサに食事を持ってこさせるから、残さず食べるんだよ?」
「分かった」と答え、アニタは作業に勤しんだ。
スパイスでじっくりと煮込んだ野菜とベーコンのスープと、チーズの塊と、殺菌保存された牛乳と、バゲットを輪切りにした物が、ワゴンに乗せられて、しずしずと運ばれてきた。
「アニタ。今度こそ、貴女のお眼鏡にかなうかしら?」と、食事を運んできたアガサも、少し怒っている。
スープから漂う香りに、アニタの胃袋が鳴る。創作意欲に燃える脳は、それまで気づいていなかった空腹を悟ると、急激に栄養を求め始めた。
脚立を降りようとしたが、足が震えている。ポケットからカカオボールの缶を取り出して、一粒口に入れて飲みこんでから、どうにか足を動かし、脚立を降りた。
アニタは、一日半ぶりにまともな食事を摂った。
スパイスのスープはピリッとした味がして、胃袋を活発に動かそうとする。だが、ほとんど絶食していた胃袋は、中々食事を受け付けようとしない。
アニタが食事を飲み込むのを苦しそうにしているのを見て、アガサは声をかけた。
「パンは牛乳に浸して食べるの。急がなくて良いわ。ゆっくり、よく噛んで」
アニタは、何時も通りに、こくんと頷くと、念を入れてゆっくりと食物を噛み締めた。
アリスも声をかける。
「分かったかい、アニタ。体に無理をさせると、いざって言う時に、お腹だって言う事を聞かなくなるんだ。これからは、ちゃんと三食食べる事。その時も、パンとチーズだけじゃいけないよ?」
「牛乳も飲めば良い?」と、思いついたようにアニタは聞く。
アリスは答える。「牛乳とパンと一緒に、野菜と肉を必ず食べなさい。食事はアガサが準備してくれるから、それを全部食べるだけで良いんだ。そんな簡単な事が出来なくなったとは、言わせないよ?」
アニタは、暫く黙り、「分かった」と返事をすると、牛乳に浸したパンを、ガムのように咀嚼した。
アニタの力作は、秋のコンクールに間に合った。
毎日、食事の習慣と睡眠の習慣をきちんと守りながら、少しずつ筆を重ねた「水を纏った青い月」の絵は、夜空の外側が赤く焼け、周りを降り注ぐような星屑に囲まれている。それを見上げる黒い岩の大地には、街の夜景があった。
「美しい」と、アリスは自分の中での最高の賛辞を贈る。「夜空が赤く焼けている様が、実に見事だ」
「本当に」と、アガサも言葉を添える。「何時か見たような景色だわ。とても懐かしい」
「これ、アニタが描いたの?」と、アモンは、絵が全部見える位置まで離れてから聞く。
アリスが答えた。
「そうだよ。こう言うのを、『芸術』って呼ぶんだ。この星の、最高の文化さ」
「ふーん」と、アモンは然程興味も無さげにしていた。
コンクールに出品されたアニタの絵は、目標であった「佳作」を飛ばして、「優秀賞」に選ばれた。
その知らせを受けたフェイボック家の家族は、「次は、最優秀賞だ」と言って、アニタを励ました。
アリス達は、アニタには隠している秘密の習慣を持っている。アニタが倉庫で食事を摂りたがるようになってから復活させた、彼等の古い文化だった。
食肉用の動物の頭を、食卓に飾る習慣だ。
アニタを引き取ってから、彼女を怖がらせてはならないとして、その習慣はやめていたのだが、どうしてもアリスやアガサは、気質的に、肉になった動物が「健康であったのかどうか」が気に成ってしまう。
動物の頭を飾る事で、その動物がどんな健康状態だったのかを知る事が出来た。
それに、まだ幼いアモンにも、自分達の古い文化を教えたかった。伝統を教える事は、時にアニタのような「偉才」を生み出すと知っていたからだ。
動物の頭を飾る習慣を取り戻す事で、アモンの「健康な肉」を見極める目を養えるかも知れない。
それに、彼等の祖先から伝わる、大胆な心と、旺盛な食欲を、正しい自分の心だとして、受け入れられるだろう。
家族はアニタに「最優秀賞」を求めたが、八十作の油彩画を描いた後、アニタの興味は様々な画材や素材に移った。
絵だけで言っても、木炭画、鉛筆画、ペン画、水彩画と、興味は次々に移って行った。
乾くと固まる粘土を練って、大昔の土器のような不思議な器を作ったり、同じく、乾くと固まる柔らかい質感の粘土を練って、花にそっくりな置物を作ったりした。
「時には、遊び心も必要だ」と、アリスは褒め、アニタが相変わらず、倉庫で食事を摂りたがる事を、心の何処かで喜んだ。
やがて、アリス達は、アニタに子供を設けさせる事を考えた。
優良な遺伝子を継いだ子孫を、この星に残さなければと言う、使命感めいた心が発端だ。
その話をすると、アニタは「子孫の存続」を拒絶した。
「私は、子供の面倒は、看れない」と言って。
「面倒は、私達が看る」と、アリスは言ってから、「お腹に子供を宿すことに不安があるなら、髪の毛を一束分けてくれ。今は、古典的な方法以外にも、子孫を残せる技術があるからね」と続けた。
アニタは、伸ばして結んでいた髪の毛を、一束提供すると同意した。
アガサによって採取されたその髪の毛は、アニタのサインが入った身分証のコピーと一緒に、専門機関に送られた。
同時期に、アニタに更なる興味を持ち始めた者がいる。
フェイボック家の一人娘、アモンだ。
アモンは、倉庫の干し草の上で昼寝をしているアニタを見て、実に不思議そうにしていた。
じっと彼女の寝顔を見つめ、そっと頬に触れてみたり、こっそり首や腕を撫でるようになった。
アニタに休憩を告げるために、倉庫を訪れたアガサは、アモンが「危険な事をしている」のに気付いた。しかし、驚かさないように、静かにアモンに近づいた。
「アモン。アニタを起こしちゃだめよ」と、アガサは囁く。「アニタは、疲れてるのよ。この頃、眠れてなかったから」
「うん」と、アモンは何時になく素直に返事をして、干し草の上から降りてきた。
「何をしていたの?」と、努めて明るく、アガサは尋ねた。
「アニタが特別だって言う意味が、何となく分かったんだ」と、アモンは言う。「だから、『外の世界』の怖い事から、アニタを守らなきゃならないんだって」
パートナーの子供が、ようやく大人としての理知を獲得しつつあると知って、アガサは「古くからの習慣」を復活してよかったと、心の中で唱えた。
一冬を超える頃。
アニタは、再び油彩画を描き始めた。それまでとは主題の違う、幻想的な街の中の絵だった。
空想で描いているとは思えないほど、きちんとパースが取れている。各所に描きこまれる植物や花、水の照り返し、建造物の直線と曲線は、それまでの「夜空」シリーズに引けを取らないくらいに完成された美を見せた。
その町は、大抵、昼間か夕方だった。それでも、空には必ず月が浮かんでいた。
あの、碧く透明な水を纏った、大きな月が。
アリス達は、アニタを「美しい風景が見られる街」に連れて行くようになった。
それから、アニタの持っている写真集の蔵書に、世界中のビルディング街の夜景が写された書籍が加わった。
実物を観るために、各地の夜景の観光にも、一家で足を運んだ。
アニタは、観光地から帰ってくると、キャンバスに向かって街を描いた。
しかし彼女は、近代美を誇る最新建築には、興味を示さなかった。時代の遺物と言える、古い石造りの建物や、石壁の美しさや、その周りで咲いていた小花や植物を描き、幾ら「宝箱の中のような金色の夜景」を見せても、昼間の空に変えてしまう。
実際の昼間に、その街の風景を観れなくても、アニタの想像力は「昼間の太陽の方向」をイメージの中で見つけ出し、キャンバスの上に美しく陰影を描き出した。
アニタの絵は、「優秀賞」に選ばれるのが、当たり前に成って来た。
その度に、アリス達は「今度こそ最優秀賞を」と、言いたいのを堪えた。それはアニタにとって励ましではなく、唯の圧力であると言う事は理解しているのだ。