第七話「絵を描く人」
干し草用だった家の倉庫で、脚立に乗って筆を振るっている女性を、アリス・フェイボックは満足して眺めている。
「この空の月は、白いんだね」と、女性に声をかけると、画家は声のほうを見て、「少し、銀を帯びているの」と、説明した。
「ああ。なるほど」と、アリスは納得してみせた。
「アニタ。休憩しない?」と言いながら、アガサ・フェイボックがワゴンを押してきた。
木製のワゴンの上には、出来立ての蒸しケーキと、紅茶の用意がしてある。
「良い匂いだ」と、アリスは答えた。それから、画家のほうに声をかける。「アニタ。降りておいで」
アニタはその声に返事をしなかったが、キリの良い所まで筆を振るってから、パレットと筆を片手に、脚立を降りてきた。
アガサはナイフでプディングケーキを切り、皿に乗せると、一切れをアリスに、もう一切れをアニタに差し出した。
ふわふわのプティングには、ソーセージを切った物が練りこまれている。
「この腸詰は、何処産の?」と、アリスは尋ねる。
「二百五十番工場の」と、アガサは答えた。「宇宙プラント産じゃないわ。安心して召し上がって」
「安心したよ。それでは頂こう」
そう言ってから、アリスは皿に添えられていたケーキフォークを手に取った。
プディング生地と、腸詰の切れ端を口に入れ、咀嚼する。
「うん。実に美味だ。やはり、肉は地産地消でなくては」
「大した美食家ですこと」と、アガサはアリスを揶揄ってから、アニタのほうを見る。
「アニタ。美味しいかしら?」
黙って生地とソーセージを食べていたアニタは、こくんと頷いた。
その様子を見て、アガサは楽しそうに言う。
「本当に、無口な子なんだから。もうちょっと感想や意見を言っても良いのよ?」
アリスも口を揃える。
「来週、雑誌のインタビューが来る。けど、また私達に『アニタ語』を解説させないでくれよ? ちゃんと、みんなにもわかる言葉を喋るんだ」
その言葉に、アニタはもう一度、こくんと頷いた。
アニタがフェイボック家に来たのは、生まれて三年が経ってからだった。
人間としての躾を受け、養うのに手がかからなくなってから、フェイボック家にもらわれてきた。
最初は、与えられた玩具をぐるぐると方向を変えて見つめたり、時にはそれを分解して壊すと言う、不思議な癖を見せた。
「物体を多角的に観察することが、好きなのかもしれない」と、アリスとアガサは話し合った。
アニタに積み木や粘土やジグソーパズルを与えて、彼女が「物を観察する」と同時に、「新しい物体を作り出す事」に興味を持つのを、手伝った。
そして二十年以上が経ち、アニタの興味は、三次元の存在を二次元の世界に存在させる……つまり、絵を描く事に注がれていた。
アニタの絵を好む地上人は多かった。見ていると、「まるで吸い込まれそうな気分」に成るらしい。
アリスとアガサは、その絵の制作過程を見慣れているせいか、「吸い込まれる気分」はしなかったが、アニタの絵が世の中で認められたことは、非常に嬉しかった。
アニタが気まぐれに参加した絵画コンクールで、佳作には届かないが、新人賞を得た時、フェイボック家はパーティー状態になった。
何処にそれだけの数の親戚が居たのかと思うほど、親戚や近所の人が集まり、夫々が持ち寄ったご馳走とアルコールを味わって、みんな有頂天になった。
それから、アリスとアガサは、率先してアニタに画材を買い与えた。
最初は、比較的小さなキャンバスに絵を描いていたが、「もっと大きなキャンバスが良い」と言う、アニタの言葉に従っているうちに、見上げるほどの巨大なキャンバスと、絵を描いて保存するために、それまで干し草用だった倉庫を与えた。
唯の麻布を貼った巨大な板が、鮮やかな色彩と幻想的な景色で彩られるのを、フェイボック家の家族は非常に好意的に受け止めている。
フェイボック家には子供がいる。アモンと言う名前の、女の子だ。
アモンは、自分が生まれるより先にフェイボック家に居るアニタが、大変お気に入りである。
だが、絵画と言うものは理解できないようで、仕切りにアニタを絵から引き剥がそうとする。
「アニタ。私、ボールをすごく遠くまで投げられるの」と言ったり、「アニタ。私、縄跳びが出来るようになったよ」と言っては、作業の手を止めさせ、自分の行動を見つめるように要求する。
アモンの親であるアリスは、「アニタの邪魔をしてはいけないよ」と、子供に声をかけるのだが、「だって、アニタと遊びたいんだもん」と、幼い者は文句を言うのだ。
ある日、アニタは作業の手を止め、海の写真集を見ていた。淡くオレンジがかった砂浜に、澄んだエメラルドグリーンの波が立っている。
「今度、海に行ってみようか」と、アリスはアニタに声をかけた。「写真を眺めるのと、本物を見るのは、だいぶ違うからね」
その言葉にも、アニタは、こくんと頷く。それからこう言った。
「こんな海を纏った月は、美しいと思う」
アリスは感慨深そうに、「そうか……。そうだな」と言って、「これから計画を立てる。きっと、アニタのお眼鏡にかなう海を見つけるよ」と告げると、倉庫を去って行った。
数週間後、フェイボック家の四名は、列車で海を目指した。
アモンは、仕切りにアニタに話しかけた。
持っていた図鑑をアニタの前に差し出し、「この年に、チョッパーって言う機械が、万博で発表されたの。それで、何処の国の誰でも、簡単に『挽肉』を作る事が出来るようになったの」と説明する。
「そう。それは便利に成ったね」と、アニタは静かに答えた。
アモンは良い返事が聞けたとばかりに言葉を続ける。
「でしょう? それからね、もうちょっと時代が下ると、『空飛ぶ車』が作られるようになるの」
アモンは、何度も開いたことがあって、開き癖がついているページを開け、そこに描かれている「未来の車」を指で示す。
「こんなの。何で四角い形をしてるかって言うとね、どうしても、車輪がある車に似せたかったみたい。だけど、車輪が無いのに、四角である必要なんてないよね」
「そうだね。おかしいね」と、アニタは答えた。
アモンはどんどん話を続けるが、アニタ達がその話を聞くのは、もう何十回目の事だった。アリスとアガサも、子供の話のくどさには慣れている。
海に着く前に、列車は「畜産場」の前を通った。肉にされるための動物の鳴き声が、舎の中から聞こえてくる。
「此処の動物は、あまり躾が成っていないようだな」と、アリスは言う。「アニタ。気分が悪かったら、音楽でも聴いていなさい」
「いやだぁ!」と、アモンが抗議した。「アニタは、私とお話しするの。イヤフォンなんてしたら、お話が出来ないじゃない。動物の声なんて、みんな平気でしょ?」
「アニタは特別なんだ」と、アリスは子供に言い聞かせた。「常に心を落ち着かせていなきゃいけない。アモン、お前が平気な事でも、アニタにとっては辛いことだってあるんだよ?」
しかし、幼い者は聞かない。
「アニタが特別なんて嘘! アニタはみんなと同じだよ。同じじゃなきゃ、仲間に入れなきゃ、可哀想じゃないの!」
アリスは、どう言い聞かせようか迷った。
そこで、アガサが言い出した。
「アモンは、『エルドナートの十五番』が嫌いでしょ?」
アモンは、それがどうしたと言う風に「嫌いだよ?」と答える。
「動物達の声は、アニタにとっては『エルドナートの十五番』みたいに聴こえるの。それで、耳を塞ぐ必要があるのよ」
大人にとっては、実に筋の通った説得であったが、気まぐれを優先したい幼子は、こう述べた。
「『エルドナートの十五番』は、動物の声なんかじゃないよ。動物が賑やかに騒いでるなんて、長閑で良い音じゃない。それより、アニタ。グランドパシフィック号はね……」
アモンはずっとしゃべり続けようとする。
自分の隣にいるアニタの顔色が悪い事を察したアガサは、子供の言う事は無視して、彼女にイヤフォンをつけた。それから、手元で機器を操作し、交響曲を聴かせる。
アニタの向かいの席に座っていた子供は、それに気づいた。
「だめぇ!」と、アモンは悲鳴のように叫び、アニタの耳に収まっているイヤフォンに手を伸ばす。
ついに、アリスが怒った。
「いい加減にしなさい!」
そう言って、子供の手をぴしゃりと叩き、「他人の心も分からない子供は、黙っていなさい!」と、叱る。
叱られた子供は声を上げて泣き始めた。自分の意向にそぐわない事をされた、非常に不服であると言う風に。
同じ車両に乗っている周りの大人達は、その声を聞いて、何となく「うるさいなぁ」と言う表情をしている。
しかし、アリスは、アモンを、泣いて騒げば何でも自分の思い通りなると思っている子供にはしたくない。アリスは子供の口元をスカーフで縛り上げた。
アモンは、更に火が付いたように叫んだが、スカーフに塞がれた口の中から、その叫び声は外に出られなかった。
海の見えるリゾート地に移動し、フェイボック一家は一等級のホテルに辿り着いた。
クロークに荷物を預け、家族は観光客のたくさんいる浜辺に出かけた。
「アニタ。泳いでみる?」と、ご機嫌のなおったアモンは、うきうきと言う。
「泳がない。見てる」と、アニタは答えた。
「つまんないの」と言い残して、アモンは波打ち際に駆け寄った。
寄せてくる波で足を洗い、砂が引きずられて行く感覚に目を細める。
「アニタ。すっごく楽しいよ。こっちおいでよ」
そう言って、アモンはアニタの手を引こうとする。
「アモン」と、アリスは変わらず厳しい声をかける。「アニタは、自分で、『泳がない』って言っただろ?」
それを聞くと、子供はいじけたように俯いた。
「じゃぁ、後でホテルのプールで泳ごうね」と勝手に約束をすると、波で遊び始めた。
アニタは、白いストローハットを押さえながら、写真よりも透き通った色をした海を、じっくりと眺める。
明日は、もっと人の少ない海を見せてみよう、と、アリスは予定した。